金井闘争を期に足立区に住む

犬塚勝二

東京に出て来たきっかけ

 一九九九年九月十一日早朝、金井康治が急逝した。彼がこんなに早く逝ってしまうとは思ってもみなかったことである。
 彼との出会いは、七九養護学校義務化阻止闘争(注一)で、八〇年一月文部省前での一週間のすわり込み闘争の時であった。そして八一年三月、足立区役所の金網と鉄柵の前で、一ヶ月のすわり込み闘争が闘われ、全国から多くの障害者が駆けつけてきた。私もその中の一人である。それがきっかけとなって私は東京に出て来たのである。
 当時私は金沢で青い芝の会(注二)を経て、一九七六年八月結成された全国障害者解放運動連絡会議で障害者解放運動をやっていた。島田事件(注三)無実の「死刑囚」赤堀政夫さんを奪い返す闘いをはじめ差別を許さない様々な運動に関わっていた。
 私が生まれた頃は、まだ養護学校もなかった頃で、いわゆる軽度の障害児や知的障害の子供たちは地域の学校、それも特殊学級といわれるところに通っていた。そして普通学級と分けられることによって日々繰り返し差別と偏見を受けていたのである。それが義務制度化されれば地域の学校から排除され、近所の子供たちや兄弟とすらも分断され、遠く離れた養護学校へ行かされるのである。
 その後も彼の就学闘争の集会や、子供会など足繁く花畑に通っていた。地域でのビラ入れや会合、時にはなにもなくても康治の家に上がり込んで、勝手に冷蔵庫を開けビールを飲んでいたこともあった。北千住から花畑まで片道二時間、歩いて往復(介護者泣かせの犬塚と異名をとったくらい)したこともあった。
 彼と最後にあったのは、二年ほど前の狭山闘争の帰り道であった。顔は昔とあまり変わらず、子供がそのまま無精ひげを生やしているという感じである。考えてみれば、もう相当いい年のはずだ。「今、どうしてるのか」と聞くと、
「話をしたい」と言うから、
「じゃ一度、家に飲みにおいでよ」と言って、数日後一晩家で飲み明かしたのが最後になってしまった。

