アルゴノートの冒険 12

[パソコン同士を直結 原始ネットワーク]

 FM16πを買ったために私はX−1 turboと合わせてRS−232Cインターフェースを持ったパソコンを2台持つことになりました。当時のパソコン通信はホスト側もパソコンを使っているのが一般的でした。私は「そうすると電話回線を通じなくともパソコン同士を直結すればデータをやり取りできるのかな。」と考えました。思いついたら即実行と行きたい所ですが、今回はパソコン同士をつなぐケーブルというハードウェアの問題があります。X−1 turboのマニュアルを読むとパソコン同士を直結するには配線をひねったクロスケーブルの必要なことが分かりました。現在ではこれらのケーブル類が簡単に買えますが、当時は売っていてもかなり高価でした。私はDB25コネクター二つとケーブルを買ってきてハンダ付けしてクロスケーブルを自作しました。このクロスケーブルはその後私と一緒にカナダに行ったり米国に行ったり世界を飛び回りました。
 ケーブルが出来たので早速試して見ました。ケーブルをつないでX−1 turboとFM16πの通信ソフトを立ち上げ、パラメーターを合わせてデータを送って見ました。見事にデータが転送されました。フロッピーディスクやカセットテープでは全く互換性のないパソコンの間でアスキーファイルを交換できたのです。
 私は今度はFM16πを会社に持って行って会社のif 800にもつないで見ました。if 800はフリスビーの親戚のような8インチディスクを使っていましたのでX−1 turboともFM16πともフロッピーディスクベースでの互換性はありませんでした。通信ソフトはif 800用のBASICでファイルのダウンロードとアップロードをする簡単なプログラムを自作しました。ダウンロード用とアップロード用でプログラムが別々で、ファイル名を変えるにはプログラムを直接変更しなければならないというような徹底的な手抜きをしましたがファイル転送は問題なくできたのでした。これでX−1 turboとFM16πとif 800を結んだ原始的ネットワークが出来たのでした。FM16πとif 800が結ばれると非常に便利なことがあったのです。

[5550のワープロ vs if 800のワープロ]

 当時私が会社で使えるパソコンはIBMの「5550」と沖電気の「if 800」でした。それぞれにワープロソフトも揃えてありました。双方のワープロソフトに全く互換性はありませんでした。日本語入力や編集等の操作方法が違うのは勿論なのですが、最も大きな違いはif 800の方がMS−DOS上で走るのに5550の方は独自のシステム上で走るのです。その為に5550で日本語ワープロ(「日本語ワードプロセッサー」と呼ばれていました。当時は様々な「日本語ワードプロセッサー」が存在し、「IBMの」とか「NECの」とかいった接頭語を付けないと区別ができませんでした。)を立ち上げるにはパソコンの起動時にパソコンのシステム(要するにMS−DOS)かワープロシステムか選択しなければなりませんでした。今から見れば5550のやり方は奇異なものに思えますが、当時としてはあまり珍しいものではありませんでした。先にも書いたように一世を風靡した管理工学研究所の「松」や私のMZ−2000用の「JET」も5550と同様な考え方でパソコンがワープロ専用機になるだけでした。ところがif 800用のワープロの「JWORD」はMS−DOS上で走ったのです。OS上で走るためにJWORDは多少注目されましたが、データの互換性や通信でファイルを送るなどということにあまり関心のなかった当時としては大きな意義はなかったのです。ワープロがDOS上で走ろうが走るまいが、シングルタスクでパソコンが使われる限りどうでも良いことなのです。DOS上で走ればDOSのアスキーファイルへの変換が簡単であるという程度のメリットしかありませんでした。
 私は両者のワープロを使い比べる機会を得ました。FM16πのROMに入って来たワープロがJWORDでしたので5550のワープロが不利なのは否めませんが、それを差し引いてもJWORDの方が私には使い勝手の良いものでした。JWORDの方が仮名漢字変換のスピードが速かったのと、if 800はパソコン起動時の立上り自体が速かったのです。当時の5550は何故か起動時にすごく待たされたのです。ワープロが準備完了になるまでにコーヒーが一杯飲めるかというほど待たされたのです。総合的に見て、同様な文章を入力するのに5550のワープロではJWORDと比べて50%から100%程度余分な時間が掛かったのです。これではユーザーとしては使い勝手はJWORDの方が良いと結論付けざるを得ませんでした。しかもJWORDの操作はUCSD−Pシステムのエディターに似ていたのです。UCSD−Pシステムを使ったことのある私にとっては軍配をJWORDの方にあげたのは当然のことでした。
 私はFM16πで作ったJWORDのファイルをRS−232Cインターフェースを通じて会社のif 800へ転送して見ました。JWORDはDOS上のアスキーファイルを作成するので通信で簡単に送れたのです。これでFM16πで作った文書をif 800の24ピンの漢字プリンターで打ち出せるようになったので、非常に便利になりました。しかしif 800からFM16πへのJWORDのファイル転送はうまく行きませんでした。そして私はJWORDが純粋なアスキーファイルを生成していないことを思い知らされたのです。

