内 輪   第362回

大野万紀


 10月のSFファン交流会は、10月24日(土)の14時からオンライン(Zoom)で開かれました。
 テーマは「隣の本棚事情2020」。北原尚彦さん、渡辺英樹さん、中根ユウサクさんに、ぼくもゲスト参加して、各自の本棚の写真から、本の管理法などを紹介しました。
 ぼくの本棚は他の人と違って本当にぐだぐだ本棚で、これはまあ親しみがあっていいのでは。自室と物置部屋の本の写真を紹介したのですが、倉庫部屋は20世紀(に買った)本、自室には21世紀の本が主にあるとはいえるけれど、もはやカオス状態です。仕事に使う場合はがんばって掘り出し、箱にまとめるのだが、どうしても取り出せない本は仕方ないので買っちゃう。そんなダブり本は何ヶ月に1回か、まとめて古本屋へ処分です。
 本来は服を入れるプラスチックケースに本を詰め込んでいるのですが、詰め込み過ぎると変形して引き出せなくなるので要注意。買った本は積み重ね、読んだ本もまた積み重ねていきます。新刊はすぐ取り出せるけれど、古い本はだんだん取り出せなくなります。でも床には積まないようにしているのは、昔SF研の友人が部屋の床一杯に本を敷いてその上で寝ていたのを見て、あれはやめようと心に誓ったからです。
 それからスマホでzoomにつないで、歩きながらリアルタイムに部屋の様子を撮影していきます。他のゲストの方もみんなスマホでのリアルタイム中継があって、それがやはりオンラインならではの迫力があり、これはとても面白いと思いました。

 11月のSFファン交流会は11月21日14の予定で、テーマは「新たな時代の海外SFが読みたい!」。ぼくは今度もゲストとして参加します。メインは橋本輝幸さんが今度出る海外SFアンソロジーの話をされるのだと思いますが、ぼくの他に冬木糸一さんも出演される予定。ぼくはもう、最近の海外SF事情にはさっぱりなので、お話を聞くのが楽しみです。 Zoom使用。無料ですが要予約です。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『GENESIS 創元日本SFアンソロジーⅢ されど星は流れる』 小浜徹也・笠原沙耶香・石亀航編 東京創元社
 宮澤伊織「エレファントな宇宙」は「神々の歩法」、「草原のサンタ・ムエルテ」に続くシリーズの3作目。宇宙から飛来した狂った高次元生命体が人間に憑依し、凄まじい破壊を繰り広げる。それに立ち向かうのはサイボーグ化された特殊部隊と、同じく憑依されたが人類の味方になった二人の女性。今回の敵はアフリカに到達していたが……。タイトルはやっぱり「エレガントな宇宙」のもじりなんですかね。相変わらず迫力満点で、敵の行動が独特なのと、銃砲のような人間の武器でもある程度は効果があるという点が面白い。
 空木春宵「メタモルフォシスの龍」は、失恋すると女は蛇に、男は蛙に変身してしまうという奇病により人類が分断された世界を描く、奇想SFというか怪奇幻想小説だ。変身が進むと本当の蛇や蛙になってしまうが、それまでの半蛇・半蛙の段階では人の心があり、彼女らは〈街〉と呼ばれる地域に寄り添って暮らす。半蛇は恋した男を喰おうとし、半蛙は喰われようとするが、この非対称性が哀しくも面白い。発症していない人間ばかりの住む〈共同体〉では恋愛禁止。また男だけの〈島〉もある。しかしそういった設定面よりも、ここでは〈街〉に暮らす半蛇のルイとそこに転がり込んだ十六歳のテルミの切ない関係性、そしてテルミの隠す秘密にこそ物語の中心がある。
 オキシタケヒコ「止まり木の暖簾」も「What We Want」、「平林君と魚の裔」に続く〈通商網〉シリーズの3作目。ただし宇宙は出てこず、前二作で大活躍した宇宙商人、バカな大統領のせいで身売りされてしまったアメリカ人の最後の一人であり、大阪で育ったせいで関西弁コテコテのスミレの生い立ちを語る、シリーズの前日譚である。「とまりぎ」は大阪の小さな居酒屋兼大衆食堂の名前。スミレはそこで住み込みのバイトをしていたのだ。両親が亡くなり身寄りは末期ガンで入院しているお祖父ちゃんだけというスミレを、まだ若いのに三代目となって店を切り盛りする茜が引き取ったのだ。茜や茜の母、茜の兄に同級生など、関係者への聞き取りレポートという体裁の物語だが、しみじみ笑いのある浪速の人情譚となっている。松竹新喜劇かじゃりン子チエかという感じだが、これがあのぶっ飛んだスペースオペラにつながっていくんだなあ。〈通商圏〉の異星人って、みんな関西人なんとちゃうか。