ふるさとのこと

 私が生まれ育ったのは、北陸の片田舎、百件あまりの家しかない小さな村である。晴れた日には、ちょっと村はずれに出れば畑や田圃の地平線のはるか彼方に白い雪をかむった白山がぽっかりと浮かんで見える。私はこんな景色が好きだった。二、三歳の頃、母が「島山」と呼ばれていた小高い丘の中腹にある畑に、畑仕事に出かける度に母の背中に負ぶさって行き、畑仕事をしている間私はあぜ道に茣蓙(ござ)を敷いてその上に座って遊んでいた。数匹の大きなアリが茣蓙の上を徘徊して今にも襲ってくるのではないかと思い、泣き叫んでは母の仕事の手を中断させたものである。それさえなければ、広々とした畑のど真ん中でおむすびを食べながら周りの景色を堪能していたものである。「田舎の香水」の臭いも乙なものであった。今の東京の生活と比べると、なんとのんびりとしていたものかと思う。
 話は前後するが、私が生まれたのは敗戦の前の年、一九四四年二月二六日未明、男三人兄弟の次男として産声をあげたのである。生後三カ月頃四〇度の熱が一週間ほど続き、唇も紫色で毎晩寝汗をかいていたという。体中の力が抜けぐったりとなった私をあっちこっちの病院へ診せに行ったが、一年ぐらいどこの医者も原因が分からないとのことであった。
 敗戦後の混乱期ということもあるが父は農家の十人か十一人兄妹の四男坊、当時の尋常小学校しか出てなく、母は九谷焼の絵描きの家に生まれて高等小学校まで出ているらしい。私が生まれ育った家は、どこかの農家の納屋を解体した木材を貰ってきて建てたらしい小さな平屋であった。まだ電気もついてなくランプ生活であった。田畑は借り物で、父は仕事を転々とし、母は私の面倒をみながら和服を縫う仕事をしていたが、一家五人生活するにはかなり苦しいその日暮らしであった。それでも兄弟三人には毎月わずかばかりではあるが小遣い銭をくれていた。兄や弟はすぐに使っていたが、私はコツコツと貯めてほしいものが買えるようになるまでじっと我慢の子であった(今もこの習慣が残っていると思うが)。私は工作が好きで、ベルや豆電球を使って手製のモールス信号機を作って遊んだり、今は最初からモーターだが、その当時は一つ一つ丁寧に慎重にコイルを巻いて作っていた。初めて三極モーターを完成したときの感動は今も忘れられない。
 ところがである。毎月月末に「借金取り」が来ると、母が
「勝二や、母ちゃんいま手元に一銭もないがや。悪いけどちょっとかしてくれまっし。必ず返すさかいに」
と、全部もっていかれてしまう。あとちょっとだったのに、また一から貯めなおしや。
 話が奪銭、いやちがう、脱線してしまったが、私が物心ついた頃はハイハイしかできず、それも腹這いで後ろずさりであった。だからいつも着物の前と足袋の親指の表の方がボロボロだったのを記憶している。六・七才頃からものにつかまって立つことができ、外で遊ぶときは三輪車だった。膝がハンドルに当たって三輪車に乗れなくなってからは、竹製の椅子に腰掛け(小学校にあるような木製だと重くてあがらない)、両サイドを手でもって足で蹴飛ばすと椅子ごと身体が浮いた瞬間に後ろに移動するというやり方で動いていた。
 車椅子が私のところに来たのは十四才ぐらいの時である。自分で動かしやすいように前輪の大きいやつであった。しかし今のように道が舗装されていたわけではなく、動くのに一苦労した。とりわけ緊張するとよけいに手が動かなくなり、バスとか車が来るとその場に立ち往生してしまっていた。前に押す力よりも後ろに引く力が強かったので、バックする方がスムーズに動いたものだ。昔は後ろ向きの生活を送っていたのか。
 冬になると雪の多い地域だったので、
「どうせ使えないんだから」
と玄関の天井の鴨居に荒縄で縛り付けられてしまっていた。その度に、なぜかもの悲しく寂しい思いをしたものである。

就学猶予から就学免除に

 そうこうしながらも物心ついた頃から近所の子等と同じように遊んでいたが(とくに家の中では女の子が多かった)、ふと妙なことに気がついた。午前中とか夕方まで誰もいないのだ。そういえば兄もいない。母に聞くと
「みんな学校に行っとるがや」
「じゃ、なんでウラは行けんがや」
「役場の人が言うがでは、親が付いてこんと駄目ながやて。だけど父ちゃんも母ちゃんも仕事せんと食うていけんから難しい言うたら、そんながやったら三・四年ぐらい「シュウガクユウヨ」にしとくわ、って役場の人が言うとったがやけど、母ちゃんようわからんし、実際連れて行けんがやから我慢して」
「ふーん。ウラもようわからんけど、学校って何しに行くとこや」
「勉強しに行くがや」
「ウラは勉強せんでもええがか」
「母ちゃんが教えたる。これからさき大人になっても生きていくためには文字とか算数とか最低のことは知っておかんと、だちゃかんからな」
という訳で特訓とまではいかないが、より動かない右手に鉛筆を握らされ、字を書く練習と四則演算の練習が始まった。近所から借りてきた雑誌や新聞、兄の教科書のお古。算数はすぐに覚えられたが、漢字の方は大変だった。母の読める限界をはるかに超えてしまったからだ。当時は辞書なんて簡単に手に入らなかったし。
「これ、なんて読むがや」
「母ちゃん忙しいがやから後にして」
 どうやら母の自尊心を傷つけてしまったらしい。
 父はよく、二・三カ月遅れの小学館の「小学×年生」を、月遅れだと安いからとどこかから買って来た。でも付録の工作の方が面白かった。
 弟が学校に行くようになってもまだ私は行けなかった。学校に行くといえば、運動会とか学芸会。家族全員で行った。私に少しでも学校の雰囲気を味あわせようとしたのだろう。しかし私にとって学校に行けないことに変わりはなかった。昼は遊び相手がいないのだ。みんながうらやましかった。とくに夕方、一緒に遊んでいた子供たちが、教師の下校途中に会うと、
「先生、さようなら」
と、いっせいに駆け寄っていく姿を見ると私も言ってみたくてしょうがなかった。「よし、いつかは俺も言ってみよう」と思った。
 そしてついにその時が来た。誰よりも早く道路の真ん中に出て、誰よりも早く大きな声で
「先生、サヨーナラ」
と叫んだ。
 言われた教師はキョトンとしている。みんなもキョトンとした顔で私を見ている。そして何よりも私自身顔中から火を噴いていた。恥ずかしかった。悔しかった。やっぱり俺は、みんなと違うのだ。
 あとで知ったことだが、四年生ぐらいで就学猶予から就学免除になっていたらしい。でも私はその通知を一度も見たことがない。

