イアン・ワトスン/細美遙子訳
 『存在の書』 解説
  《黒き流れ》三部作 III

 大野万紀

 創元推理文庫
 平成6年11月25日発行
 (株)東京創元社
THE BOOK OF BEING by Ian Watson (1985)
ISBN4-488-69504-3 C0197


 本書はイアン・ワトスンの『川の書』The Book of the River (1984)、『星の書』The Book of the Stars (1984)に続く、《黒き流れ》三部作の完結編、The Book of Being (1985)の全訳である。

 ということで、お待たせしました。本書では、ヤリーンの驚くべき冒険物語の最後の結末が語られます。物語は再び第一巻の世界に戻って始まるが、第二巻で語られた驚くべき事実に関する決着もちゃんとつけられる。その結果がまたまたびっくりすること請け合い。本当にワトスンという作家は意表をついてくれる。この結末も、なるほどと思う実にすっきりしたSFらしい結論なのだが、そこにはワトスンらしい意地悪さも隠れていて、ストレートな解釈以外の、別の読み方もできるようになっているのだ……。
 おっと、その前に、まだ『川の書』、『星の書』をお読みでない方に重要なご注意。《黒き流れ》三部作は、構成上三冊に分かれてはいるものの、実際は一つの長編となっている。そのうえ、物語の展開が相互に密接にからんでいるので、前作を読まずに本書のみ読むことはお勧めできません。必ず『川の書』から順に読まれるよう、お願いします。そうすれば、著者の意図した、あっというような驚きの感覚をしっかりと味わうことができるでしょう。
 この解説も、『川の書』、『星の書』を読んでいることを前提としているので、まだの方はここでいったんページを閉じて下さい。

 よろしいですか? よろしい。では解説を続けましょう。

 さて、読み終わった方はおそらく同意してくれると思うのだが、《黒き流れ》三部作という作品は、大きく二つの観点からの読み方ができるSFである。ひとつはヒロインであるヤリーンの冒険を追っていく、等身大の異世界冒険SFとして。もうひとつはいささか難解な(難解なというのは、普通のSF的な〃科学〃をベースにしたものではないから)哲学的・思弁的SF(スペキュレイティブ・フィクションというのは、〈ニュー・ウェーブ〉華やかりしころの懐かしい用語だ。でもワトスンのスタイルにはこれがぴったりくる)として。後者については、後でもっと詳しく扱うつもりだが、まず、本書をとても魅力的な小説としている前者について語ってみよう。

 いつとは知れない未来の植民惑星。南の熱帯地方から北の寒い湿地帯まで、東西を砂漠に囲まれて、まるでナイル川をもっと北にシフトさせたような大河が流れている。その〈川〉の両岸に住み着いた人々が作り上げた独自の文化。〃黒き流れ〃という謎の存在が〈川〉の中央に横たわり、人々は〈川〉を渡って対岸へ行くことはできない。そこで、両岸の文化は互いに独自の発達を遂げ、対照的といってもいいような姿になっているのだった。
 ヒロインであるヤリーンの生まれた東側は、科学や技術の程度はちょうど産業革命期のヨーロッパを思わせるが、中央集権的な国家はなく、川ギルドを中心にした平和で穏やかな社会が築かれている。南北の交通路は〈川〉だけなのだが、男性は一度しか〈川〉に出られないという〃黒き流れ〃の掟があるため、この社会を支配しているのは女性である。一方西側は、貧しく野蛮で残酷な男性中心の社会であり、〃女を焼く〃といった行為が平然と行われている。
 『川の書』は十七歳になった少女ヤリーンが憧れの川ギルドに加入し、〈川〉を上り下りしながら成長し、やがて西岸との接触、そして〃黒き流れ〃の謎に迫っていくという、リアルでストレートな異世界冒険SFである。『星の書』の第一部もそうだし、あっと驚くヤリーンの運命の変転はあるが、その第四部も、そして本書の第一部と第二部、そしてまたまた新たな展開となるが本書の第四部も、同じ流れの中にあるといっていい。舞台が同じであり、ヤリーン以外の人々を含めた日常の生活が、リアルにかつディテール豊かに描かれた、等身大の物語である。

 《黒き流れ》三部作の最大の魅力は、ここにあるといっていい。ワトスンの筆は細心の注意を払ってこの社会全体を見事に描き出している。それは豊かで美しく、優しさと人間的な温かみにあふれ、進歩や変化はごくゆるやかで、人々は男も女も共に働かなければならず、自由で階級制度もない一種の理想社会である。南国の珍しい食べ物も、川沿いの町の雑踏も、ワトスンはひとつひとつの日常的なディテールを細やかに描いてゆく。そう、あえていうなら《女性的》といっていい細やかさで。宇宙の謎に迫ろうとする壮大なヤリーンの冒険も、この中では一人の等身大の女性の物語として描かれるのだ。