[JWORDの奇怪なアスキーファイル]

 FM16πにはJWORD以外にも日本語エディターが付属していました。このエディターはCP/MのEDのようなひどいラインエディターとは違って立派なスクリーンエディターでラインモードにも切り換えができ、なかなか使い勝手も良いものでした。しかし総合的なエディット機能ではJWORDにかなうものではありませんでした。それで私は簡単な文章以外はJWORDを使っていました。if 800のJWORDで作った文章をFM16πへ転送して変更しようとした時に奇怪なことが起こったのです。
 まず第一、if 800からダウンロードしたファイルをFM16πのJWORDで読み込むことができないのです。JWORDは普通のアスキーファイルを認識しないのです。FM16πに付属の日本語エディターでJWORDのファイルを読んでみると、1行目の最初の方は空白が続いていました。私はこの空白の部分にコントロールコードか何かでJWORDの文書名等の情報が書いてあるのだろうと推測してJWORDで短い文章を作って、それとif 800からダウンロードしたファイルをPIPコマンド(CP/Mのファイル転送用コマンド。MS−DOSのCOPYコマンドに似ている。)でつないでJWORDで読み込んで見ました。ファイルは見事にJWORDに認識されて読み込まれました。私は「ヤッタ!うまく騙してやった!」と思ったのですが、読み込んだファイルを調べて見ると反転文字があちこちに散らばってメチャクチャでした。ガーベッジそのものだったのです。
 私はガッカリしたのですが、諦め切れずに日本語エディターでJWORDのファイルを調べて見ました。所々に反転した「@」が見られました。反転した「@」はNULLコード(アスキー番号0番の文字)を表しているのです。JWORDのファイルでは半角文字の前にNULLコードを入れてあることが分かりました。ファイルの構造が分かったので前にBASICで書いた最上位ビットをカットするプログラムを改造して半角文字の前にNULLコードを付けるプログラムを作りました。そのプログラムを使って変換したアスキーファイルにJWORDの短い文章をつないでJWORDで読み込んで見ました。今度は反転文字もなく無事に読み込まれたのでした。ついでにJWORDの文章からNULLコードを削除するプログラムも作ったので普通のアスキーファイルとJWORDのファイルの間で双方向に変換できるようになりました。
 しつこく諦めなかったので、FM16πとif 800のJWORDを主要なワープロとした原始ネットワークは非常に使い勝手の良いものになりました。

[文明は人間をひ弱にする 野性のカラコルムタクシー]

