小説すばる『今月の、この一冊。』96年7月号〜97年6月号(集英社)

●contents

25 小林泰三『玩具修理者』角川書店
26 法月綸太郎『パズル崩壊』集英社
27 井上夢人『パワー・オフ』集英社
28 高野史緒『カント・アンジェリコ』講談社
29 清涼院流水『コズミック』講談社ノベルス
30 菅浩江『鬼女の都』祥伝社
31 山田正紀『女囮捜査官』トクマノベルズ
32 清涼院流水『ジョーカー』講談社ノベルス
33 服部真澄『鷲の驕り』祥伝社
34 神林長平『ライトジーンの遺産』朝日ソノラマ
35 柴田よしき『炎都』トクマノベルズ
36 森博嗣『封印再度』講談社ノベルス




【今月のこの一冊#25】(小説すばる96年7月号)
小林泰三『玩具修理者』角川書店

 某月某日、水玉螢之丞画伯(SFおたく)と電話でバカ話をしていた折のこと。
「最近なんかSFが多いでしょ」
「今度の推理作家協会賞だって両方SFですもんね。『「吾輩は猫である」殺人事件』も実はSFだし。そうそう、西澤保彦の新作がまた凄い。宇宙人の秘密装置とか出てきて」
「やっぱり森博嗣が正しかった、と」
「へ?」
「だからほら、『すべてがSFになる』」
 ……というわけで、今月もまた、この万物SF化理論を補強する新作が出た。『パラサイト・イヴ』(←当然バイオSF)と同時に日本ホラー小説大賞短編賞を受賞した、小林泰三の『玩具修理者』である。
 といっても、ブラッドベリをグロテスクにしたような表題作をSFだと強弁するつもりはない。なにしろこれは新手のクトゥルー神話物(ただし直接的な関係はほとんどない)だから、せいぜいSFの親戚程度。主役は本書全体の約八割を占める書き下ろし二百八十枚の中編、「酔歩する男」のほうである。
 語り手の「わたし」は、酒場で偶然出会った見知らぬ男から、「もしや、わたしを覚えておいででは?」と声をかけられる。人違いでしょうと答えると、相手は、「わたしはあなたをよく知っているが、あなたがわたしを知らないなら知り合いではないのでしょう」と謎の言葉を吐く。しかも男は、他人が知るはずのない「わたし」の個人情報を知っている。問いつめる「わたし」に応えて、男は長い物語を語りはじめる……。
 小さな謎を契機にはじまった会話から、やがて驚くべき物語が全貌をあらわすという構成は表題作と同趣向で、一見、「玩具修理者」の変奏曲かと思わせる導入だが、意外や意外、男の語る物語は、独特の時間理論を駆使した本格タイムトラベルSFへと発展していく。
 時間旅行の目的は、過去に遡って歴史を改変し、恋人の死を食い止めること。無数のジャンルSFで反復されてきたプロットではあるものの(最近では、梶尾真治の連作短篇集『スカーレット・スターの耀奈』が好例)、本作では、脳外科的な方法で意識だけの(つまり非物理的な)タイムトラベルを実現し、思いがけない結果を得る。時間旅行の力は能力ではなく、時間把握能力の欠如であるというのが核となるアイデアで、この逆転の発想には優れてSF的なセンスオブワンダーがある。日本が生んだユニークな時間SFの収穫に数えられるのはまちがいないだろう。
 こういう小説が、ホラー短編の添え物的なかたちで出版されること自体、今の日本の出版界における「SF」の位置を雄弁に物語っているわけだが、なに、SF読者も嘆くことはない。たとえレッテルは違っても、けだし、「すべてはSFになる」のである。