 このアンソロジーには小説以外のものも毎回収録されるが、今回は池澤春菜と下山吉光という声優二人の対談で「プロの覚悟を届けたい――朗読という仕事」。オーディオブックを朗読している二人が朗読という仕事について語っている。声を出して本を読むということが、なかなか大変なプロの仕事だということがわかる。こういうのを読むと、著者による朗読というのはまた違ったものなのだろうなと思う。
 松崎有理「数学ぎらいの女子高生が異世界にきたら危険人物あつかいです」は異世界転生もの。タイトルもなろう系っぽい感じだけど、どっちかいうとそのパロディめいた寓話である。頭はいいが数学が嫌いな女子高生が中世のような異世界に転移する。そこは権力者が数学を禁止し、数学を語るものを捕らえて処刑するという世界だった(商売の算数程度なら許されるみたい)。うっかり解の公式を使ったばかりに彼女は捕まるが、数学好きの人間が集まった組織に救われる。そこでこれが数式を使わない数学パズル、公式の記憶や計算よりも数学的な論理の面白さを楽しもうとする物語だとわかる。物語は単純で、ちゃんとハッピーエンドで終わる。数学があまり得意でないがパズル好きという高校生や、頭の体操がやりたい高齢者が読むと楽しめるのではないか。
 堀晃「循環」は本書の中でも要となる傑作短篇である。短い作品で、最後の一章を除けばこれをSFとはいえないだろう。作者自身を思わせる主人公(いや作者自身に間違いない)が、紡績会社の研究員として測定器を開発し、やがて独立して小さな事業を立ち上げ、やがて解散するまでの半生を、大阪キタの川の流れと風景の中を歩きながら思い起こしていく。その一部はぼく自身の思い出とも重なっている。この小説はそういう土地と人と職業の思い出を描くものだが、SF作家としての堀さんは、その中にお雇い外国人として来日し、大阪の河川工事を行ったエッセルの名前を挙げ、その子があの版画家のエッシャーだったことを書き留める。そしてエッシャーの滝の絵のように時間の中を循環し、反復していくイメージを、測定器開発の元となったある部品を通して、最終章でSF的な想像力いっぱいに見せつける。それはSF作家の想像力であって、事実かどうかは関係ない。しかし、何と壮大で美しく心に響くイメージではないだろうか。
 宮西建礼「されど星は流れる」も堀晃作品とある意味同期しているような傑作だ。こちらもSF的な飛躍なしに、コロナ禍のリアルな現実の中での高校生たちの天体観測を描きながら、遙かな宇宙への想像力、過去から続く多くの人々の科学と宇宙への眼差しが、じんわりと感動を呼ぶ作品であり、いわば理科小説・科学小説である。コロナ禍(感染症と書かれているが)で学校が休校となり、天体観測ができなくなった天文同好会の二人、部長のわたしと新入生のミユはそれぞれの自宅から流星の同時観測を始める。ミユの発案で系外天体からの流星を探すことになり、市の流星観測会に協力者を得てビデオカメラを使った観測を行うことになる。直接的な恋愛感情は全く描かれないが、とても甘酸っぱい青春小説である。なんかもう、思い出すなあ。ぼくらのころはこういう観測方法はなくて、直接的な観望会と、せいぜい冒頭にあるようなやり方だけだったが、それでもワクワクしたものだ。だがこの作品がSFアンソロジーに載っている意味は、そんな地味な地上の流星観測が、遙かな太陽系外の宇宙へとつながっていくところにある。そのイメージの広がり。ロマン。じっくりと遠くの夜空を見つめたくなる。
