内 輪   第342回

大野万紀


 映画「アリータ バトル・エンジェル」を見てきました。
 原作の『銃夢』は読んでなかったのですが、全然問題なし。とてもわかりやすいストーリーです。世界設定にはやや不可解なところもあったけれど、気になりません。
 アリータがマンガみたいに大きな目をしていて、違和感あるかと思ったらそうでもなかった。わりと平気。むしろ可愛い。
 とにかくバトルシーンがスピード感あってかっこ良くて、ヒロインがめちゃくちゃ強くて、スカッとします。
 未来SFではよくある風景ですが、破滅的な戦争後の、雑然とした街の風景も好き。
 で、続編は?

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『万象』 斉藤直子編 惑星と口笛ブックス
 惑星と口笛ブックスから電書で出版された、日本ファンタジーノベル大賞受賞作家21人による、ほぼ全作書き下ろしのアンソロジーである。原稿用紙1020枚超、34編が収録されている。さらに斉藤直子の「まとめ人日記」つき。電書でないとできないような膨大なアンソロジーだ。
 一応<恋人たち>、<働く人々>、<幻想博物誌>、<象を撫でる>、<停電の夜>という「お題」はあるが、SFやファンタジーという縛りはなく、作家たちが自由気ままに作品を寄せた同人誌という雰囲気がある。
 最も印象的だったのは、小田雅久仁「よぎりの船」だ。この世の物ではないものが視界をよぎるというありがちな物語が、力強いリアルな想像力によって遙かな高みにまで到達する。これはまた、西宮と北大阪のご当地小説でもある。
 仁木英之「千秋楽」は中華歴史小説が結末でSFとなり、西崎憲「東京の鈴木」は世界の裏側で謎のままにエスカレートしていく不気味さが恐ろしい。斉藤直子「リヴァイアさん」も世界の不思議がコメディタッチに描かれていて楽しかった。
 北野勇作「真夏の恋人」は地下街もので、真夏というのにぞっとするほどの極寒の恋人たち(しかもペンギン)が描かれる。
 沢村凜「優しい手」は村の因習を嫌い、皆のかかる「病」にも無縁な女が、ついにその「病」に冒され、皮肉なことに「伝説」となる。
 涼元悠一の「白い車」はSFでもファンタジーでもないが、新車を買った父と子供たちの喜びから、次第に見えてくる真相が本当に恐ろしい。
 日野俊太郎「ヒトノムコトリ」はキツネの嫁入りの裏返しだが、日本的な幻想と恐怖の裏に、諸星大二郎や水木しげるのようなコミカルなホラーの要素がある。
 三國青葉「爆裂しすたーず」は徳川秀忠の浮気事件から始まり、超能力をもつ絶世の美女姉妹が侍たちを相手に派手な大立ち回りを見せる。時代小説風の重厚な地の文と、チートな強さをもつギャグっぽい姉妹の描写とのちぐはぐさが面白かった。

『星系出雲の兵站 3』 林譲治 ハヤカワ文庫
 3巻目だが、まだ終わりではなかった。
 ガイナスに占領された準惑星天涯を巡る戦いは続く。天涯へ降下したアンドレア大尉らの特設降下猟兵小隊は、そこで活動しているガイナスたちの威力偵察を行う。この描写が実にドキドキものだ。未知の世界を少しずつ解明していく。何が起こるかわからない恐怖と、発見の驚き。ストーリーは基本的にこの天涯での偵察とその後の戦闘を描くパートと、出雲星系と壱岐星系の内部の政治的・経済的な動きとが並行して語られる。
 敗戦の責任を取る形で閑職に去った火伏少将は、後任の真面目で有能だが地味で目立たない吉住大佐に兵站の統括を引き継ぎ、久々に妻と再会する。その妻、八重こそ、壱岐の兵器産業の再編をもくろんでひそかに活動しているのだった。
 タイトルに兵站とあるぐらいだから、兵器の生産、移送、サプライチェーン、運用とそのシステムが、社会と経済全体に関わるものとして重要視される。なので半分は現代の、経済小説と呼ばれるものに近いものとなる。もっともここで描かれる企業の姿は、今の世界を支配する多国籍企業というより、やや古めかしい日本の財閥的なものを思わせる。その跡目争いに、より近代的な経営手法を携えて、外資が乗り込んでくるといった構図だ。
 そしてそういう地味目な話の中に、マッドサイエンティストによるとっても派手な(アニメっぽい感じがある)新兵器が登場する。しかしそれも「戦場において、兵器はすべて消耗品である」と帯にも引用されているとおり、神格視するのでなく、単なる使い捨ての兵器の一つとして扱う視点がある。現場での使い方を考え、どう運用して、効果を上げるかという、そういうリアルな合理性が本作を支配している。
 本巻の最後では一つの勝利が描かれるが、ガイナス側の実体はいまだにほとんど明らかにされない。そして次巻へとつづく恐ろしい一文で幕を閉じるのだ。いったいどうなるんでしょう。