【今月のこの一冊#26】(小説すばる96年8月号)
法月綸太郎『パズル崩壊』

『パズル崩壊』は、名探偵・法月綸太郎の登場しない作品8編を収めた、作家・法月綸太郎の第二短編集である(巻末の短編に登場する綸太郎は「探偵」じゃないよね)。
 ……と書き出して途方に暮れる。作中法月が探偵と作家を兼業するように、実在法月は評論家と作家の二足のワラジを履く。書評者の立場からすれば、明らかに後者のほうがタチが悪い。たとえば本書のあとがきは、著者自身によるほとんど完璧な「解説」でもある。
「本書では、それぞれの起承転結とは別に、本格ミステリー「謎と解決の物語」の形式にさまざまな角度から亀裂を走らせることを念頭に置き、総体として、一連の崩壊過程が徐々に進行していくような構成をとりました」。
 このあとがきの前ではなにを言っても竜頭蛇尾。とはいえ書評行為の本質的不可能性だとか、書評家という特権的立場のあらかじめ失われた根拠とかについて俺が悩んで見せても芸にならない。だいいち悩んでないしな。
 作家・法月綸太郎の特異性は、「悩める作家/悩める探偵」のパラレル構造を作品のあらゆるレベルに浸透させ、ほとんどバロック的な芸風として完成させた点にある。批評家・法月が悩みを発見し、作家・法月が悩み、探偵・法月を悩ませる。『パズル崩壊』自体、この悩みをめぐるドキュメントでもある。
 まあ、個々の作品についてはそれなりに感想はある。たとえば、PKD訳者の末席を汚す人間としては、フィルがリュウ・アーチャーと対決する『ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか?』におけるディックの悲惨な扱い(笑)に一言抗議したい気もするのだが、しかしここでもポイントは、実在の作家(作家と作中人物の名を混淆した名前が与えられる)と、架空の名探偵との併置(ロジカルタイプの混乱)にあり、そのおなじ混乱が爆笑の大トリックへの伏線ともなっている。
「観念の(チープな)ガジェット化」がディックの魅力であるという大森の持論からすると、このあまりにもディック的なオチをパズラーの舞台に異種配合して生じた異化効果は、ロスマク的問題(フラットキャラクターの有効性)に対する鋭い批評としても読める。
 しかしむしろ特筆すべきは、この短編集自体が、その配列と「あとがき」とによって、一個の本格ミステリー論として強烈に自己主張していることだろう。あらゆるデータがビットで測られ、電子的に等価に並列される現代では、「なにを見せるか」より、「いかに見せるか」が問題になる。コラージュやサンプリングにも共通する技術だが、つまりこれは「編集」にほかならない。『パズル崩壊』の編集は、その卓越した見せ方によって、本格ミステリーの歴史そのものを一冊に凝縮する。古典的パズラーから新本格第二世代までを俯瞰する、超絶技巧の短編集である。