 ワトスンはこの三部作について、フェミニスト・ユートピアを提出したという発言をしている。なるほど、この東岸の社会は、単に男女の役割を入れ替えただけではなく、女性原理で運営される理想社会として描かれている。相変わらずの男性中心的で強権的な西岸社会と対比されるので、特にそういう印象が強い。訳者によれば、ワトスンはこの女性優位な世界を描くに当たって、文章のこと細かなところまで注意を払っているそうだ。例えば、「お父さん、お母さん」というようなところがあれば、たいてい「お母さん、お父さん」となっているとか、英語のことわざでジャックが使われるところはジルに置き換わっているとか。作者がこの側面にいかに力を注いでいるかがわかるというものだろう。

 さて、この生き生きとした人間的な等身大の物語を三部作のひとつの側面とすれば、もうひとつの側面は、ワームとゴッドマインドの戦いをめぐる、壮大で宇宙的な神話的物語の側面である。
 始めに述べたように、ワトスンはこの側面を描くに当たって、通常のSF的な科学的世界観を離れている。バリントン・J・ベイリーがそうであるように、SF用語、科学用語は使われていても、それは現実の科学やSFの伝統とは離れて、作者によって自由に息を吹き込まれた観念的・思弁的な道具として使われているのだ。

 ここでの最も重要なテーマは、魂とは何か、人間の本質であるような意識とは何かといった形而上学的なものである。本書では魂あるいは〃カ〃が実存するという立場から、当然死後の世界や転生も描かれる。そういう意味では『チベットの死者の書』との関連や、オカルト的な様々な概念との関連が語られるべきなのだが、ぼくにはそちら方面の知識が乏しいため、充分に解説することはできない。かわりに、少し違った観点から、このテーマを考えてみよう。
 魂などというと、何か宗教的でSFにはなじまないように思えるが、意識とか自我とかいうのは昔からSF作家が好んで取り上げたテーマでもある。ロボットには心があるのかとか、コンピュータは意識を持つかなどというのが、その典型的な問題である。かつてのSF作家はそれぞれ独自にこれらの問題にアプローチしていたが、コンピュータ科学の世界から認知科学が現れてくると、SF作家はそれまでの哲学的・思弁的アプローチに加えて、もう少し科学的に見える道具を手にすることができたのである。それで問題が解決したわけではないのだが、魂について考えるというより、人工知能について考えるといった方がよりSF的に聞こえるというものだ。

 『川の書』が出版されたのと同じ一九八四年、一人の新人作家が処女長編を出版した。ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』である。八〇年代のSFを大きく動かすことになったこの作品は、サイバースペースという新しい物語の空間をSFにもたらした。それから十年、いまやサイバースペースやヴァーチャル・リアリティというキーワードは、SF界のものではなく新聞にも載る当たり前の言葉として通用している。
 この三部作を書いたとき、ワトスンの頭にこういったキーワードはなかったと思うが、SF界のこのような流れについては当然知っていたと思う。『星の書』でもゴッドマインドは人類が作り出した超コンピュータの進化したものという意味の言及がある。
 意識は物理的存在というより、ソフトウェアである、というのが人工知能の研究やサイバーパンクSFが示唆している方向である。ソフトウェアであれば、ハードウェアを離れて存在することができるし、別のいれものにダウンロードすることも可能だ。そして世界の認知とは意識と外界とのインタフェースであるとすれば、現実と仮想現実の区別はあいまいになる。それがサイバースペースのSF的な意義だった。こうして、ギブスンのサイバースペースにはまもなく神々が住むようになったし、ヴァーチャル・リアリティを追求した作家の中には、小説世界そのものが仮想現実であるとして、メタフィクションに近い手法で現実と非現実の隙間を描くようになった者もいる。

 『星の書』の解説で、山岸真氏はこの三部作について、メタフィクションを意識しているふしがあると論じている。本書を最後まで読まれた方なら、その意味は明らかだろう。文学用語としてのメタフィクションの正確な意味を知らないので、こんなことをいったら専門家に怒られるかも知れないが、フィクションに関するフィクションというような自己言及の構造は、認知科学の中でもひんぱんに現れるものである。入れ子になった現実、自分を意識する自分、書く者と書かれる者……。メタフィクションとヴァーチャル・リアリティに関するSFとは、よく似たものにならざるを得ないのではないだろうか。
 とすれば、本書のある意味で難解なパートも、ゴッドマインドの夢見る、あるいはワームの夢見る仮想現実空間の中でのできごととして理解できるのではないか。もちろん、現実と仮想現実に実際上の差はないという前提で。
 そして、ヤリーンの世界の詳細な描写というリアルが、このヴァーチャル・リアルに力を与え、お互いに補完しあって、『川の書』、『星の書』、そして『存在の書』という三つの書物として(最後の書物は、さらに三種類のテキストから構成されているのだが)結実した……それがワトスンの意図したところではないだろうか。

 しかし、そういった謎解きはひとまずおいて、結びのさわやかなSF的イメージ(それはもう、懐かしのジュヴナイルSFを思い起こさせるさわやかさだ)は強く心に残る。結局どのように解釈してもかまわないのだ。これが事実であったとしてもいいし、現実が入れ替わったと考えてもいい。それでも、ここで描かれたヤリーンの物語は、確かにわれわれを楽しませてくれたのだし、世界はより良い、望ましい方向へと動いたのである。

1994年10月


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