続・サンタロガ・バリア  (第187回)
津田文夫


 ようやくカレンダーどおり連休が休めるようになったのだけれど、特に予定もなくだらだらと過ごしてしまう。
 そうはいっても新しくアウトレットと称するショッピングモールが車で1時間あまりの丘陵部に出来て、併設のシネコンが夕方のみ『この世界の片隅に』をULTIRAという大画面ハイファイサウンドで上映するというので、八丁座で打ち止めにしたつもりだったが、やっぱり見に行くことにした。17回目かな。
 息子の運転で店の近くまで来ると、道路脇に駐車待ち180分と書いた看板を持った警備員が立っていた。息子にまたにするかと云ったが、とりあえず迂回して丘の裏へ回ると、別の入り口はさほどの渋滞もなくあっさり駐車場に到着。もちろん満車ではあったけれど、10分ほど待っていたら空きが出来てめでたく店の中へ入れた。
 オープン3日目のショッピングモールは客でいっぱい。建物は屋上がオープンエアのアウトレット街になっていて、ショッピングモールは平屋で長さが200メートル以上ありそうな文字通りのモール/パサージュだった。
 上映まで時間があったので、モールの片端にあるシネコンから反対側の端にある本屋まで歩いてみた。フードセンターの通路部分がボトルネックになっていて通り抜けるのが大変。ようやくたどり着いた本屋はそれなりの品揃えで悪くはなかったが、文庫棚を見て回って発見したのが、「雑学文庫」の棚表示の下を埋め尽くした岩波文庫と講談社学術文庫。さすが笑ってしまったが、考えてみればもはやそういう時代になったのだと云うことだろう。岩波文庫や学術文庫などは、本屋自身がアクセサリー的な知識/雑学の一部としか見ないようになったわけだ。あまりにおかしかったので、写真に撮ってしまったよ(掲載は控えさせていただきます)。
 映画の方は観客が10人あまりと、いかな話題作といえども公開から1年半ではさすがにガラ空きなんだけれど、モール内の混雑振りからすればもう少し埋まっていても良いのではなかろうか。大画面は老眼でも細かいところが見えてよかったが、真の値打ちはハイファイサウンドにある。とにかくサウンドトラックの細かい音がほぼすべて聞こえるのをはじめ、ステレオ感のプレゼンスが素晴らしかった。八丁座の音響も良かったけれど、こちらは天井が高い分空間への音の広がりが楽しめた。

 ラリイ・ニーヴン『無情の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』は表題作の映画化というきっかけで出たらしい。どういう理由でも昔面白かったものがいまでも面白いか確かめられるのはいいことだ。
 いまとなってはちょっとシンプルすぎる「馬を生け捕れ」を除いて、結構面白く読めるんではなかろうか、というのが読後の感想で、さすがにエリスンやスミスそれにヴァーリイの傑作選に較べると、現代でも通じるリアリティが弱いきらいはある。
 それでもニーヴンの持ち前のキャラの明るさとハードSFとしてのストーリーテリング確かさは、いまでも安心して読める。ベーオウルフ・シェイファーと〈ノウン・スペース〉が懐かしい。うーん、懐かしいようではやっぱり古くなったと云うことか。
 そういえば当時表題作の設定に怒っていた人がいましたね。映画でもアメリカの裏側はそのまんま映像化されるのだろうか。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』は、なぜかウフコックが絶体絶命状況にある場面からはじまるのだけれど、前巻での話がうろ覚えなので、気にせず読み進めた。すると相変わらず潜伏諜報活動が続いていてやや退屈していたら、後半は派手なドンパチが用意されてて、やっぱり山田風太郎忍法合戦/伊賀の影丸村雨一族の巻(って古いね)が脳裏に浮かぶ。エピローグがカットバックで冒頭に戻るんだけれど、デウスエクスマキナがやって来てビックリした。

 復活日本ファンタジーノベル大賞第1回受賞作の柿村将彦『隣のずこずこ』は、表紙にある信楽焼の狸が「ずこずこ」歩くという意味では納得だけれど、ちょっとわかりにくいタイトルではある。
 形の上ではホラーに分類されそうな物語の組み立てになっているけれど、作者の選んだ語り口は饒舌な女子中学生の一人称で、これがとてもうまく書かれているので、ページターナーとして十分な力を発揮している。
 物語の設定には映画『君の名は』に近いモチーフが散見されるので、読んでいる最中に浮かび上がる感触は、いわゆる「震災後の物語」である。直接的に震災を取り上げているわけではないし、メタファーとして考えても「震災後の物語」としてしまうには躊躇があるけれども。
 この物語の結末を読んで、20年以上昔、「大和におもう」というシンポジウムをやったとき、出演者の一人だった法政大学の田中優子先生が、平家物語を引き合いに出して、戦艦大和の悲劇を語り伝えることがその犠牲者への鎮魂になるのだ、と発言されたのを思い出した。