『居た場所』 高山羽根子 河出書房新社
 芥川賞候補作となった表題柞と、他2編を収録する。
 「居た場所」は「文藝」誌に掲載された中編で、中国(と思われるがはっきりしない)の離島から介護の実技実習のため日本に来て、私と結婚することになった小翠(シャオツイ)の物語である。彼女は働き者でがんばり屋、私の家の仕事を手伝い、癌になった私の母の看護をし、母が亡くなると母の代わりに役所の仕事もする、インターネットも自在に扱う。
 そんな私と小翠の現代の日常の中に、少しずつ異物が紛れ込んでいく。作者の作品らしく、その異物はまずはタッタという謎の小動物として現れる。そして緑色の不思議な液体(小翠の名にも翠が含まれている)や、Googleマップでは見えない土地――。
 私は彼女の故郷の島に挨拶に行って両親とも会ったし、今「初めて一人暮らしした場所に行ってみたい」という彼女と共に、大陸の海沿いにあるその都市に来て、ホテルにチェックインし、普通に観光もしたし、彼女が住んでいたという地図にない市場の一角にある、今は誰もいない集合住宅も実際に訪れた。なのに目の前の現実と世界とは微妙にずれていき、不穏な雰囲気が高まっていく。そしてやはり作者の作品らしく、その違和感は解消されることはない。その余韻が心にいつまでも残る。
 もちろん、複数の現実を重ねるSF的な解釈も可能だし、耳から出た緑色の液体と微生物に着目して、異生物(もしかして異星人?)との共生テーマにも見える。いっそ小翠とタッタを同一視して異類婚姻譚の一種としても読めるし、また彼女の国を今の中国だと想定して、発達した技術と強権的な政治が、真実とフェークを混交させてしまうことの寓話とも読める。その全てでもあり、それ以外の何かでもある。リアルな細部の描写と、淡々とした物語が、日常の中にある、仲の良い夫婦の間にある「わからなさ」を浮かび上がらせていく。でもこの二人、共通の地図が存在しないとわかっても、本当にうらやましいくらい仲いいんだよね。
 「蝦蟇雨(がまだれ)」は『夏色の想像力』に掲載のショートショートを改題・加筆したもの。元のタイトルは「不和ふろつきゐず」。筑波で開かれたSF大会のプログレスレポートが初出で、つまり筑波の蝦蟇の話だけど、グロテスクなはずの蝦蟇料理がすごくおいしそうに描写されている。そしてこれにも、量子力学の観測問題(あるいは禅問答ともいう)がこっそりと裏テーマとして紛れ込んでいるのだ。
 「リアリティ・ショウ」は「ユリイカ」に掲載された短篇。他国から流れ着いたゴミからできた島。そこに暮らす人々のところに他国から色んな人がやってくる。今度来たのは、自分でカメラを持って撮影しながら怯えたように叫ぶ男。読者にはそれがリアリティ・ショウの出演者だったとわかるが、島の人々にはそんなことはどうでもいい。しかし、もし地獄に暮らしてそれが日常であれば、その日常とこっちの世界の日常のギャップってすごいだろうなと思う。でもどちらも単なる日常なのだよなあ。海とゴミと魚の臭いが強烈に漂ってくるような作品である。