自立生活

 そして時がたち、私も成人を過ぎてしまった。兄は結婚して子供もでき、その子守をよくさせられたものである。このまま私の人生は終わってしまうのであろうか。そう思うといても立ってもいられず、親の反対を振りきって家を飛び出したのである。
 6年間で施設を二カ所経験し、紆余曲折しながら七四年頃、金沢で自立生活を始めたのである。金沢大学の学生たちが介護に来て、彼らといろいろな運動に関わり始めることになった。ここで初めて青い芝の会と出会い、私の人生の大きな転換期となっていくのである。
 それまでの私は、自分で身体が思うように動かせないこと、障害者であることで自己否定していた。しかし大阪の堺市で彼らと一緒に街頭カンパをしていたとき、彼らは何か用事がある度に介護者を顎でこき使う(少なくとも私にはそう見えた)のを見て、これが青い芝の会のいうところの強烈な自己主張かなと思った。どんな障害を持っていても、一人の人間として認めさせ生きていくことが大切なのだということに気付いたのである。障害を否定するのではなく、障害を武器にしながら障害者である自らを肯定することに。
 そして障害者だからこそ「(介護を)やってあげる、やって貰う」ではなく、差別者と被差別者との関係(介護)を通して、お互いに意識変革を行い社会変革へと突き進んでいくことによって、どんな障害者でも生きていける社会を共に築きあげていけるのだということに。

障害者が歩けば差別にあたる

 犬も歩けば棒にあたるではないが、障害者が一歩外に出れば、いや生きていこうとするだけでいろいろな差別とぶつかる。先日、府中療育センターを視察した、石原慎太郎東京都知事の差別発言・差別意識はその一例だろう。くしくも十月五日に逝去された猪野千代子さんは、この府中療育センター闘争(注四)を闘い自立をかち取ってきた障害者解放運動の草分け的存在であった。
 私が経験し感じてきた数多くの差別のごく一部であるがいくつかあげてみよう。もっとも私自身いろんな差別意識を克服しきれていないことを前提にしてではあるが。

 一 公共建物の階段
 省庁や裁判所などでよくあることだが、入口はほとんど階段である。階段は権威の象徴を表現するものだそうだ。スロープが付いていてもたいていは裏口や、ぐるっと遠回りしないと中には入れない。極端なところではたった二・三段の階段でも少し離れたところに付いている。

 二 鍵のかけられた駅
 つぎに駅の話であるが、障害者が徐々に街に出るようになってから急いで付けたのであろう、改札から少し離れたところにスロープが付いていて、直接ホームまで行けるようになっている。ところがである。普段は厳重に金網で囲ってあり、入口には鍵がかかっている。利用するときはインターフォンのボタンを押して駅員が鍵を開けに来るのを待たなければならない。合理化によって駅員が少なくなっているからなかなか来ない。その間に電車が何本も行ってしまう。「ありがとうございました」と素直に礼を言えば、障害者のために貢献してやれたと、彼らは自己満足に陥るのだろうが、当然にも「なんで、いつでも通れるように開けておかないんだ」と抗議をする。最初は、
「いつも開けておいたら、子供たちが遊び場所にして危険だから」
「それじゃ、障害者ならそんな危険なところを通ってもいいと言うんか」
「いや、そういう意味じゃなくて、みんなが勝手にここを通るから」
それはそうだろう、障害者が通りやすいということはみんなも通りやすいわけだから。なにも階段を登り降りしてホームに行くよりも、スロープを通った方が楽に決まっている。スロープよりもエレベーターの方がもっと楽なわけだから。
 エレベーターといえば、近年高架化が進んでいて、エレベーターを設置している駅が少しづつ増加している。あるいは駅ビルのデパートのエレベーターとの併用も多い。しかし前述したスロープと同じように普段は鍵がかかっている。またデパートが休みの時や夜はエレベーターは使えない。そしてまた駅員との言い争いになるのである。(小田急線、西武池袋線、名古屋の名鉄等々)結局のところは
「お前ら障害者は電車に乗るな。施設や家に引っ込んでいろ」
というのが結論である。