 「人間諦めが肝心」という言葉もありますが、コンピューティングの世界ではサバイバルのためのしつこさが肝心なようです。恵まれ過ぎた環境ではしつこさは産まれて来ないようです。京都の登山家の高田氏が著書の「何で山登るねん?」の中でヒマラヤの西にあるカラコルム山脈へ登山した時の経験として次のようなことを書いています。
 登山のベースキャンプまで行く途中の村で急いで別の村へ行かねばならずタクシーを使ったそうです。タクシーと言っても文明から遠く離れたカラコルムの山の中ですからジープみたいな車だったそうですが、元の村へ帰る途中でガス欠になったそうです。高田氏は山の中でキャンプの道具も食料も無くどうしようかと途方に暮れそうになりました。ところがパキスタン人の運ちゃんは慌てず騒がず、どこからかポリタン(登山家仲間でポリエチレンのタンクの事)とゴムホースを取り出してきてガソリンタンクからサイホン現象で残っているガソリンを吸い出したのです。ガソリンは結構残っていて、運ちゃんは器用にポリタンをチューブでエンジンのキャブレターに直結して片腕でタンクを持ちながらジープを走らせたのです。
 しかし遂にポリタンのガソリンも無くなってしまいました。高田氏は「今度こそもう駄目だ!万事休すだ!」と思ったのでした。しかしくだんの運ちゃんは少しも慌てず騒がず、今度はどこからかボロ切れと棒を取り出して来て、棒の先にボロ切れを巻き付けてガソリンタンクに突っ込んだのです。ボロ切れを引き出してタオルのように絞るとガソリンを得られたのです。何回か繰り返すとポリタンの底に溜るほどのガソリンを得られました。運ちゃんは再びポリタン片手に車を走らせ遂にそのガソリンも切れた時には村はもう見える所にあったのです。
 高田氏はこの経験から文明は人間をひ弱にし問題を解決しようとする気力や意志までも失わせているのではないかと感じたと書いています。文明人が弱くなった話としては、石器時代そのままの暮らしをしている人達の所を訪れた文明人が、現地の人が木の棒と板だけで5分ぐらいで火を起こせるので挑戦したところ、一日掛かって手に豆が出来ただけだったそうです。さすがに厳しい登山家の世界でもマッチ無しで火を起こす訓練まではやりませんが、サバイバル訓練では必修の科目です。もしかしたら文明は生きようとする意志すら弱めているのかも知れませんね。(エーッ!文明世界では生きている実感自体が湧かないって?一度サバイバル訓練を受けて見ますか。)

[魔の山 ナンガ・パルバート]

 ところでカラコルムはヒマラヤ山脈の西、パキスタンと中国の国境にまたがる巨大な山脈です。古くはヒマラヤがこの山域全体を指したようですが最近はカラコルムと区別されることが多くなりました。ヒマラヤはサンスクリット語で、「ヒム」が「雪」を「アラヤ」が「住居」を意味し「雪の住む所」という意味です。一方カラコルムの方は「黒い砂」という意味です。ヒマラヤと同様カラコルムの岩も片麻岩が主体となっており、黒雲母片麻岩と灰黒色の結晶質石灰岩から出来た砂が黒いせいです。
 カラコルムはヒマラヤほど有名ではありませんが、世界第二位の高峰チョゴリを有する巨大な山脈です。チョゴリはK2とか人の名前を取ってゴドウィン・オースチンとか呼ばれましたが、やはり現地の呼び方チョゴリ(大きな山)を使うべきでしょう。なおK2とは「カラコルム測量番号2番」という意味です。いかにもお役所的命名です。カラコルムはただ高いだけではなく、「魔の山」と呼ばれる山を有しています。カラコルムの「魔の山」は8125mのナンガ・パルバートです。ヒマラヤ・カラコルム山域で最も血に飢えた山と言われドイツ系の登山隊を中心に1953年の初登頂までに20数人もの命を奪っています。

[アイガーの殺人岩壁]