 前作を文庫版で読んだので、今回も文庫版で読んだのが、ピーター・トライアス『メカ・サムライ・エンパイア』上・下。
 前作はちょっとオトナっぽいシリアスな雰囲気があったけれど、今回は徹底してヤングアダルトな物語づくりになっている。
 ゲームオタク/落ちこぼれの太っちょな主人公の少年が、大日本帝国統治下のアメリカ西側で、多くの友人同僚を失いながらも、根性と幸運でついに念願の帝国軍のエリートメカパイロット(士官候補生)となるまでを描いた典型的な学園モノ/成長物語である。それでも退屈せずに読めるのは、作者の物語への愛情のなせるワザといえるだろう。とくに久地樂のキャラクターはウケ狙いがあからさまにもかかわらず、実に頼もしく、訳者である中原尚哉氏が作者に入れ知恵をしたのではないかと思えるくらいだ。
 この物語にちゃぶ台返しがあるのかどうかは不明だが、とりあえず続編も期待しよう。

 昨年のSF忘年会で純平さんが面白かったですよと云っていたので、やはり読んでおこうかと思っていたのに、今頃になってしまったのが、チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー』。真っ赤な表紙なのでついつい「レッド・オクトーバー」と覚えてしまいそうだが、まあ、実際「赤い10月」のものがたりなので、それもさもありなんであろう。
 てっきりノンフィクションかと思っていたら、ノンフィクション・ノヴェルだったのだが、それは読んでいる最中には考えなかった。
 1917年のロシア革命を前史からはじめ、その年の2月から10月を月ごとに1章としてこの革命の紆余曲折を熱っぽく描く様はミエヴィルのSFと通底はしているものの、SFほどの冷静さは感じられない。作者自らボリシェヴィキ贔屓な物語であることは認めているが、ミエヴィルの努力はこの革命の細部に照明を当てることで、さまざまな登場人物に小説的な盛り上がりを与えることに成功している。
 前史のところで、ウリヤノフ/偽名レーニンやブロンシテイン/偽名トロツキーも大きく紹介されているが、2月からはじまる革命物語の中では、特に彼らが印象的に扱われているわけではない(革命期間中は亡命ばかりしているレーニンのカツラは印象的だが)。むしろ亡命先からあれこれと同志に指示を出すにもかかわらず、サンクトペテルブルグの現場ではそのメッセージが無視されたり改変されたりして、それがむしろ面白い。
 100年前のロシア革命自体にリアリティを感じることはもはや不可能だが、100年後のSF的想像力がもたらすリアリティは革命自体をそのリアルさでファンタジー化してしまう。

 ロシア繋がりで昨年の読み残しの1冊、ウラジーミル・ソローキン『テルリア』も読んでみた。
 『氷』3部作はSFファンとして買えないところがあったけれど、こちらは〈タリバン騒動〉で世界がが小国化し、ロシアも数多くの小国が存在して、ヘンテコなバイオテクノロジーは発達しているが、政治的社会的には中世まで後退してしまった世界を50の断章で描いた作品。直接的なSFスタイルではないので、ソローキンのパワーがダイレクトに感じられるようになっている。
 50の断章をつなぐのが、使うとバラ色の世界が広がる謎の薬物(?)テルルが入った「釘」と呼ばれるもの。この「釘」は「大工」がハンマーで人の頭に直接打ち込むようになっている。「釘」は空になるので、どうも弾丸と薬莢のような構造らしい。それにしても「氷」といいこれといい、ハンマーで人体を叩くのが好きだなあ。
 標題のテルリアは50の断章のひとつで描かれるテルル/「釘」を産出する小国の名前だけれど、ほかの断章と直接的な話の繋がりはあまりない。
 印象的な断章は真ん中辺りに出てくる、十字軍を結成して聖地奪回に赴くテンプル騎士団全員に「釘」を打つため各地から6人の「大工」が集まり、「釘」を打たれた騎士たちがロボットに搭乗してカタパルトで一斉に空へ打ち上げられるシーンで終わる章と、それに続く犬頭の旅人2人がたき火を囲んで皮肉な会話をしながら、夕飯に切り取られた騎士の頭部を焼いて二つに割って脳みそを食べる話。一方の犬男は脳みそに入っていた銃弾を噛んでしまい悪態をつく。まったくソローキンらしい意地悪さで笑ってしまう。
 未訳の最新作はテルリアの世界を舞台にした長編らしいので、訳が出たら読んでみよう。