 三 自動改札「どこまで痛めつかるのか」
 これも、合理化のせいで自動改札がどんどん増えてきている。それでなくても通りにくかった改札がますます狭くなってしまった。苦肉の策か端っこに一つだけ、車椅子でも楽々通れる改札があって、切符にハサミを入れるのではなくてハンコである。そういえば切符にハサミを入れる駅は、もうほとんど見受けられなくなった。昔はラッシュ時になると各改札で一斉に、カチカチとなり響く、あのハサミの音が今は懐かしく思われる。それにしても腹立たしいのは、「一人の乗客の切符にハンコを押している間に他の乗客が何人も通り過ぎていく」と、いう理由で遮断機のようなものが取り付けられたことである。改札を通るとき、「ちょっと下がって」と言うが早いかその遮断機が脚の上にバタンと落ちてくるのである。その度に抗議するのだが、黄色の硬めのボードからゴム製のようなちょっと柔らかいものに変わっただけである。脚が痛いという気持ちよりも、この耐え難い屈辱感は誰にもわからないであろう。介護者には「落ちてくる前に突っ込め」と言うのだが、躊躇するために結局脚の上に落ちてくるのである。
 JRなど、このところ階段の昇降機を取り付けているところも増えてきているが、いちいち鍵を取りに行ったり操作もあまりわかってないのか、引っぱり出して乗るまでにかなり時間がかかる。それも駅員が五・六人も来て、あーだこーだと言ってる間に階段を昇った方がよっぽど早い。

 四 差別煽動を生み出す道具「エスカレーター」
 エスカレーターもまた然りである。東武線系列でかなり多いのだが、エスカレーターの一部が四・五段ぐらい平らになるところがある。これを利用するとき(と言うより無理矢理利用させられようとするのだが)、エスカレーターというのは、普段は昇りになっているときが多い。これを降りるとき、駅員がエスカレーターの昇り口にロープを張り、一般の乗客が昇って来ようとするのを制止してから、エスカレーターを逆回転させて平らな部分が出てきてから停止させ、そこに車椅子ごと固定させてから降りるのである。この間約十分ほど他の乗客は階段を昇ることになる。他の乗客の珍しいものでも見るような目と突き刺すような視線を感じながら降りていくのはまだ耐えられるが、たまたま歳をとった女性が一緒に乗って来ようとすると、駅員が慌てて、「お客さん、危ないですから後にして下さい」と止めにはいる。
「なんでだよ、どうせ降りるんだから一緒に乗せて上げればいいじゃないか」と私が言うと、駅員は、
「いや、危険だから」
「じゃ、なぜそんな危険なものに障害者を乗せるんだ」
 ますます周りが嫌悪な空気と白けた雰囲気に包まれるのは、みんなも想像するにたやすいであろう。せっかくのエスカレーターが障害者差別を助長し、差別煽動の道具と化していくのは、私一人の思い過ごしであろうか。
 たとえば一つの駅でより多くの乗客を合理的に処理するには、エスカレーターと階段を併用して使えば効率的だということを聞いたことがある。そこに障害者が登場すれば、社会の流れが乱れるのは当然である(なにも駅だけに限ったことではないが)。それが資本主義社会の論理だと言ってしまえばそれまでだが、私はなにも階段を全部スロープやエスカレーター、エレベーターにしろと言っているわけでもない。また逆にスロープやエレベーターを否定しているわけでもない。「障害者の社会参加と平等」を唄い文句に、これら(エスカレーター・エレベーター)を利用していく過程において、障害者と一般の人たちとを分断し、差別煽動・差別の助長をすることが許せないのである。
 また、社会から阻害されてきた障害者が、みんなと一緒にみんなと同じ階段(エスカレーターでもエレベーターでもいいが)を昇ることによって、さまざまな出会い、さまざまな人間関係を築き上げていくことによって社会変革がなされていく、そういった機会すらもまた奪い去られていく、そのことが私には恐いのである。