 「魔の山」と呼ばれる山は世界に幾つも存在しますが、最も有名なものはスイスにあるアイガーでしょう。アイガーはメンヒとユングフラウと共に三山をなしています。メンヒは修道僧でユングフラウは若い女性という穏やかな意味なのにアイガーは鬼なのです。(しかし、この三者本当にどれが一番穏やかなのかな?あっ!問題発言!私は少なくとも虚偽の味方よりはオープンな敵を好みます。Open enemy is better than false friends.)
 アイガーは山を半分ざっくり切ったように北側は恐ろしい断崖絶壁になっているのです。これが有名なアイガー北壁です。技術的な登攀の困難さという点ではアイガー北壁が最悪というわけではありません。グラン・カピュサン南壁などはたった一回伝説的な登攀が行われただけです。アイガー北壁は天候の急変や落石、雪崩等の客観的危険が大きいのです。夏でも吹雪となり壁はカチカチに凍結するのです。しかも舞台装置が整っているのです。ホテルの真正面に壁があり、悪天候でない限りアルピニスト(高所登山家)達の一挙手一投足を観察できるのです。
 1935年に最初に壁に向かったドイツ人の二人のパーティは二度と戻りませんでした。ドイツの偉大な飛行家ウーデットが岩壁すれすれに飛ぶという大胆不敵な飛行を行い、一人のアルピニストが壁の中で立ったまま凍死しているのを発見しました。以後このアルピニストが死んでいた地点は「死のビバーク(ビバークは山用語で露営つまり野宿のこと)」と呼ばれるようになりました。
 アイガー北壁の登攀の歴史の中で最も劇的で悲劇的な事件は翌年の1936年に壁に挑戦した4人のドイツ・オーストリア混成パーテイの登攀でしょう。別々に壁に挑戦しにやって来たドイツ人のアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ及びオーストリア人のエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーの2パーティが登攀中に合同し一緒に壁に挑んだのでした。ヒンターシュトイサーが難所を避けて左へトラバース(壁を横断する事)するルートを開拓しました。以後このルートはヒンターシュトイサー・トラバースと呼ばれるようになりました。
 このヒンターシュトイサー・トラバースは右から左への登る方向へは何とか進めるのですが、左から右すなわち下る方向にはザイルを残して置かないととても引き返せないのです。パーティはザイルを回収してしまいました。引き返すことなど頭になかったのです。この地点は引き返し不能点(Point of no return)なのです。ここを越えると前進か死かなのです。アイガーの岩壁に挑戦したアルピニスト達はもはや後には退けないという精神的プレッシャーと急変するアイガーの天気に打ちのめされて行ったように思われます。
 4人の混成パーティもまずアンゲラーが落石で負傷し、天候も悪化して来たために退却を始めた時に悲劇が起こりました。ヒンターシュトイサー・トラバースを逆に進むことが不可能と気付いたパーティは壁の中に開いている坑道の穴のストーレン・ロッホ(盗人の穴:山をくり貫いて作った登山鉄道用のトンネルのために削った岩を捨てた穴)目指して退却を始めたのです。スイスのガイドのアルベルト・フォン・アルメンが穴の出口まで行ってパーティに呼びかけました。驚いたことに4人のアルピニストの力強い声が間近に聞こえ、「もうすぐそこへ行くぞ!」と返事が返って来ました。アルメンは「良かった!良かった!」とお茶を沸かして待っていました。ところが待てど暮らせど誰も現れなかったのです。
 アルメンは再び坑道の穴から呼びかけました。クルツから恐ろしい報告が届きました。「ヒンターシュトイサーは墜落した。ライナーはザイルに引きずり上げられて、そこで凍死した。アンゲラーはザイルで首をつられて死んだ。生きているのは俺だけでアブミ(登山用の短い縄梯子)の上で宙づりだ!」アルメンは他のガイドも呼んで来ましたが、その日はもう遅くクルツは吹雪の下で一晩置かれたのでした。
 翌日クルツはまだ生きていました。スイスのガイド達にはアクロバットのような岩壁登攀に慣れている者はおらず、クルツの所まで登れる者はいませんでした。下降用のザイルをロケットでクルツに渡そうとしてもオーバーハング(屋根のように突き出した岩)の上にクルツがいるので姿すら見えません。ガイド達はクルツにアンゲラーの所まで降りてアンゲラーの遺体をザイルから切り離しザイルをほぐしてつなぎ合わせて下まで下ろすように指示しました。クルツは凍傷で左腕をやられて使えずアブミに揺られて雪崩や落石の落ちてくる中で、通常の作業条件でも大変なこの仕事を5時間も掛けてやりとげました。
 ガイド達は下りて来たほぐしたザイルをつないだ紐に下降用のザイルをつないでクルツに引き上げさせました。しかしザイル一本では足りず2本目を結び付けました。クルツがゆっくりと下降して来てガイド達の目にも入るようになりました。「もう少しだ!」と皆が思った時、ザイルに通していたカラビナ(登山でザイルをつなぐ時などに使う金属の環)にザイルをつないだ結び目がひっかかってしまいました。クルツはカラビナを開いて結び目を通そうとしたのですが、片腕しかきかず体力も使い果たしておりガイド達の声援も虚しく、「駄目だ!」とつぶやいて力尽きたのでした。
 実にゾッとするような遭難がアイガー北壁で相継ぎ、バーの止まり木より険しい所に登ったことのないような人達の間でも話題になるほどでした。(再び何故山に登るのかの議論が・・・。)勿論マスコミも黙ってはおらず、ドイツ語で北壁を意味するノルトヴァント(Nordwand)をもじってモルトヴァント(Mordwand:殺人岩壁)という新語が新聞紙上に踊ったりしました。
 しかしアイガー北壁はアルピニストを呼び続けました。この血塗られた壁は1938年に4人のドイツ・オーストリア混成パーティによって完登されたのでした。