 ノンフィクションは2冊。

 長山靖生『完全版 日本SF精神史』は、以前ソフトカバーで出した戦前編と戦後編の2冊を増補改訂して1冊のハードカバーにしたもの。さすがに分厚くて読むのに時間がかかったけれど、掛けた時間は充実した読書時間となったので、小杉未醒描くところの押川春浪「鉄車王国」口絵使った表紙を含め、いいんじゃないでしょうか。
 今回の改訂で冒頭で紹介されている恋川春町「悦贔屓蝦夷押領(「よろこんぶひいきのえぞおし」と読むらしい)」は、なんと天明8(1788)年の黄表紙ということで、長山SF精神史観では、日本SFのルーツが一挙に230年も昔に措定されることになった。まあ、話の筋は義経=ジンギスカン説のヒネリものだけれど、長山の読みはこの黄表紙の内容が歌舞伎のように荒唐無稽を装って寛政の改革を批判したものかも知れないと突っ込んでいて、面白い。
 江戸時代最後の慶応4年にジオスコリデス『新未来記』が近藤真琴によって訳された(出版は明治になってから)ことは、以前の本にも紹介されていたが、今回読んでその原書を持ち帰ったのが肥田浜五郎だったという記述に目が行った。
 肥田浜五郎は幕臣で江川英龍に弟子入り、長崎海軍伝習所で機関学を学び、咸臨丸でアメリカへ行き、帰国後再びオランダへ派遣され、維新後は海軍草創期の海軍技術者として活躍した。『新未来記』はオランダで入手して近藤真琴に渡したらしい。近藤真琴は前にも紹介したと思うが、鳥羽藩士で大村益次郎に弟子入りし、早くから蘭学英学に取り組んで、おもに航海術測量術などの理科系の知識を取り入れ、維新後は長く海軍兵学校で教えるかたわら、攻玉社という塾を経営し、多くの優秀な若者を海軍兵学校に送り込んだ。現在の鳥羽商船高専の創立者でもある。などと云うことを思い出しながら戦前編を楽しく読んだ。
 戦後編は、60年代まではほぼ長山SF精神史の延長で読めるのだけれど、自分の経験がリアルタイムになる70年代以降は、「ウーン、そうだったのかなあ」とおもうところがないでもない。それでも長山SF精神史は出来るだけの目配りがされていて、実際はそういう流れだったのかも、と納得させられることも多い。つまるところ、あとがきにもあるように、SF愛のなせるワザとして成立している作品なのだ。

 巻末編集部注に「本書は、1972年にスイングジャーナル社から刊行された『ジャズの歴史物語』を文庫化したものです」とあるのにビックリして思わず手を出したのが、油井正一『ジャズの歴史物語』
 70年代後半の学生時代は、油井正一の「アスペクト・イン・ジャズ」というFMラジオ番組をよく聴いていた。20年あまり前に文庫で寺島靖国の『辛口!JAZZノート』を読んだとき、寺島が先輩評論家たちがジャズの歴史的名盤と称するものにあれこれと文句を並べていたが、その矛先が名前こそ出していなかったが、油井正一に向けられていたことはよく分かった。
 油井正一は1918年生まれで、41年慶応大学卒。在学中からジャズ評論を始めたという人なので、戦前のジャズをよく知っている上に、いわゆる教養がゆたかな紳士タイプ。ラジオでのDJぶりも落ち着いたしゃべりで、戦前のジャズについて回るある種の安っぽいイメージを払拭するものだった。
 今回初めて油井正一のまとまった著作を読んで、その教養の確かさに改めて恐れ入った。ジャズの歴史を始めるのに、19世紀前半にアメリカが東部13州から西海岸まで広がっていき、南北戦争を経てニューオーリンズの黒人(含クリオール)たちが西洋楽器を使って独特の音楽を演奏し始めるその流れを、歴史的に地理的に説明するところから油井正一の仕事の確かさがうかがえる。アメリカがフランスから廉価でルイジアナを買ったとき、現在のルイジアナ州からミシシッピ川を遡ったカナダ国境までがすべてルイジアナだったとか、地図を見せられて改めてアメリカの小学生が知っているような知識をおさらいしたんだけれど、そういう丁寧さはこの本のアチラこちらに見られる。ナビスコがナショナル・ビスケット・カンパニーの略だったことの説明も久しぶりに見たなあ。
 なんといってもこの本が出たのは1972年であり、1910年代から記録されたジャズの歴史は戦後よりも戦前の方が長く、50年代のハードバップとモード、60年代のファンキー、フリーに新主流派とエレクトリック・マイルスが、まだリアルタイムの出来事だった時代なのだ。いわゆるジャズが混沌とした流れに入った時代に出版されており、ジャズの始まりと、常に変化の始まりをジャズの歴史のキーポイントとして捉えてその変化を代表する個々の演奏者を紹介していくというスタイルに、50年代の終わりに大学生だった寺島靖国などはアカデミズム/権威主義を感じていたのかも知れない。ジャズも音楽であり、詰まるところ好き嫌いの世界だ。しかし、油井正一はそのことを踏まえた上でこのジャズ物語を書いており、その当時の寺島靖国は所詮権威に甘えた若者に過ぎない。『辛口!JAZZノート』が何回読んでも面白いのは認めるが。


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