 五 誰が主体
 笑えない冗談を一つ。そびえ立つような駅の階段を前にして、介護者の口から発せられる言葉、
「車椅子を上げるのを手伝ってください」
と、周りの人に声をかける。
「じゃ、俺はどうするんだよ」
というと、介護者はキョトンとした顔をしている。「俺は、車椅子から降りればいいのか」
 ようやく意味が解ったのか、
「それじゃどう言えばいいんですか」
「単に、階段昇るのを手伝って下さい、と言えばいいんじゃないのか」
 ただの屁理屈に聞こえるかもしれないが、障害者自身の主体が抜かされているのである。買い物に行ったり、どこかへ遊びに行ったときでも、店の人は私には聞かずに介護者に話しかけるのである。会議や集会などに参加しても、「車椅子何台出席」と集約されてしまうのだ。結局のところ、障害者は「優しいお兄さん、お姉さん」に連れられてきた「人」になってしまうのである。

 六 障害者用トイレ
 最近ではかなりの公共建物に障害者用トイレが作られているが、二十年ほど前まではあまり普及していなかった。あるデパートで小便をしようと一般のトイレに入ろうとすると、オジサンが飛んできて
「障害者のトイレならあっちの方にあるよ」
と言う。本人は親切のつもりで言っているのだろうが、小さな親切大きなお世話だ。しかし教えられたとおりに行ってみると、デパートの隅っこのあまり目立たないところにかなりのスペースを取って作ってあった。デパートからすれば、「障害者用のトイレは作ってありますよ」と宣伝と匿ったところにあることによって障害者に対する配慮のつもりであろうが、これそのものが問題であるが、一般のトイレの中に三個分ぐらいの便器のスペースさえあれば充分事足りると思う。それに電動など一人で来た障害者は、周りに人がいない場合はどうするのだろう。トイレの中での人間関係も障害者にとっては重要なのである。