【今月のこの一冊#27】(小説すばる96年9月号)
井上夢人『パワー・オフ』

 生物と無生物を分ける境界は、必ずしも明確かつ固定的なものではない。A‐life(artificial life=人工生命)という概念が、文系/理系、技術/美術の垣根を越えて多くの研究者の興味をかきたてるのも、「生きている」という謎めいた状態を解き明かす鍵が、その背後にあるからだろう。
 本誌の連載完結から一年を経てようやく単行本が刊行された井上夢人の『パワー・オフ』は、一見、よくあるコンピュータ・ウィルス物のサスペンスのようで、じつは「生命とはなにか?」という問題に正面から挑む現代のプロメテウス神話――フランケンシュタイン・テーマのきわめて今日的な変奏曲である。
「生きているプログラム」とか言うとSFの話かと思われそうだけど、生命の基本的要件(複雑性、交配、進化、死)を満たすソフトウエアならいくらでもある。たとえば、数学者で先鋭的SF作家のルーディ・ラッカーが開発したA‐lifeプログラム、Boppers(アスキー『人工生命研究室』に収録)をインストールすれば、旧型のノートパソコンでも人工生命が飼育できる。『パワー・オフ』の冒頭に登場するコンピュータ・ウィルスも、一種の原始的な人工生命だと言っていい。通称「おきのどくさまウィルス」と呼ばれるこのプログラムは、大手商用ネットを舞台に、生物学的ウイルスと同様、自己複製によって宿主のシステムに感染してゆく。そして、比較的無害で単純なこのウィルスが、開発中の高度な人工生命プログラムにとりこまれたとき、事態は思ってもみなかった展開をみせはじめる……。
 人工生命とコンピュータパニック小説の結合自体は、そう珍しいものではない。手前ミソで恐縮だけど、つい先月ぼくが翻訳を終えたばかりの『ハッカーと蟻』(前述ラッカーの最新SF長編)も、遺伝的アルゴリズムによる進化(改良)の途上にある人工生命が流出する一種の近未来ウィルスパニックSFで(原書が出たのは本書の連載開始とほぼ同時期で、著者もほぼ同年齢。興味深いシンクロニシティだ)、傾向は百八十度違うものの、発想的には共通点が少なくない。
 しかし、現在を舞台にした本書には、絵空事とは思えないリアリティがある。「あっても不思議はないこと」から「あるかもしれないこと」へと物語を発展させ、「ありそうもないこと」や「あるわけがないこと」まで読者に無理なく信じさせ、サスペンスを盛り上げる小説技術は、井上夢人の独壇場だろう。
 コンピュータに疎い読者にも違和感なく読ませるためか、従来の井上作品に比べて、役割がはっきりした類型的な登場人物が多いのだが(謎の天才プログラマ八木とか、純朴なパソコンおたくの大輔とか)、本書の最大の特徴は、そういうフラットキャラクター陣の中から、人工生命の個性がくっきりと立ち上がってくるところにある。『パワー・オフ』の真の主役は「アルファ」と呼ばれるコンピュータプログラムであり、人間はしょせん脇役(あるいは助産婦)でしかない。本書の結末がもたらす戦慄と興奮には、すぐれたSFだけが持つセンスオブワンダーがある。最先端のエレガントな人工生命サスペンスであると同時に、今年の日本SFベスト3に数えられる傑作だ。


【今月のこの一冊#28】(小説すばる96年10月号)
高野史緒『カント・アンジェリコ』

 高野史緒の待望の第二長編、『カント・アンジェリコ』が出た。
 昨年刊行されたデビュー作『ムジカ・マキーナ』(新潮社)は、一昨年の日本ファンタジーノベル大賞最終候補作に手直しを加えたもの。一見、一八七〇年のヨーロッパを舞台にした音楽ネタの冒険小説――のようでいながら、一九世紀ロンドンでテクノ系DJがクラバーたちに大人気だったりする大胆なスチームパンクSFの傑作だった。
 いやはやとんでもない人がいるもんだと仰天した記憶があるのだが、一七一*年のルーブル宮を舞台にした本書でも、その「カラヴァッジオ」(デレク・ジャーマン)張りの意図的な時代錯誤は絶好調。
 なにしろヨーロッパ全土に公衆電話網が張り巡らされ、ハッカー(正確には「クラッカー」と呼ぶべきだけど)たちが跳梁跋扈、電話の利権をめぐって教皇庁の刺客が暗躍するかと思えば、ルーブル宮北翼に位置するモンタンジュ劇場では夜な夜なきらびやかな電飾オペラが満員の客を集めているという具合。
 要するにこれは、古きよき電話フリーク(phone phreak=70年代から80年代初めにかけて流行した電話のただがけ改造)の世界を一八世紀フランスに移植する試み。懐かしのブルーボックス(アップル・コンピュータ創業者のスティーヴ・ウォズニアックも一時これを売って大儲けしたという電話ただがけマシン。本書では「エムファー」の名前が与えられているが、これはおそらく、ブルーボックスの別名であるMFボックスにちなんだもの)や、キャプテン・クランチの笛(シリアル食品のオマケについていたおもちゃの笛。これを使って長距離電話回線を不正使用できることを発見した著名な電話フリークのジョン・ドレーパーは、「キャプテン・クランチ」の異名をとった)みたいなものまで登場する。
 密造LSDをめぐる麻薬捜査が縦軸だった前作に対して、今回は電話ネットワークのルート(スーパーユーザーのアカウント)用パスワードが物語の焦点。まあこれだけなら、『ディファレンス・エンジン』(ブルース・スターリング&ウィリアム・ギブスン)のフランス版と言えなくもないが、物語の中核にカストラート(去勢歌手)を据えたところに高野史緒の天才がある。
 男性と訣別することで天使の声{カント・アンジェリコ}を手に入れた歌い手の栄光と悲哀。アナログ電話回線上に鳴り響く天上の歌。ルーブル宮に渦巻く権謀術数とこの世ならぬ音楽のミスマッチ……。帯には「サイバー・バロック」の文字があるが、高野史緒は海外にも存在しなかった新ジャンルを独力で創造したといっていい。なお、おなじ去勢者冒険小説ということで、浅田次郎の宦官小説『蒼穹の昴』と読み比べてみるのも一興かも。