 創元SF短篇賞は、折輝真透「蒼の上海」。目に見えるものが現実とは限らない中での迫力あるアクションとか、読ませる話ではあるが、世界設定がとても複雑でわかりにくい。蒼類という蒼い生命体(よくわからない)が地球上を覆い尽くし、地球は海の上に蒼い海があるという状態になっている。人類は海底都市に逃れ、さらには肉体を離れてオウスラと呼ばれる巨大な海藻と共生し、集合生命体のようなものになっているようだ(よくわからない)。その人類が、遺伝子操作で元の人類の体に近いイレニアムという使役種族を作り出し、かれらに様々な仕事をさせている。この物語の主人公はイレニアムで、蒼い海に覆われた上海に潜入し、蒼類の活動を抑えることのできる陸生サンゴ、アマノリスを採取する任務を負っている。蒼い海の中で活動するにはタイムリミットがあり、さらに通信回数にも制限がある。面白いんだけど、条件が複雑すぎて最終的な勝利条件が何かよくわからないし、設定そのものも絵としてはいいが、具体的にはよくわからない。蒼類は相転移して繊維状になり、肉体に入り込んで操作するようだが、その前は液体? 気体? 密度は? 重量や圧力は? 上海には今でもVRで海底の映像が映し出されているようだが、そのエネルギーは? 色々と気になってしまうのだ。
 選評によると、夜来風音「大江戸しんぐらりてい」というのが破天荒で滅茶苦茶面白そう。こっちも読みたいな。

『宇宙(そら)へ』 メアリ・ロビネット・コワル ハヤカワ文庫SF
 2018年に出版され、ネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカル賞を受賞した改変歴史の宇宙開発SFである。1952年、アメリカ東部沖の大西洋に巨大隕石が落下。ワシントンDCを始めとする東部の諸都市が壊滅する惨事となる。アメリカはその被害から比較的短期間で立ち直ったが、科学者たちは大気中に舞い上がった水蒸気により、近い将来回復不能な温暖化が進行し、誰も地球に住めなくなることを明らかにした。そこで、1950年代という時代に宇宙開発を進めて、人類を月や火星に移住させようとする国際的な大プロジェクトが始まることになる。
 しかし本書で描かれるのは、1958年に人類が初めて月に着陸しようとするところまでだ。その後の物語はすでに中編「火星のレディ・アストロノート」で描かれ、また本書の続編(現在1編とその姉妹編が出版されており、さらにその続編も出版予定とのこと)で描かれるのだろう。
 というわけで、本書は人類の存亡のかかったパニックものというより、ほぼ完全に改変歴史での宇宙開発ストーリー、そしてそこで女性が大きな役割を果たすことになるという物語である。
 本書の時代というのはぼくが生まれたばかりの時代で、現実にスプートニクが打ちあげられる1957年の、その同じ頃に月着陸が行われるというちょっととんでもない話なのである。20年近く前倒ししてほとんどゼロからの宇宙開発がなされるわけで、それをドライブするのは、人類全体の危機ということだろう。それはいいのだが、本書ではあまりそこのところは深追いされず、ほぼ一直線にたった5~6年で月へ行けるようになるのだ。いくら何でもという気がするが、実際には読んでいてそんなに気にはならなかった。ストーリーが抜群に面白いからだ。そして登場人物たちが(悪役も含めて)とてもキャラ立ちしているからである。
 主人公はやがてレディ・アストロノートとなるエルマ。彼女は第二次大戦中は優秀な女性パイロットとして戦争に参加しており、また複雑な数学的計算を瞬時にやってのける数学的才能ももっている。そして何よりも、空を飛びたい、宇宙に行きたいという強い意志をもち、また50年代の厳しい男尊女卑の(そして彼女自身は白人だが、人種差別の)風潮の中で、それに決然と抗っていこうとする人物である。現代のアメリカ女性を50年代に持っていったということではなく、彼女は遙かに厳しい時代背景の中で、自分の力で高い壁に少しでも風穴を開けていこうとした先駆者なのである。そこには映画『ドリーム』で描かれたような、現実の宇宙開発の背後で活躍した女性たちの姿が、また大戦に従軍した英雄的な女性パイロットたちの姿がこだましている。ぼくにはティプトリーの姿も見えたような気がした。
