別冊宝島「ゲイのおもちゃ箱」より
1992年12月発売


[Wednesday News]について-3

 

なぜカミング・アウトが必要なのですか?

 カミング・アウトとは、自分がゲイであることを、まわりの人間に明らかにするという意味で使われる言葉です。英語の表現で、ゲイであることを隠しているのを、「押し入れに居る」という言い方をするので、その押し入れから出てくるという意昧でカミング・アウトというわけです。

 なぜカミング・アウトするのかということですが、逆にカミング・アウトしないで生きてゆくのが、どういうことなのか考えてみましょう。カミング・アウトしない限り、ほとんどの人はそのゲイをストレートと見なし、ストレートのように行動することを期待します。要するに、ゲイは自分がゲイだと気づいたときから、自分でないもののふりをし続けることを余儀なくされるわけです。

 そして、ゲイをことあるごとに馬鹿にしたり、変態扱いしたりする人間ともつき合わさるを得ないし(嘆かわしいことに、親や親友もそういう人間である場合がほとんどです)、それに対して弁解がましいことを言うこともできないばかりか、ときには一緒になって、結局は自分自身を侮蔑するようなことを、笑いながら言わなければならない。これで自已嫌悪を起こさない人間がいると思いますか? そして、こんなゾッとするような状況は生きている限り続くように思えるのです。すべての人でなくていいから、少なくとも自分にとって重要な人間だけには、あるがままの自分を分かってほしいと思うのは当然でしょう。もし事情が許せば、カミング・アウトしたいと思っているゲイは圧倒的に多いのです。よく、ゲイであることは不健康で自然に反していると言う人がいますが、こんなふうに自分自身を曲げ続けて生きるほうが、よっぽど不健康で不自然だと言えます。

 このカミング・アウトには、自分自身を解き放すという目的の他に、もう一つ重要な側面があるのです。これは、カミング・アウトする人自身は、あまり意識していないのですが、日常的なレペルではゲイは存在していないと思いこんでいる人に、一つの事実を突きつけられるということなのです。世の中のほとんどの人が、性の好みの問題を除けば、ゲイが自分たちと同じように平凡であたり前の人間だという事実を知らないからこそ、ゲイにとって耐えられない状態が作り出されているわけで、それはゲイが自分自身を主張しないところに起因しているとも言えるのです。

 世の中に、ゲイに対する偏見や誤解があるから、ゲイが自分を主張するのをためらう。主張しないから、偏見や誤解がなくならない。この二つは悪い形で相互に補強しあっているのです。この悪循環は、とにかくどこかで断ち切らねばならないのです。

 たしかに今のところ、カミング・アウトが容易に受け入れられる可能性は小さいし、強制されるべきものではないので、誰でもカミング・アウトをすべきだとは言いませんが、細心の注意を払いながら、できるところからやっていく、これは必要だと思います。


 僕は今でも、若いゲイの人たちにはカミング・アウトを勧めています。手始めに、ずっとつきあっていくつもりの友人あたりからトライすることを勧めます。自分を隠さないでもいいという気分を一度でも味わってもらいたいんです。その第一歩ができると、後は少しずつ楽になってくる。カミング・アウトはゲイが自分を受け入れていくプロセスで重要な役割を演じてくれるのです。

 カミング・アウトに関連するのですが、アメリカやイギリスではアウティングといった過激な戦略をとるゲイ・リブのグループが出てきました。社会的な影響力を持つ立場にいながら、社会的にカミング・アウトしていないゲイの名前を公表するというものです。

 いつまでたってもアンチ・ゲイ的な態度を変えない社会に業を煮やしての行動なので、気持ちはわかるのですが「ゲイならばこうすべきだ」という発想が僕には受け入れられません。

 「男ならこうすべきだ」という押しつけに反発することが、ゲイの僕にとっての出発点だったのですから、ゲイの問題を解決するためだとしても(これが解決をもたらすとは思えないけど)、「ナニナニならばこうすべきだ」と人に意見を押しつけるやり方は断固拒否していくつもりです。



 

なぜ一部のゲイは女装を好むのですか?

 女装するのは、要するに、それが本人にとって楽しいことだからです。女装する人は、ストレートからも、ゲイからも白い眼で見られがちですが、楽しいからするという、その人の好みの問題に属することを、他人がとやかく言うのは全くおかしいのです。本来、人間には変身願望があり、許されるなら、一度くらい全く自分とは違ったもの(男にとって、女もその一つ)になり切ってみたいと思うのは、なにも不思議なことではないのです。ですから、この“一部のゲイはなぜ女装するのか”という言い方は正確ではありません。実際、ストレートの中にも女装を好む人はいるからです。女装することとゲイであることは、混同されがちですが、それは分けて考えなければいけないのです。