[超人 メスナー]

 イタリア(北部イタリアなのでドイツ語文化圏)の世界的登山家にラインホルト・メスナーという人がいます。メスナーは爪先立ちで毎日ランニング訓練をしたり、冬でも水のシャワーを浴びたりと超人的訓練を続け、アルプスの困難な岩壁に単独でザイルで確保もせず挑戦していました。1970年にドイツ人ヘルリヒコッファーの組織したナンガ・パルバートへの遠征隊に参加する機会を得たのでした。
 ナンガ・パルバートがカラコルムの魔の山であることは先にも書きました。ナンガ・パルバートへ最初に挑戦したアルピニストは数々の先進的な登攀を行った英国の登山家ママリーです。何と彼は前世紀の1895年に登頂を目指したのです。いかにママリーが時代に先駆けた人か判ります。ママリーは7000m近くまで到達したのでした。悪天候のためにそれ以上の登攀を諦め、別のルートを探しに行ったままママリーは二度と戻りませんでした。ナンガ・パルバートの最初の犠牲者でした。
 ナンガ・パルバートは非常に天候の急変し易い山なのです。1934年にメルクールの率いるドイツ遠征隊は頂上アタック直前に天候が急変し悲惨な退却を始めました。何日も助けを呼ぶ声が聞こえたのですが、救助は降り続く新雪に全てはばまれました。3人のアルピニストと6人の高所ポーターが帰らぬ人となりました。1937年の遠征隊は第4キャンプを雪崩で吹き飛ばされ、7人のアルピニストと9人の高所ポーターの命が奪われました。
 1939年のドイツ遠征隊は第二次大戦の勃発によって英国軍にインドで抑留されてしまいました。この遠征隊のメンバーにアイガー北壁初登のメンバーだったハインリッヒ・ハラーが含まれていました。ハラーはもう一人の相棒と脱走して、チベット高原を食料も装備も不足したまま生死の境をさまよいながら逃避行を続けました。
 第二次大戦も終了しハラーは英国軍の病院を訪れました。アルピニストでもある軍医がドイツ人達がアイガー等で行った気違いじみた登攀を邪道だと話していたのを聞いたハラーは自分がアイガー北壁登攀者の一人だと言ったのです。居合わせた軍医達はただ微笑しただけでした。彼らはこのミスター・ハラーという男はかわいそうに少し気が変なのだなと思っただけのようでした。何ヶ月も経ってからハラーのもとに新聞の切抜きが届けられました。英国人の軍医達からでした。新聞記事はアイガー北壁の第二登を報じていました。初登メンバーの名前も載っていました。そしてハラーの名前の所に鉛筆でアンダーラインが引かれていたのでした。ハラーは英国人アルピニストのスポーツマンとしての公正さを感じたと書き残しています。ハラーは記事を読んで第二登を行ったのがリオネル・テレイらフランス人であることを知り、自分達のクレージーなアルピニズムも世界に受け入れられ始めたのだなとニッコリしたのでした。
 リオネル・テレイは1950年のフランスのアンナプルナ遠征隊に参加して重要な役割を果たします。自分が登頂することもできたのにモーリス・エルゾーグ達にアタック隊の栄誉を譲って自分はサポートに回りました。アタック隊が下山途中に道を失った時、テレイは救助に当り「アンナプルナの天使」と呼ばれるようになりました。モーリス・エルゾーグは無事下山できたものの、凍傷で足の指全部と手の指も何本か人類史上最初の8000m峰登頂の代価として失いました。
 ハラーが再びナンガ・パルバートに挑戦することはありませんでした。1953年にヘルリヒコッファーの率いるドイツ・オーストリア遠征隊がナンガ・パルバートに挑戦しました。この時も悪天候にはばまれ敗色濃くなって来ました。ヘルリヒコッファー隊長の退却命令を無視してオーストリアのアルピニスト、ヘルマン・ブールが単身頂上を目指して7000mより低い所にあるキャンプから出発しました。悪天候で最終キャンプを作ることはできなかったのです。単独で1000m以上もの高度差を一気に登り詰めて8000m峰に登頂するという前代未聞の登攀をブールは成し遂げました。ブールは登頂の証拠として頂上にピッケルを突き刺し、写真を撮りました。そして頂上にピッケルを忘れてしまいました。スキーストックとアイゼンだけで下山し、途中で岩を抱きながら立ったまま夜を過ごし、出発したキャンプまで戻ったのでした。ブールも凍傷で足の指を何本か失ってしまいました。