 彼女にはまた、学生時代のトラウマから人前でパニックになりがちという障害があり、それを克服できない弱さもある。重要な判断や決断にあたっててもそこからくる人間的な迷いが現れる。夫のヨークはめちゃくちゃいい人なので、彼女をフォローしてくれる。でもまあこの夫婦、何かといえばいちゃいちゃしていて、お熱いことで。ただ彼はいい人ではあっても存在感は薄い。敵役のパーカーの強烈さに完全に負けている。パーカーこそ本書のもう一人の主役といっていいだろう。
 エルマが成功するのはわかっているので、やや予定調和な感じはあるものの、彼女たちの苦闘は本物であり、長い物語も退屈することはない。読みやすい翻訳とも相まってとても面白く読み終えることができた。

『時間旅行者のキャンディボックス』 ケイト・マスカレナス 創元SF文庫6
 原題はTHE PSYCHOLOGY OF TIME TRAVEL、タイムトラベルの心理学といった意味だが、訳題では本書の中で重要なアイテムとして使われるキャンディボックスが前面に出ている。このキャンディボックス、本書ではただの菓子箱ではなく、中に小さなタイムマシンを仕掛けたおもちゃで、その中にキャンディを入れると消滅し、数分後未来に現れるというものだ。タイムトラベルがおもちゃになるくらい、当たり前のものとなった世界の物語である。
 別の世界のイギリス。1967年に4人の女性科学者によってタイムマシンが発明され、時間旅行が可能となる。未来へも過去へも行けるが、時間線は一つだけで、分岐もしないし、タイムパラドックスも起こらない。過去の自分と未来の自分が同時に存在し、互いに話もできる。そういうことになっている。作者はこのタイムトラベルの原理や一つの時間線ですべてが閉じているという設定について、詳しくは語らない。そこはそういうものだ、と思うしかない。
 でもいったんそういうものだと決めた後の、過去も未来も知ることはできるが変えることはできないというルールの下では、物語はきわめて論理的に、精緻に描かれていく。自分や家族が友人が、いつどうやって死ぬかもわかっていて、互いにそれを知っているという状況の中では、タイムトラベラーの精神はどんどん病んでいく。死は大したことではなく、起こるべき事故も当然のこととして受け入れる。タイムトラベラー以外の人から見れば、ほとんど狂人たちだ。年齢の違うタイムトラベラー(同一人物)が何人も集まってパーティで踊り狂うなんて描写には笑いながらも魅了される。
 そんなタイムトラベルは誰でもできるわけではない。発明の直後からそれを厳格に管理する国家からも独立した組織〈コンクレーヴ〉が作られ、独自の法律と通貨をもってタイムトラベラーたちを支配し、タイムトラベルを独占している。その試験に通った者だけがタイムトラベラーになれるのだ。
 〈コンクレーヴ〉の頂点にいる独裁者がマーガレット・ノートン。タイムマシン開発者の一人だが、強烈な意思をもってこの組織を作り上げた。彼女がこの物語の悪役となる。彼女の心一つで、多くのタイムトラベラーがひどい目にあわされているのだ。
 本書の中心となるのが、2018年に起きる謎の殺人事件である。死体発見者のオデット、彼女のトラウマに関わる心理学者のルビー、ルビーの祖母で、タイムマシン発明者の一人ながら精神に障害を起こして組織から追い出されたバーバラ、そしてやはり発明者の一人でルビーの前に謎めいた現れ方をするタイムトラベラーのルシール、そんな女性たちの日常と、ミステリー的な謎解き、そして人種や性を越えた愛と憎悪が、視点人物と時間を越えて交互に描かれていくのだ。
 視点人物が変わり、過去や未来がくるくると入れ替わる構成に初めはとまどうが、ストーリー自体はストレートなので、すぐになじむ。事件現場にタイムトラベルすれば(たとえ事件の発生を防ぐことはできなくても)、被害者も犯人もすぐわかるじゃないかと思うだろうが、そこは読んでのお楽しみ。訳題にあるキャンディボックスがうまく使われている。
 これが作者のデビュー作だということだが、ややこしい設定を上手にコントロールしていて面白かった。〈コンクレーヴ〉の異常な閉じた社会がなかなかに頭がおかしくて良い。ただこの人たち、本来の仕事は何をやっているんでしょうね(未来の役に立つものを持って帰っているという描写はあるが)。


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