『天冥の標 Ⅹ 青葉よ、豊かなれ Part2』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 最終巻のPart2。この本では、セレスの中心にあるドロテアへの突入戦と、ミヒルとイサリの姉妹の最後の闘い、ドロテアが繰り出す異界のモンスターたちとの凄まじい肉弾戦が中心に描かれる。また、宇宙では、40億の橺(カン)族を統べる冠絡根環(カンラカコンカン)の茜華根禍(アカネカ)女王に、人類の代表が話し合いをしようとコンタクトを図る。
 今回も様々な異星人や異生物が描かれていて、それが楽しい。ドラクエの(鳥山明の)モンスターみたいで可愛いよ。カンカラコンカンなんて名前も可愛いけど、ドラクエのじんめんじゅのイメージがずっと頭に浮かんでいた。もっともその実体は可愛いなんてもんじゃないんだけどね。
 ストーリー的には、〈救世群〉をめぐる人類間の相剋についに決着がつき、オムニフロラと超銀河団の種族との壮大な戦いも、いよいよそのクライマックスを迎えようとしている。そのキーとなるカルミアンのオンネキッツ女王が、何ともすごい能力を発揮して、この宇宙を超える高次の存在があることが示唆される。
 さてPart3でこれがどこまで描かれるのか。早く続きを読みたい。

『不自然な宇宙 宇宙はひとつだけなのか?』 須藤靖 講談社ブルーバックス
 われわれの生きているこの宇宙は、不自然なほどよくできている。物理法則がなぜこんなに都合良くできているのか。その答えは無数にある宇宙(マルチバース)のうち、たまたまこの宇宙にわれわれがいるからである――という、「弱い」人間原理とマルチバースについての一般向けの解説本。
 この解釈には不自然なところがないので、確かにそうなんだろうなと思う。著者は東大の物理学教授で、宇宙物理学、特に宇宙論と太陽系外惑星の研究の専門家である。にもかかわらず、随所で「わたしにはよくわかりません」などとストレートに本音を吐露していて、とても親しみが持てる。本書はまた、テグマークの『数学的な宇宙』のやさしい解説書としても読める。マルチバースにレベルを持ち込んで、レベル1マルチバースからレベル4マルチバースまで、テグマークの考えを著者の解釈でかみ砕いて解説してくれる。とてもわかりやすい。
 ところで、ぼくにとっては実はレベル1マルチバースが一番の難関だった。レベル1ユニバースとは現在の半径138億光年(ビッグバンからの時間)の「宇宙の地平線」に囲まれたわれわれの宇宙だ。これはわかる。その向こうは光速度の限界によって到達できない世界だ。でもそこにも同じ宇宙が広がっている。その全体をレベル1マルチバースという。これもいい。
 しかし著者によると、レベル1マルチバースは無限に広がっているという(一般相対論に基づく宇宙原理からの帰結)。無限だから、その中には(たまたま)この宇宙とまったく同一の領域があり、そこには構成する原子もその状態も(従って意識も)まったく同じ人間が存在していることになる。しかもそれが無限にある。これは確かに昔どこかで聞いたことのある話だけど、ちょっと信じがたい話だ。たぶんそんなことはないと思う。問題は無限というところにある。数学的な無限は(可算無限にしろ非可算無限にしろ)とても大きい概念だ。著者も言うとおり、物理的世界が本当に(数学的な意味で)無限大なのかどうかは、科学的に証明することは不可能なことなのだろう。だから著者も「(ほぼ)無限」といっている。でも(ほぼ)無限は無限じゃないよね。
 ただ、よくあるゴム風船みたいな、果ては無いが有限な宇宙のイメージは、レベル1ユニバースのイメージであって、光速度による地平線の向こうにも連続的に同じ宇宙が(ほぼ)無限に続いているという理解は大切だ。ビッグバンはただ1点で起こったのではなく(それはこのレベル1ユニバースだけを見た話)、レベル1マルチバースの(ほぼ)無限な全体で同時に起こった現象なのだ。
 さて次のレベル2マルチバースは、宇宙インフレーションによってこのレベル1マルチバースそのものが複数発生する。その複数のレベル1マルチバースの全体をレベル2マルチバースという。今度は宇宙そのものが別であり、それぞれのレベル1マルチバースは物理法則も異なっている(少なくとも物理定数=初期条件は異なっている)。このレベル2マルチバースこそ、(弱い)人間原理の根拠となるものだ。つまり他にもいっぱい物理法則の異なる宇宙がある中で、たまたまこの物理法則が通用する宇宙にわれわれは生きている(この一見不自然な物理法則は、決して唯一特別なものではない)ということだ。これはまあわかる気がする。
 次のレベル3マルチバースがSFにとっては重要である。これは例の量子力学のエヴェレットの多世界解釈によって生まれる多宇宙だ。シュレディンガーの猫が生きている世界と死んでいる世界は観測によってどちらかに収束する(コペンハーゲン解釈)のではなく、どちらも別の宇宙として併存するという話。ただSFでよくある観測や意志決定によってどんどん宇宙が分岐していくというのではなく、初めからすべての可能性の宇宙が存在しており(レベル3マルチバース)、観測は自分がどの宇宙にいるのかを確認するだけだというのだ。でもそれだと厳密な決定論になるので、あんまり面白くないように思う。
 さらにレベル4マルチバースは、数学的構造そのものが実在の宇宙に対応するという話で、そう、イーガンの「ルミナス」ですね。ここまでくると抽象的すぎて、ふーん、そういう考えもあるんだねと思うしかない。でも面白い。
 なお本書は冒頭で、アシモフ「夜来たる」の完全ネタバレ(まあ今さらですが)があるので、気になる人は要注意です。