【今月のこの一冊#29】(小説すばる96年11月号)
清涼院流水『コズミック』

 自分で推薦文(?)を書いた作品を自分で書評するのはルール違反かもしれないが、この本自体ルール違反の塊なんだからしょうがない。二十二歳の新人・清涼院流水の恐るべきデビュー長篇『コズミック 世紀末探偵神話』は、本格ミステリにとって、まちがいなく今年最大の話題作である(それ自身が本格ミステリであるかどうかはまたべつの話)。
「今年、一二〇〇個の密室で、一二〇〇人が殺される。誰にも止めることはできない」▼密室卿▲を名乗る人物からの予告状とともに、一九九四年が幕を開ける。予告通り、一日に三、四件の割で「密室殺人」が連続する。初詣客でごった返す平安神宮で、高度三千メートルの空中で、首を切って殺される被害者たち。その背中には被害者自身の血で『密室n』(nはn番目の被害者であることを示す漢数字)と記されていた。
 この未曾有の犯罪の前に、「集中考疑」の天才メタ探偵・鴉城蒼司率いる日本探偵倶楽部(略称JDC)が敢然と立ち上がる……。
 けっ、バカバカしい、と思うのは当然だろう。じっさい『コズミック』は、これまでさんざん攻撃されてきた「新本格」の欠点を増幅し凝縮している。人間が書けていない、リアリティがない、楽屋落ちの山、文章が下手、ひとりよがり……。新本格の最悪の部分を一冊に集めた(だからこんなに長いのか)と言ってもいいくらいで、おまけに(筆名の選択が端的に示すとおり)どうしようもなくセンスが悪い。しかし『コズミック』は、マイナスの札ばかりを過剰に集めることであらゆる批判を無化してしまう。この小説に向かって「バカらしい」とか「キャラクターに人間味がない」とか言うのは、郵便ポストに「赤い」と言うようなものだ。『コズミック』はあらゆる意味で過剰な小説である。密室殺人が過剰、探偵が過剰、説明が過剰、枚数が過剰。この過剰性はしかし、本格ミステリの必然的な帰結かもしれない。かつてはひとつの密室殺人が読者に衝撃を与えた。しかし、ミステリを読みつづけることで、読者は刺激に慣れていく。作者は殺人の数を増やし、つねに新たな趣向を開拓して、新しい刺激を生成しつづけなければならない。その終着の浜辺に、『コズミック』はある。
 京極夏彦がいみじくも「カモノハシ」と呼んだとおり、たしかにそれはミステリ進化の袋小路だろう。そこから先に道はない。ミステリの底が抜け、トリックが探偵が密室が、ただ轟々と滝のように流れ落ちるばかり。
 すべての本格ミステリは、この最終形態に到達するまでの時間をひきのばしているだけだと言えなくもないのだが、もちろん道はほかにもある。そして、べつの道を選ぶには、行き止まりを自分の目でしっかりと確かめておくことが重要かもしれない。


