1960年代のSF

 大野万紀

 早川書房編集部編「SFハンドブック」掲載
 1990年7月15日発行
 早川書房 ハヤカワ文庫SF
 ISBN4-15-010875-7 C0195


 一九六〇年代のSFは一言でいってどう言い表せるだろうか。いや、その前に、一九六〇年代とは、そもそもどういう時代だったのだろうか。

 今から二十〜三十年前。昭和三〇年代後半から昭和四〇年代前半。まず第一にそれは〈高度成長〉の時代であり、社会的な変動の時代だった。六〇年安保から七〇年安保へと〈学生運動〉が高揚し、新幹線が走り、日本の沿岸に巨大なコンビナートが生まれ、テレビが急速に普及し、通信衛星が世界を結び始めた時代。科学がその〃悪用〃を恐れられつつも基本的には未来を開く善玉であり、核の恐怖が重く基調音を奏でながらも、未来は希望にあふれ、理想が語られた時代。それは『鉄腕アトム』の時代でもあった。
 世界全体を見ても、それは未来への変動の時代だった。東西の冷戦はしばしば核戦争の危機を呼びつつ世界の枠組みを固定していたが、ベトナム戦争の泥沼化は若者たちの反戦運動を引き起こした。ロックのリズムが、電波にのって、世界共通の同時代の若者意識といったものを作り上げて入った。キューバ危機からベトナム戦争の時代。ケネディからニクソンの時代。公民権運動からベトナム反戦運動と文化大革命の時代。フラワー・チルドレンとヒッピーとドラッグと〈性と文化の革命〉の時代。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてレッド・ツェッペリン他のハード・ロック、ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクル、サイケ、アングラ、おっと、このリストはきりがない。それは〈ロックと若者革命〉の時代でもあった。
 そしてもちろん、六〇年代は〈科学技術の時代〉であり、〈宇宙開発の時代〉でもあった。マイクロチップによるコンピュータ革命はもう少し先だが、コンピュータは大学や企業に浸透し(それでも七〇年の統計で、日本全国のコンピュータ設置台数は一万台なかったんですよ)、トランジスタやICがあらゆる電化製品を小型化し、テレビが家庭に入り、通信衛星が世界を実時間でつないだ。ガガーリンが地球を回り、ケネディ大統領は「六〇年代の終わりまでに月へ人間を送る」と宣言し、そしてあれよあれよという間に、われわれは月や火星の近接写真を新聞で眺め、そして月面上の宇宙飛行士からのテレビ中継を茶の間で見るということになったのだ。ぼくら、当時の子供たちにとって、「明日はSF」の時代だった。SFに描かれる未来はもうすぐそこに見えていた。

 こういったことからいえるのは、外の世界がSFと相互作用を始めた時代だということである。「核による人類滅亡への警告」「科学技術の発達と未来の人類、そして文明のあり方」「変化する社会、文化に対応できる、新しいものの見方」こういったものが〈宇宙時代の文学〉〈文明批評の文学〉としてのSFに求められるようになったのである。また正統的、伝統的な文学に対するカウンターカルチャー、サブカルチャーとしてのSFのあり方にも、むしろ好意的な目が向けられるようになった。もちろん、宇宙に夢中の子供たちにとっては、SFがすべてだった。SFが世界のすべてを包含する必要があった。なぜなら、「明日はSF」なのだから。

 しかし、ジャンルSFはこういった外からの期待をストレートに受け止めることはできなかった。外と内の出会いはジャンルの中に大きな渦を引き起こし、とまどいと停滞、そして一部での激流を生じた。六〇年代のSFは、こうした不安定な、外の世界との相互作用によって特徴づけられる。それまでのSFは、いかにすぐれた作品が書かれていようと、その評価はあくまで狭いSFのジャンル内にとどまっていた。ハインラインやブラッドベリの作品が〃スリック雑誌〃に載ったといって高級扱いされた時代である。ブームがあったといっても、まだまだマイナーな存在にすぎなかった。ところが、六〇年代には外の世界がSFを(ジャンル内の評価とはまた別の基準から)求めるようになり、ハインラインの『異星の客』(1961、創元推理文庫)がカウンターカルチャーの観点から爆発的ベストセラーとなるような事態も生じたのである。アーサー・C・クラークとスタンリー・キュブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)の成功も、このような内と外との幸運な出会いとしてとらえることができよう。しかし、こういった相互作用を受け止めるためには、六〇年代のジャンルSFはまず停滞と混乱を経験しなければならなかったのである。

