[表現の自由と
電子ネットワーク
]

 憲法21条第1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めています。「一切の表現の自由」とありますから、私たちのインターネットやパソコン通信での情報発信も当然その保障を受けます。

 表現の自由は憲法が保障するたくさんの人権の中でも特に「優越的地位」が認められています。憲法は国民主権のもとで民主主義社会を保障していますが、それは国民の自由な議論なしには成り立ちません。表現の自由は、民主主義社会の基盤を提供します。また、表現の自由は一旦そこなわれると、再び国民の自由な議論を通して回復することができません。これらが表現の自由に優越的地位が認められる理由です。

 このように表現の自由は民主主義と密接に結びついた権利です。昨年の米国の大統領選挙のときにはnews groupの中で両陣営についての議論が活発に行われましたし、以前から電子ネットワークを使った米国の選挙活動の例が報告されていますが、表現の自由のこのような性格からすれば当然ともいえます。

 日本の古い判例では、枕詞的に「表現の自由は最大限の保障が…」とふれながら実際には、いとも簡単にその制限を合憲としてしまうものもありました。しかし、現在ではそのようなものは姿を消し、詳細に表現の自由に対する規制の合憲性を審査する傾向にあります。

 「優越的地位」が認められる表現の自由の制限は真にやむを得ない場合以外はほとんど認められません。よく知られている「(法益侵害の)明白かつ現在の危険」がある場合だけ制限の合憲性を認めるルールやCDAの違憲判決で用いられた「曖昧ゆえに無効の基準」のルールなどは、表現の自由の制限が本当に限られた場合以外は認められないことを示すものです。枕詞的に「表現の自由の保障」といえば足りた時代はすでに大昔のことです。

 ネットワーク上の個人の表現の自由は、マスコミなどの表現の自由以上に保障されるべきです。これまでは表現の自由といってもマスコミや一部の評論家、作家以外は表現手段がなく、実際には絵に描いた餅でした。しかし、現在ではインターネットを通じて普通の市民が情報を発信できるようになりました。

よく考えてみるとマスコミはほとんどすべて株式会社という法人です。もちろん、法人にも基本的人権を認められますが、憲法がまず保障しているのは、法人ではなく私たち市民の基本的人権です。したがって法人よりも市民の表現の自由のほうが、優先して保障される資格を持っています。わが国の判例もマスコミの報道の自由は国民の知る権利に奉仕するものであるといっています。つまり、本体は私たち市民の表現の自由なのです。

以前、ある新聞が「パソコン通信にも表現の自由が…」と書いていましたが、むしろ表現の自由の本体は個人の情報発信にあるというべきで、この記事は表現の自由を誤って理解しています。市民がネットワークを通じてやっと自ら表現活動を出来るようになったのにマスコミ以下の扱いをされるのでは困るのです。むしろそれ以上の保障が認められるべきでしょう。

 昨年の年末に郵政省が出した《12/26付:インタ−ネット上の情報流通−電気通信における利用環境整備に関する研究会−報告書》では「インタ−ネット上の情報流通に関するル−ル作りは、表現の自由の保障と関連するため、慎重に検討する必要があり、当面、法律による新たな規制は行うべきではないと考えられる」としており、報告書の各所で表現の自由との関連に触れているのはこのような見地から注目すべきといえます。

 その不当な場面は現在の法律の解釈で是正していけば良いのであって、新たな制約をすべきではないのです。現在の規制論の多くは、現在の法律制度で対応が可能かどうかすらの検証もおこなわれていない傾向があります。

 これからは、行・財政改革、規制緩和などの関係で情報公開や直接民主制などの民主主義的な手段を充実していく必要があります。情報公開も単に公開するだけではなく、公開された情報に基づいて国民が議論し、その是非を問うことに意義があります。直接民主制も住民投票だけでなく、それ以前に十分に市民の間に情報が行き渡り活発な議論がおこなわれることが大切です。そのようなときに市民の表現メディアであるインターネット等が、重要な意味を持ってきます。

 現在インターネット上に現れているHページなどのやっかいな問題は放置して良いというものではありません。新たな法律を作るのではなく、現在の制度のなかで問題を解消していく努力をしていけばよいわけです。また、その場合であっても表現の自由を不当に狭めないように配慮しながらやっていくことが必要です。最近は「民民規制」の問題点が指摘されるようになってきました。インターネットの表現の自由でもこの点を考えるべきです。

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