【今月のこの一冊#30】(小説すばる96年12月号)
菅浩江『鬼女の都』

 ミステリ作家がSFを書くのは最近の流行だが、SF出身の作家が本格ミステリを書くのは(山田正紀をほぼ唯一の例外として)珍しい。だから、二度の星雲賞受賞を誇る人気SF作家・菅浩江がミステリを書き下ろすと聞いてちょっと驚いたのだが、「本格推理の超新星誕生!」の帯つきで出版された『鬼女の都』は、意外にも(?)著者らしい趣向を凝らした端正な「本格」だった。
 物語の主役は京都。歴史小説系同人誌(コミケに代表される即売会での流通を主とするタイプ)の人気作家・藤原花奈女が、プロデビュー目前に自殺する。花奈女の熱狂的なファンだった女子大生・吉田優希は、葬儀に参列するため、同人仲間たちと京都を訪れる。
 京を舞台にした歴史小説を書き続けていた花奈女には、京都の生き字引として厳密な考証を加える〈ミヤコ〉なる助言者がいた。花奈女は、商業出版用に準備した新作のプロットをミヤコに酷評され、それを苦にして自殺したらしい。自分の手でこのプロットを小説化し、花奈女の名誉を回復しようとする優希のまわりで次々と起きる奇怪な事件。花奈女の死に隠された真相とは……。
 物語の中核は、花奈女の自殺の動機探し。密室殺人やアリバイトリックとは無縁だが、テイストはまちがいなく本格ミステリのそれだろう。京都という街の魔に憑かれた人間の悲劇をたどる物語は、能の「葵上」をなぞるかたちで進行してゆく。
 真夏の京都を歩く眩暈にも似た感覚が小説全体を包み、幻想小説的な彩りもあるが、京都という都市自体の特異性を鍵に、すべての謎は探偵役により明晰に解きほぐされる。このあたりの手続きは京極夏彦の作品を連想させなくもないが、執拗なまでに描き込まれる年風景と饒舌な京都論によって、ほとんど京都そのものが小説化されたような印象がある。
 ところで、登場人物のひとりが、
「この街にいるとどうしても古き時代にこだわてしまう。廃れてしまったもの、失くなったもの、そこにしがみついている自分の嫌らしい誇りを、否が応でも思い知ってしまう。何の誇りだ? ここはもう古都なのに。どう意地を張っても都ではないのに」
 と語る古都・京都は、とうに黄金時代を過ぎた本格ミステリとどこか共通する部分がある。つまり本書は、「京女」による京都論であると同時に、よそ者(SF作家)による本格論と読めなくもない。だとすれば、物語のバランスを崩してまで使用される旧本格的なモチーフは、「古き時代」の本格へのこだわりの結果なのか。京都の呪縛について語りながら、本格の呪縛(東野圭吾流に言えば「名探偵の呪縛」)について語る『鬼女の都』は、そのきらびやかな外見とは裏腹に、したたかなメタミステリかもしれない。