 七 介護者
 これは「介護者ノート」に記載すればいいことなのであろうが、家の中での出来事をいくつかあげてみよう。
 もう介護に来なくなってから久しいが、その日も朝来てから、ひとしきり野球とかサッカーの評論をしてから、なにを思ったのか彼は炊飯器のふたをいきなり開けて、まだ残っていたご飯の臭いをかいで、
「うん、まだ大丈夫だな」
と、鍋でレトルトカレーを暖めご飯を食べだしたのである。それもすぐ横にいる私には声もかけないで。なおかつ一人で。私は何事が起こったのか状況もつかめず、しばらく茫然としていた。私はなにもご飯を食べるなといっているのではない。一言、例えば、
「ご飯、食べるよ」
と言えば、
「ああ、いいよ」
ですむ話である。
 彼は自宅から通っていると言っていた。当然親や兄弟もいるはずである。どういう家庭環境で育ってきたのだろうか。親の顔が見てみたい。それとも、ここがいわゆる「解放区」だとでも思ったのだろうか。東京大学では、なにか運動をやってるようだけど、障害者はまだ差別から解放されてないというのに、自分だけが解放されてると錯覚しているのだろうか。とにかくなにを考えているのか解らない人であった。これほど極端ではないが他にも何人かいる。
 これも不思議な話だが、何回言っても同じことを繰り返す人がいる。私は毎晩のようにテレビを見ながら晩酌をしている。時には酔いながら、自分の過去のことや周りのこと、その日の出来事やニュースの背景、社会批判などを一緒に話したりしているのだが、彼の場合はしばらくは一緒に飲み食いしながら話しているうちに、すぐゴロッと横になって寝てしまう。昼間働いて来るので疲れているのはわかるから、そのことについてはとやかく言うつもりはない。問題は私が床に就いてからである。がちゃがちゃと大きな音を出しながら食器の後かたづけはまあいいとして、一度消した見もしないテレビをまたつけて(ながら族の頃の習性だと思うが)、自分の布団を敷き終えてから新聞を読んだり、昼間やり残した仕事を始めるのだ。ここまではまだ許容の範囲である。ところがものの三十秒も経たない内にいびきが聞こえてくるのだ。当然テレビはつけっぱなし、私の寝室以外の電気もつけたままである。
 私が施設にいたとき、隣のベッドにいた人のいびきは信じられないかもしれないがまるで雷のごとく、それも寄せては返す波のような往復のいびきであった。この人のいびきを丸五年間聞きながら寝てきたし、その後この人のいびきを上回る人とも出会ってないからどんなにすごいいびきでもほとんど気にならない。私が言いたいのは、彼自身すぐに眠ってしまうことをわかっていながら、テレビや電気をつけたままにしとくことである。電気代がもったいないということもあるが、テレビの音や明かりで私が眠れないことである。それとやり残していることがあるのなら、なぜ私が起きている間にやらないのかだ。
 前述の彼の場合はすぐに寝てしまう例だが、別の人の場合は、私が起きている間居眠りをしていて、私が就寝すると明け方近くまでごそごそとなにかをしている。さすがにテレビはついていないが、私が目を覚ますと電気はつけたままで寝ているのである。
 またある人は、朝の交代時間に遅れないようにと、たぶん夜はほとんど寝ないで来たのだろうと思うのだが、泊まりの人が朝起きてつけた電気やテレビをそのままにして寝てしまうのだ。おまけにアイマスクまでつけて。
 以上極端な話と思うかもしれないが、これが現状である。確かに昼と夜が逆転している人も多いが、これはなにも今に始まったことではない。昔は明け方近くまで飲みながら「激論」を(今は十一時頃には床に就いている)交わし、一睡もしないで集会や闘争に行ったことも多かった。そういう意味では、差別とは何か、介護とは何かなど介護者との会話の時間が少なくなってきているのは事実である。実際いろいろな形での差別は多くなっているし、解放もされていない。
 くしくも私は今、一ヶ月間座り込んだ区役所がもとあった場所の近くに住んでいる。冒頭述べたように、金井康治はもう逝ってしまった。猪野さんももう今はいない。彼らの死を無駄にしないためにも、まだまだ頑張らなければ。 

注一 七九養護学校義務化阻止闘争 一九七九年(昭和五四年)四月一日から、養護学校の義務教育化が始まった。それまで校区の普通学校に通っていた障害児が養護学校に強制されるということで、全国で闘う障害者を先頭に義務化阻止闘争がわき起こった。西の梅谷、東の金井が阻止闘争の代表的存在といわれている。

注二 「脳性マヒ者自身による共同体・マハ・ラバ村」(一九六四年大仏空(おさらぎ・あきら)という僧侶を中心に設立・茨城県南閑居山) 一九七〇年代初頭、矢田竜司、横塚晃一、横田弘ら、日本脳性マヒ者協会・青い芝の会神奈川県連合会を結成する。その後全国に広まり、全国青い芝の会を設立。

注三 島田事件 一九五四年三月静岡県島田市で幼稚園児が連れ去られ、絞死体で発見された事件で、同年五月二四日当時二四歳の赤堀政夫氏が別件逮捕。一九六〇年最高裁が上告を破棄し死刑確定。再度にわたる再審請求の結果一九八四年三月一二日無罪が言い渡された。

注四 府中療育センター闘争 府中療育センターは、美濃部都政期にそれまで座敷牢的生活条件に追いやられていた重度・重症の障害者に対する医療・福祉を保障する場として建設された施設ある。そして、開設後「障害者の意志を無視した」センターの運営を巡って当事者である障害者から厳しい告発糾弾の運動が展開された施設でもある。


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