 〈十億年の宴〉とも称される〈黄金時代〉の後、六〇年代初めのSF界は停滞期をむかえていた。すぐれた作家や作品が現れなかったわけではない(だが、その多くは後の再評価という形で振り返って見られるのだ――例えば、フィリップ・K・ディックのように)。けれども、ジャンルは自己満足な宴の後の無気力感に包まれていた。この雰囲気を打ち破ったのが、六〇年代半ばに起こった、〃新しい波〃〈ニューウェーブ〉運動である。それはイギリスに始まり、アメリカへ移り、若い作家たちやファンたちの間で熱狂と論争を巻き起こし、古いファンたちの反発をかったのである。運動としての〈ニューウェーブ〉は六四年、マイクル・ムアコックがイギリスのSF雑誌「ニュー・ワールズ」の編集者となった時をスタートと考えるのが妥当だろう。彼の「ニュー・ワールズ」には、J・G・バラードやブライアン・オールディスといった一流作家の実験的な作品や、もっと無名な作家たちの意欲的な(そしてしばしば自意識過剰の)作品が掲載された。そこには若きトーマス・M・ディッシュ、チャールズ・プラット、ラングドン・ジョーンズ、ジョン・スラデック、パミラ・ゾリーンといった気鋭の作家たちがいた。この運動をアメリカへ伝え、広げたのは作家で編集者のジュディス・メリルだった。彼女は自分の編集する『年刊SF傑作選』やF&SF誌の書評などでこの運動を喧伝し、反発とともに多くの支持者をかち得た。ノーマン・スピンラッド、サミュエル・R・ディレイニー、ハーラン・エリスン、ロジャー・ゼラズニイなどの作家も、自分たちの作品に〈ニューウェーブ〉のレッテルが張られるのを容認し、あるいは積極的にそれを支持した。この運動によって再評価された作家や、スタイルを変えて売りだした作家もいた。ロバート・シルヴァーバーグなどが後者の代表だろう。ここにきて運動としての〈ニューウェーブ〉は容認されたジャンルの一分野となり、七〇年代に入ると存在意義を失って自然消滅していった。

 『異星の客』や『2001年宇宙の旅』の評価を外からの視点と見るとき、六〇年代のSF界を揺らした〈ニューウェーブ〉運動は、こうした内と外の相互作用によって引き起こされたジャンル内部の乱流として位置づけることができる。運動の中から生まれた作品自体には(バラードなどいくつかの例外を除き)さほど見るべきものはないのだが、それはジャンルの内部の意識を変革させ、ゆらぎを起こし、ジャンルのポテンシャルを高めた点で、大きな意味があったといえる。アシモフがいった「〃新しい波〃が去った後には、SFの固い大地が現われる」という予言はある意味で当たったが、そのSFの大地には新しい地層が残ったのである。それはテーマの自由度だったり、文体の洗練だったりするが、何よりもSFの大地には外洋からの大波が絶えず打ち寄せるという認識、そしてそれをSFの大地が受け止め、新たな地層を残すことができるということの理解、それが六〇年代のニューウェーブが残した大きな意義だといえるだろう。