『天冥の標 Ⅹ 青葉よ、豊かなれ Part3』 小川一水 ハヤカワ文庫JA
 最終回の最終巻。読み終えた。それにしても壮大な物語を読んだ。この感覚はこういうSFじゃないと味わえないものだ。
 本書では、ふたご座ミュー星の近傍での、知的生命体各種族の運命をかけた戦いがとうとうクライマックスを迎える。こんな戦いでも、また激しい地上戦が描かれるのだなあ。正直、話が大きすぎていくぶん拍子抜けなところもあるのだが、クライマックスのその後と、現代の日本を描いたエピソードを加え、シリーズ全体の問題意識がすっきりと明確になったように感じる。
 それはすでにⅨ巻「ヒトであるヒトとないヒトと」のタイトルや作者あとがきにも示されているとおりだが、ひと言で言えば「みんな違っていて、それでもできるだけ仲良く暮らしたいね」ということに尽きるだろう。陳腐? いや、ヴォネガットの心を打つひと言だってそうだろう。「ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい――なんたって、親切でなきゃいけないよ」。そういうものだ。
 ぼくは七年前のSFマガジンで、作者と作品についてこう書いた。すなわち、「現実に軸足を置いた上で未来に希望を見ようとするその眼差し」と。また「彼のほとんどの作品にはSF的な恋愛のイメージが見えてこないだろうか。異星人も、機械も、異質なものはすべからく〈異性〉であり、それとのコミュニケーションには恋愛の要素が含まれざるをえない」とも。
 そして最も重要だと思えるのは、『天冥』にもはっきりと現れている通り、異質な知性に対する〈ソラリス問題〉への著者の吹っ切れた態度だろう。〈真面目な〉SFであれば、特別な理由がない限り、異質な知性は人間とは異質なものであって、どのようにコミュニケーションを成立させるか(あるいは成立させられないか)がファーストコンタクトの重要なテーマとなる。ところが小川一水はかなり以前にそこを割り切った。「異星人だろうが、ソフトウェア知性だろうが、犬や猫だろうが、無人探査機だろうが、戦闘機や自動車だろうが、宇宙だろうがイワシの頭だろうが、みんな擬人化し、そこに人と同じタマシイを感じ、共感し、投影し、〈萌える〉の」である。
 Ⅹに出てくる異星人たちの、何と饒舌で〈可愛い〉ことか。Part2でも書いたけど、ぼくには鳥山明のドラクエのモンスターや、ポケモンのイメージで読んでいた。
 しかし、物語を動かしているのは、そんな宇宙の帝王たちの意向ではなく、むしろ(それが異星人や異星知性であっても)ごく普通の〈ヒト〉たちの、ごく当たり前で、共感のできる人間的な感情なのである。キャピキャピした若い男女のストレートで素直な感覚、その倫理観が、宇宙の運命を切り開いていくのだ。
 さて、いつになるかはわからないけど、完結したからにはもう一度第1巻から読み直して、この世界を全体としてとらえ直してみたいと思う。細かいところはもう忘れてしまったからね。
 それにしても、この広い世界には書かれなかったエピソードが山ほどありそう。それもぜひ読みたい。いっそこの世界をシェアード・ワールドにして、大勢の作家さんに独自のスピンアウトを書いてもらいたい気がする。
 あと、シミルボンに上田早夕里さんが『天冥』の完結にからんで創作者の視点から書かれたコラムがあり、読み応えがあった。


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