【今月のこの一冊#31】(小説すばる97年1月号)
山田正紀『女囮捜査官』

〈書下し本格五感推理シリーズ〉と銘打たれた『女囮捜査官』全五部作が、11月末刊行の『味姦』で完結した。先月の当欄で、「SF出身の作家が本格ミステリを書くのは(山田正紀をほぼ唯一の例外として)珍しい」と書いたのは、当然、このシリーズ(だけじゃないけど)が念頭にあってのこと。『触姦』『視姦』『聴姦』『嗅姦』『味姦』と五冊並べてみれば、96年国産本格ミステリの大きな収穫であることはまちがいない――のだが、いやまあ、それにしてももったいない。
 シリーズタイトルはいかにもキワモノっぽいし、「×姦」で統一された各巻の題名も、およそ本格系読者に対するアピール力がない。というか、これではありがちな官能サスペンスを連想するのが人情ではないか。
 ところが、猟奇的な殺人事件(今風に言えば「異常快楽殺人」)を扱いながらも、『女囮捜査官』は各巻ごとに趣向を凝らし、本格ファン好みのトリックをフィーチャーする意欲的なシリーズ。じっさい、一冊五百枚ちょっとという分量にもかかわらずプロットは錯綜し、オカズも盛りだくさん。その結果、文章はぎりぎりまでシェイプアップされ、ヒロインの北見志保をはじめ、シリーズキャラクターたちの印象も極端に薄い。人間を描かず、無駄口をたたかず、ひたすら犯罪とトリックだけをストイックに追い求める。各巻に倍の枚数を費やして単発のハードカバー長編として発表すれば、確実に各種年間ベストテンの上位に食い込んでくるだろう材料が、ノベルスの器の中で惜しげもなく消費されている。
 たとえば『触姦』の意外な犯人像、『視姦』の死体トリック、『嗅姦』の動機の意外性、『聴姦』の身代金受け渡しトリックと「世界最小の密室」……。『FBI心理捜査官』の流れを汲むプロファイリング捜査物かに見えて、しだいに不可能犯罪色を強めていく。
 最終巻『味姦』では、長距離バスに乗ったはずの乗客が、ボストンバッグ詰めの死体となって終点で発見されたかと思えば、さっきまで車を運転していた女性がトンネルの中で絞殺死体に早変わりする。シリーズキャラが次々と殺害されてゆくこの巻は、およそ本格系らしからぬプロットを経て、あまりにも異様な結末を迎えることになる。
「もし山田正紀が、これまで発表してきたミステリ作品だけを書く作家だったなら、寡作だが一作ごとに目を離せない推理作家として、すでに中堅的存在になっていただろう。だが、大成したSF作家の余技という先入観に邪魔されてか、その推理物は高い水準にもかかわらず、ミステリ・ファンの話題になることがあまりない。(中略)新生ミステリ作家の登場を、今度こそ見逃すべきではない」
 とは新保博久の言葉だが(『触姦』推薦文)、まさにその通り。本格ミステリ読者は必読。


【今月のこの一冊#32】(小説すばる97年2月号)
清涼院流水『ジョーカー』

『コズミック 世紀末探偵神話』で昨年後半の話題を独占した清涼院流水が、はやくも第二長編『ジョーカー 旧約探偵神話』を発表した。「新本格」発祥の地である講談社ノベルスから本書と同時刊行されたのが、西澤保彦(95年1月デビュー)と森博嗣(96年1月デビュー)の新作であることを考えると、新本格(または、かつて新本格と呼ばれた小説を好んで読む読者たちに支えられているタイプのミステリ)は確実に新しい時代を迎えている。この新・新本格(?)の輝く星が京極夏彦なら、清涼院流水はすべてを呑みつくす異形のブラックホールにほかならない。
 八百ページ近い物量を誇る『ジョーカー』は、どこから見ても本格ミステリの意匠をまといながら、本格のスピリットを完膚なきまでに破壊し、無効化する。
 とはいえ、プロットだけ見れば、『コズミック』よりははるかにふつう(そう、清涼院流水にあってはこれでも圧倒的に「ふつう」なのである)。物語の中心は、前作で歴史として語られていた幻影城連続殺人事件。
 平井太郎の名を持つミステリマニアが建築した豪華な洋風旅館・幻影城に集まったミステリ作家たちが次々に惨殺される。『コズミック』と同様、物語はメタミステリ的構造を持ち、事件に巻き込まれた作家・濁暑院溜水が(今回は事件と同時進行で)執筆するノンフィクションノベル『華麗なる没落のために』として語られてゆく。溜水は本来、『麗しき華のごとく、没落は夢のように』と題する新作で、彼の考える「推理小説の構成要素三十項」すべてを網羅したミステリを書く計画だった。しかし、現実の幻影城を襲った事件は、その構想をなぞるように、本格ミステリ的な趣向を次々に消化していく。不可解な謎、連続殺人、遠隔殺人、屍体装飾、殺人予告状、物理トリック、ミスディレクション……。
 例によってJDC(日本探偵倶楽部)の名探偵たちがこの壮大な事件に挑むわけだが、本書の最大の特徴は、これだけ大量に旧本格のコードを盛り込みながら、本格ミステリ的なトリックにほとんどなんの価値も見出していない点にある。本格の魂をのぞく本格のあらゆる意匠を過剰に備える本格ミステリの空虚な中心。パタナイズされた「意外な解決」を嘲笑するような解決は、たとえば『翼ある闇』にも見られたが、麻耶雄嵩の場合と違って、本格の記号に埋めつくされた『ジョーカー』には本格への愛が見えない。あるのは言葉遊びに対する異形の愛だけ。にもかかわらず、『ジョーカー』は異様な迫力と魅力を持つ。P・K・ディック風に言えば、これは「本格の顔をした本格の偽物」かもしれない。しかしここには、凡百の「本物」を粉砕するだけの過剰なパワーがある。恐るべき「反本格ミステリ」の登場である。