 1970年に再びヘルリヒコッファー率いる遠征隊は今回はルパール壁と呼ばれる南壁からナンガ・パルバートへ挑戦しました。ルパール壁は高さ4500mにも及ぶ世界最大級の岩壁です。この遠征隊に前述した超人的アルピニスト、ラインホルト・メスナーが加わっていました。今回も悪天候にはばまれ壁を完登するのは危うい状態になりました。この時ラインホルト・メスナーが最終キャンプから一人で頂上を目指しました。隊長はヘルリヒコッファー、超人的登山家の単独アタックとヘルマン・ブールの劇的な登頂を想起させました。
 しかし今回は事情が違っていました。ラインホルト・メスナーの弟のギュンター・メスナーも兄の後を追って登って来たのです。追い付かれたラインホルトはビックリしましたが、頂上を前にしたアルピニストの気持ちを思えば弟に引き返せとは言えません。メスナー兄弟は二人で頂上に到達しました。しかしギュンターの兄に追い付くための無茶な登り方の影響が出て来ました。このような高所であまりに速く高度をかせぎ過ぎたためにギュンターは疲労困憊したのです。ギュンターはラインホルトにザイルで確保されずに下山する自信がないと言ったのです。メスナー兄弟は単独登攀のためザイルは持って来なかったのです。
 メスナー兄弟は頂上直下でアルミ箔の緊急用シートだけで物を考えることもできないほど寒い夜を過ごしました。翌日天候が持ち直したので第二登隊が登って来ました。頂上直下にいたメスナー兄弟と第二登隊の間は谷でへだたれていました。8000mを超えた高所では意思の疎通も難しく、第二登隊に「ザイルが欲しい」ということは遂に伝わりませんでした。第二登隊は「大丈夫か?」と尋ねて、ラインホルトが「(我々の健康状態は)大丈夫だ。」と答えたのに安心して、そのまま頂上に向かってしまったのでした。
 メスナー兄弟は仕方なくルパール壁とは反対側のディアミール側に下山したのです。この前代未聞の8000m峰の横断は成し遂げられ、もう危険な箇所はないという所まで下山した時に氷雪崩が発生しギュンターは何トンもの氷の下敷きになってしまいました。ラインホルトは3日間飲まず食わず、5日間何も食べず、凍傷に足をやられ最後は這ってディアミールの谷にある村にたどり着いたのでした。このメスナーの信じ難いオデッセーを世界の登山家達が知った時、皆「奇跡だ!」と言ったのでした。「でも僕は奇跡なんか信じない!」とメスナーは書き残しています。

[ルートは見い出されなかった!]

 さて再び、何故山に登るんでしょうね。モーリス・エルゾーグは「8000mの灰色の岩。これが命を掛けた代償なのか?」と書き残しています。今もローツェ南壁が、チョマランマ(エベレスト)東壁が、カンチェンジュンガ北壁が、チョ・オユー南壁がアルピニストを呼び続けています。
 命を掛ける登山では、ラインホルト・メスナーのような超人的登山家でも非常に慎重で、無理に突っ込まず、しばしば引き返しています。そして彼は同じルートに二度と挑戦することはありません。彼によると、登攀に失敗したのではなく「ルートは見い出されなかった。」からです。それで私はプログラムをうまく作れなかった時は「アルゴリズムは見い出されなかった!」と言うことにしています。



アルゴノートの冒険 1

アルゴノートの冒険 11

アルゴノートの冒険 13

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