 最近は、女装して客にサービスすることが、職業として確立しているので、そういう女装パーや、クラプヘ遊ぴにいく人もふえてきたし、テレピや週刊誌がゲイをとりあげるときは、必ずと言っていいほど、女装した職業人をゲイの代表のように扱うので、ゲイはすべて女装している、もしくはしたいと思っていると、人の目に映ってしまうだけのことなのです。また、彼らが、自分たちのことを真のゲイの姿だと、つい言ってしまうところにも問題があると言えるのですが、彼らが話術を中心にしたエンタテイナーだという事実を忘れて、ゲイとはこうしたもんだと信じこんでしまうのは、軽卒だと言わねばなりません。

 女装が、ストレートからも、まして自分たちが差別を受けているゲイからも、差別を受けるべきでないのはもちろんですが、女装するゲイは、全体から言えばほんの数パーセントの割合だということは、知っておいてほしいと思います。

 これに関連して、よく、ゲイはくねくねと女っぽいものだと思われていますが、いわゆる女性的なストレートの男もいれば、「男の中の男一ぴき」といわれるようなゲイの男もたくさんいるので、そういうきめつけをするのはおかしいことです。そこには、性的に男性に魅かれるのは女性なのだから、当然ゲイは女性的でなけれぱならない、という思いこみが多くの人の頭の中にあるのでしょう。

 それよりも問題なのは、いわゆるやさしさとか、動きのやわらかさとか、感情的だとかいうものが女性特有の資質だという、性に役割を与えてしまう考え方に無理があるということです。常に男は男らしく女は女らしくという教育は、ゲイとかストレートを問わず、多くの人をスポイルしているのです。

 そういう意味から、女装する行為には、本人が楽しいからするだけだとしても、いわゆる男らしさ、女らしさに対する痛烈な批判がこめられていると思います。


 今どき、ゲイ=女装って考えてる人はかなり少なくなったと思います(まったくいないとはいえないけど)。女子高校生あたりまでがハード・ゲイの話をする時代ですもの。なんのかんのといっても、ゲイに関する情報は13年前とは比べものにならないほど流布しているんだと思います。だから、小見出しにまで「一部のゲイは……」と気を遺わなくてはならなかった気分までは、今は伝わらないでしょうね。

 今だったら、「あら女装って楽しいのよ。一度やってごらんなさあい。女装程度でビクビクすんじゃないのっ!」ぐらいで、ここはすませたかもしれない。

 それよりも問題にしたいのは、ゲイのなかには女性的であることを恥ずかしいと思っている人がいまだにたくさんいるということです。ゲイは皆クネクネと女っぽいと馬鹿にされてきたことへの反動で、ゲイは全員が女性的なわけではないと主張することが、いつのまにかゲイは男っぽいのが普通だとすりかえられて、いわゆるオネエさんの存在を自分たちの恥部のように思っているゲイがたくさんいるのです。このオネエ差別は世の中の女性差別と根を同じにしていて、ゲイが心して取り組まなければならない間題だと思います。自分への差別には敏感に反応するのに、自分が持ってる差別意識には無関心というのは、よくあることだけど、滑稽きわまりないことです。

 ゲイのなかにある女性的なものは、ゲイを魅力的にしている豊かさの源泉だと僕は思っています。これがなければ、退屈なストレートの男とおーんなじじゃないっ!(こめんあそばせ)ゲイに限らずすべての男性が、自分の内なる女性性を認め、大事に育てていけば世の中はもちっとはましなものになるのに…。



 

バイセクシュアルについてどう考えますか?

 性的に、異性にも同性にも魅かれる人のことをパイセクシュアルと言いますが、人間そのものが本来パイセクシュアルな存在です。これは、本当は誰もが異性とも同性ともセックスをすべきなのだとか、異性だけにしか魅かれない(同性だけにしか魅かれない)のは異常なのだというのではありません。

 ある人間が性的に異性に魅かれようと、同性に魅かれようと、もしくはその両方に魅かれようと、そのどれをとっても全く自然なことだという意味で、バイセクシュアルな存在だと言っているのです。ストレートもゲイもパイセクシュアルも人間が持っているセクシュアリティーの自然な表れの一つなわけです。ですから、ストレートだけが正常だとか、パイセクシュアルはゲイよりもまだましだとかいう発想は全く馬鹿馬鹿しいものなのです。

 よく本当はゲイなのに自分はパイセクシュアルだと言う人がいますがそういう人の意識の根底には、ゲイよりもパイセクシュアルのほうがきこえがいいとか、許される存在という、結局ストレートへの劣等感、ゲイである自分への嫌悪、憎悪感がよこたわっていることが多く、その場合と、人間は本来パイセクシュアルな存在だというのとは、もちろん根本的に間題が違います。

 

ゲイにはよく、ストレートにない優れた才能、感覚があると言われていますが…。

 ゲイが自分を主張できない理由には、ストレートだけで構成されているという前提で成り立つこの社会に、ゲイに対する様々な誤解が存在し、そこから差別や侮蔑がひきおこされているからだと前に書きましたが、その誤解は一つのパターンを持っています。それはゲイは……だというきめつけです。ゲイは女のできそこないだ。だからみんなくねくねと女っぽい。ゲイは正常な人間関係を営めず、セックスすることぱかりを考えている。まあ、いちいちあげたらキリがないほどのステレオタイプがつくられています。そういうステレオタイプはほとんど否定的なものばかりなのですが、中には、肯定的にみえるものもあります。ゲイは芸術や芸能にすぐれた資質があるとか、ファッションのセンスがいいとかいうものがそれです。

