「ヴァニラ」について
ヴァニラ・セックス
1996年6月/WEB SITE"QueerNetCafe"のために
バニラ・セックスという言葉を聞いたことがあるだろうか? アイスクリームのバニラ味が語源だが、アイスクリームを潤滑剤に使う性行為を表わしているわけではない。
もっとも標準的で、あたりさわりのない味。特別なトッピングも乗っけていない、ある意味では退屈な味。バニラ味にはこうしたイメージがあるが、この語感ををセックスのありように適用した言葉だ。
「ザ・ニュー・ジョイ・オブ・ゲイ・セックス」ではこんな風に説明している。
「誰でもしている平凡なセックスのことです。その言葉は、ただ単に説明的に用いられることもあれば、軽蔑の意を込めて使われることもありますが、『バニラ』とは当人のセクシュアル・ファンタジーや性行為が、ゲイの世界からも、またゲイの世界に近いところにいるストレートたちからも最も受け入れられている人をいいます。キスや愛情に重きを置き、ファラチオやアナル・セックスを適度に行うのがバニラと呼ばれる人々のレパートリーです。」
辞典という性格上、かなりニュートラルな書き方になっているが、退屈なセックスというニュアンスはかなり込められている。
実際に「君ってバニラなんだね…」と言われたら、褒め言葉としては使われていないと思った方がいい。
でもこんな否定的なニュアンスを含んだ言葉でも、この言葉を知ったおかげで、僕は救われた思いがした。
「あ、そうか。僕ってバニラなんだ」
僕は長い間、自分が求めるセックスでは相手が満足しないのではないかという強迫観念に囚われていた。それほど性体験は多くないけれど、セックスに求めるものが、いつも僕と相手とでは、かなりのズレがあるような気がしていたのだ。
僕は昔からセックスが終わった後のリラックスした雰囲気が好きだった。二人だけの特別な時間を共有できたという満足感。親密さが増し、いつまでも抱きあっていられる安心感。僕はこうしたものが欲しいがゆえにセックスをしてきた。
僕にとってはこれこそがセックスの目的だから、途中でいかに興奮できたかにはあまり関心がなく、どちらかというと、多くの人にとって一番の目的の部分は早くやり過ごしたい気持のほうが強かった。
しかし、そういった僕の気分が相手に伝わると、相手をシラけさせる結果になってしまう恐れがある。相手がシラけてしまうと、セックスが終わった後の、僕にとって一番おいしいところにたどり着けなくなってしまうから、僕は頑張るしかない。
まるで潜水泳法で50メートル泳いでいる感じだ。こうなると、僕にとってセックスは難行苦行の体をなしてくる。
人によっては、セックスが終わったとたん、ベタベタするのをさも迷惑そうに嫌がるのもいるけど、そんなことをされたら詐欺にでもあった気分になってしまう。
こんな僕ってどこかおかしいの? だんだん僕はセックスが面倒になってきた。
そんな時に「バニラ」という言葉と出会ったのだ。
ある言葉と出会うということは本当に大きな意味を持っている。
それまでの僕は、人に相談しにくい個人的な悩みを抱えている「変わった人」でしかなかったのに、「ザ・ニュー・ジョイ・オブ・ゲイ・セックス」の中に「バニラ」を見つけたことで、他にも自分と同じ様な人がいることを知り、問題が解決したわけではないけど、どこかで安心できたのだった。
これって「ゲイ」という言葉に出会ったこととよく似ている感じがした。この言葉に出会う前は、自分は「男と寝たいと思っている変態」でしかなかったのに、それは悪いことでも、病気でもなく、世界中に同じ仲間がたくさんいると知ることができたのだから…。
過去に、こういった経験をしていたおかげで、それほど肯定的に書かれていたわけでもない「バニラ」の説明でも、僕には十分だったのだろう。そしてゲイがそうだったように、バニラもプライドを持つことが必要なんだと直観したのだった。
プライドを持つと物の見え方が違ってくる。まして自分を否定的に考えていた人間なら、その効果は絶大だ。
だいたいバニラが肩身の狭い思いをしなくちゃならないのは、世の中の方がどこか間違っているのだ。こんな風に考えられるようになったのだ。
こうやって視点を変えて見てみると、今のセックスの状況ってなんだかおかしなところに来てしまっているような気がしてきた。
性の解放が進んで、ゲイなどのセクシャル・マイノリティの存在も認められるようになり、全体的には良い方向に時代が向かっていると思っていたのに、僕のようにセックスに相手との親密な感じを求めていることが恥ずかしいことのように思われるような風潮が生まれてしまっていたなんて…。
性的に興奮することを恥ずかしいことと考える抑圧的な状況を打破しようとしてきたあまり、興奮すればするほど良いセックスという考え方が一般的になってしまったのだろう。ゲイは特にその傾向が強いように思われる。
問題なのは、興奮することではなくて、興奮することだけがセックスの目的になってしまったことなのだ。性の解放は、狭いエリアに閉じ込められていたセックスをより広くて豊かなエリアへと解き放つのではなく、単に刺激的な方向へとシフトしただけだったのだ。
いつのまにか、セックスは相手とやるマスターベーションになってしまった。
マスターベーションでは、相手は単に自分を興奮させる道具でしかない。僕は特別な親密さを感じ合うために「人」とセックスをしたいのだ。
もちろん、時には興奮するのもいい。イクのもいい。しかし、それは結果であって、最初からそれだけを目的にしているようなセックスなら、別に一人でやっていた方が面倒くさくなくて、よっぽどいいという気さえしてしまう。
すべてのバニラが、僕と同じだとは思わないが、こういった感覚に共感してくれる人は少なくないと確信している。
キスをしたり、抱き合ったり、触れ合うことで人と特別な親密さを感じることを目的にセックスをする人間と、興奮することだけを目的にセックスをする人間が平等である、そんな状況こそが豊かなセックスのありようなのではないだろうか。こんな状況を作り出していくためにも、バニラがバニラであることにプライドを持つのが、今とても大切な気がする。
自分たちの欲しいものと嫌なものをはっきりと口に出していかないと、バニラにはセックスレスという選択肢しか残されていない結果となるだろう。