 さて、具体的に六〇年代の主な作家と作品を、ハヤカワ文庫収録作を中心に、年ごとに追っていこう。まず六〇年。R・A・ラファティがデビュー。彼の『九百人のお祖母さん』(1970)所載の短篇は大部分が六〇年代に書かれたものである。ウォルター・ミラー・ジュニアの忘れられない傑作『黙示録3174年』(創元推理文庫)が書かれた。六一年。フレッド・セイバーヘーゲンがデビュー。現代スペースオペラといえる『バーサーカー赤方変移の仮面』(1967)などで有名。ブライアン・W・オールディスの『地球の長い午後』、アーサー・C・クラークの『渇きの海』などが書かれた。短篇ではコードウェイナー・スミスの「アルファ・ラルファ大通り」(『鼠と竜のゲーム』所載)がある。スミスの長篇『ノーストリリア』(1975)も、もととなった作品は六〇年代に書かれたものである。六二年、ロジャー・ゼラズニイ、アーシュラ・K・ル・グィン、トーマス・M・ディッシュという、いずれも六〇年代を代表する重要な作家たちがデビュー。フィリップ・K・ディックのヒューゴー賞受賞作『高い城の男』が出る。六三年、〈魔法の国ザンス〉シリーズで有名なピアズ・アンソニイ、アメリカニューウェーブを代表するもう一人の作家ノーマン・スピンラッドがデビュー。フランク・ハーバートの『デューン砂の惑星』シリーズが開始される。『デューン』はそのエコロジー志向が時代の流れに合い、『異星の客』と同様にSFの外からも幅広い人気を集めた。またカート・ヴォネガット・ジュニアの『猫のゆりかご』が書かれた。ヴォネガットはジャンル外の作家だが、SFファンの人気も集めた。六〇年代の相互作用の良き一例である。六四年、ムアコックがイギリス「ニュー・ワールズ」誌の編集者となる。これが〈ニューウェーブ〉の発端となるのは先に述べた通り。この年はキイス・ロバーツ、ラリイ・ニーヴンらがデビューした。ニーヴンの〈ノウンスペース〉シリーズは多くが六〇年代に書かれたものである。六五年はグレゴリイ・ベンフォードがデビューし、ジュディス・メリルがF&SF誌の書評担当となった。フィリップ・ホセ・ファーマーの〈リバーワールド〉シリーズが始まった。六五年の重要な作品としてはR・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』、ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、ゼラズニイの『わが名はコンラッド』、ディッシュの『人類皆殺し』などがある。なお、この年TVの〈スタートレック/宇宙大作戦〉シリーズが始まっている。六六年、ジーン・ウルフがデビュー。J・G・バラードの代表作といえる『結晶世界』(創元推理文庫)、ディレイニーの『バベル−17』、ムアコックの『この人を見よ』などが書かれた。六七年、今やホラー作家として名高いディーン・R・クーンツがSF作家としてデビュー。ゼラズニイの『光の王』が書かれ、ハーラン・エリスンの巨大アンソロジイ『危険なヴィジョン』が編まれた。六八年、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがデビュー。ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、ロバーツの『パヴァーヌ』(サンリオSF文庫・絶版)、ディレイニーの『ノヴァ』、クラークの『2001年宇宙の旅』が書かれた。六〇年代SFの絶頂ともいえる年である。六九年、イアン・ワトスン、ディヴィッド・ジェロルド、ジョー・ホールドマンがデビュー。七〇年代のSFへと続くクラリオンSFワークショップがスタート。ル・グィンの『闇の左手』が書かれた。ある意味で六〇年代の終わりをつげ、七〇年代の始まりを導くにふさわしい作品だった。

 六〇年代はまた、SFが英米の独占物ではないことを印象づけた時代でもあった。日本では六〇年に「SFマガジン」が創刊され、多くの日本人作家がデビューした。六〇年代はそのまま日本SFの発展の時代ということもできるだろう。ポーランドではスタニスワフ・レムが『ソラリスの陽のもとに』(1961)、『砂漠の惑星』(1964)などの傑作を書いた。ソ連ではストルガツキー兄弟が『神様はつらい』(1964 早川書房世界SF全集)を書き、イタリアではイタロ・カルヴィーノが『レ・コスミコミケ』(1965)を書いた。西ドイツで〈ペリー・ローダン〉シリーズが始まったのも六一年だった。これらは、六〇年代のSFが、国際的・同時代的に重要な一つの文化現象となったことを示しているのかも知れない。

 1990年1月


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