 古来偉大な芸術家にはゲイが多かった(ダヴィンチ、ミケランジェロ、世阿弥etc)とかいう話はよく聞きますし、一流のファッション・デザイナーはほとんどがゲイだというのも耳にします。しかし、性の好みを除けば、ゲイはごく一般的な生活をしている人と、なんら変わるところはないというのが理解できれば、そういう、ゲイにはストレートにはないすぐれた資質があるというのは、全くの誤解だというのは分かるはずです。ある分野にゲイが多いように見えるのは、ゲイが否定される社会で、その分野が比較的、ゲイであることがマイナスにならない性格を持っているからにすぎないのです。そういう少しでも自由な雰囲気を求めて、才能のあるゲイが集まり、ゲイが多いのでまたゲイが集まるといった形を繰り返してきたからなのでしょう。言いかえれば追いやられたと言ってもいいのです。

 否定的なイメージを与えられたステレオタイプにくらべて、こういう一見肯定的なステレオタイプは、それが肯定的な分だけ、たちが悪いのです。肯定的であるので、ゲイにも受け入れやすいし、そこから自分たちがなにかエリートのような錯覚を抱いてしまう。これは、注意深く見てみれば、否定的なイメージの、単に裏がえしの表現にしかすぎないというのは分かるはずです。何よりも問題なのは、ゲイはこうした選ばれた才能があるのだから、いくら社会の馬鹿どもに非難され、異常と見なされてもかまわないのだ。自分たちの欠けてる部分はそれをおぎなってあまりある才能で代償されているから、ゲイは恵まれているのだという形で納得してしまうところなのです。はっきりいいますが、ゲイは何か代償を求めなければならないような部分は何一つないのです。

 これと似たことなのですが、よくゲイ自身の口から、ゲイは否定されているからこそ、隠れているからこそセックスの喜ぴが大きいのだ。だからゲイがあたり前になったらつまらないという話を聞きます。

 たしかに興奮するという点を中心に考えていけば、タブーをやぶる行為はセックスの喜ぴを大きくすることは認めます。しかし、セックスをすることは、より大きい興奮を求めるだけが目的ではないはずだし、そのセックスの興奮のために、他の人生の喜ぴを犠牲にしてしまうのは、あまり賢明な取引きだとは思えないのですが…。

 

生殖を伴なわない愛に、うしろめたさを感じませんか?

 同性愛は、何も生みださない愛だ、そんなものは不毛だ、という意見をしたり顔でいう人がいますが、それは事実でしょうか? 愛が生みだすのは、子供だけなのでしょうか? たしかにゲイ同士のセックスは生殖に結ぴつきません。しかし、生殖に結びつかないから、非生産的だとは言えません。人が、愛したり、セックスすることで得る喜ぴは、何よりも大きなものです。そういう喜ぴを基盤に、人が働いたり、ものをつくりだすことは立派に生産的なことです。ストレートのカップルにも、何かの事情で子供が持てないことはいくらでもあるし、自分なりの物の考え方から、子供をつくらないようにしている人は、たくさんいるのです。そういう場合でも、ウシロメタサを感じなけれぱいけないとは、とても思えません。

 子供を育てることが大きな喜ぴで、人によっては、人生の上で何よりも大切なことと思えるのは分かります。ゲイの中にも、とにかく子供が大好きで、子供を育てたいと願っている人は大ぜいいます。また現に子供を育てているゲイもたくさんいるのです。世の中の偏見や差別が少なくなれば、自分のことを積極的にとらえられるゲイのカップルが、子供を養子にして、育てることだって可能なのです。

 「正常」な愛から生まれた子供が、拾てられたり、殺されたりしている今の社会で、自分のもっている愛情と力を、子供を育てることに、注ぎこみたいと願うゲイのカップルがでてくれば、逆に一つの救いだと思います。とにかく子供にとって一番大切なのは、血のつながりよりも自分に注がれる愛情なのです。


 異性間のセックスで、純粋に生殖のために行なわれるものなんてどのくらいあるんでしょう。今となっては、ストレートのセックスにたまたま生殖が伴なっているにすぎないのに、それを錦の御旗にするなんてチャンチャラおかしい。うしろめたいか、うしろめたくないかの不毛の論議には目もくれず、現実はフル・スロットル。同性間の結婚が認められている北欧では、養子をとるゲイのカップルが急増しているとか。また、人工受精で子どもを持つレズビアンのカップルも多くなってきているとのことです。

 家族の形態がどんどん変わり始めています。ニューヨーク市の教育委員会は小学一年生にゲイやレズビアンについて教えることを決定。ゲイの片親を持つ子どもやゲイの子どもを持つ家庭を取りあげた教科書を使用することになったという話が伝わってきています。

 ストレートのみなさん、無自覚にセックスしていることにうしろめたさを感じませんか?



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