【今月のこの一冊#33】(小説すばる97年3月号)
服部真澄『鷲の驕り』

 服部真澄のデビュー作『龍の契り』は、正直まったく評価できなかった。風呂敷が大きけりゃいいってもんでもなかろうによ、ってのが率直な感想で、池上遼一でもマンガ化すりゃそれなりに面白そうだけど、小説としてはあまりにリアリティが希薄でしょ。
 だから第二作の本書も、買ってしばらく本棚のこやしにしてたんだけど、まわりであんまり評判がいいので眉に唾をつけつつ読みはじめてびっくり。まさかツトム・シモムラとケヴィン・ミトニクが主人公だったとは。
 在米の日本人でコンピュータセキュリティの専門家である下村努の協力により、全米指名手配中の大物ハッカー(正確にはクラッカー)、ケヴィン・ミトニックをFBIが逮捕したのは95年2月のこと。この逮捕劇はニューヨークタイムズ一面で報じられ、全世界の注目を集めた。日本でも、この事件に取材した好一対のノンフィクション、『テイクダウン』(徳間書店)と『FBIが恐れた伝説のハッカー』(草思社)が昨年邦訳されている。
 しかし、明らかにこの二人をモデルにしているにもかかわらず(経歴はほぼ事実に即しているし、作中ではイニシャルまでおんなじ、
「ケビン・マクガイヤ」と「笹生勁史」の名が与えられている)、『鷲の驕り』は、この事件に関する話ではない。
 物語は、ケビンが刑期を終えて出所するところから幕を開ける。「今度こそプロになってやる」と決意したケビンは、若いクラッカー仲間が持ってきた話に乗ってダークサイドの仕事を引き受ける。一方、ケビンの宿敵・笹生勁史は、日本の通産省の依頼で、経歴やプロフィールすべてが謎に包まれた米国人天才発明家についての調査に着手する……。
 実在の人物を下敷きにしたキャラクターに大胆な役割を振るのは、前作にもその片鱗がうかがえた著者の得意技。ケビンを一方的な悪役にはせず、「心ならずも世界的に有名なハッカーになってしまった気弱なコンピュータおたく」として描き、最後はきっちり花を持たせているのも好感が持てる(ただし、笹生勁史はやや美化しすぎかも)。
 破天荒なプロットを支える書き込みは前作にくらべると格段に進歩しているし、中核をなす特許関連の大トリック(?)はよく考えられている。あいかわらず政治がらみの描写にリアリティが乏しかったり、思わず脱力する記述があったり(たとえば本文2ページ目では、ソフトのバージョンアップの説明に、
「『ストリート・ファイター』ゲームのあとに『ストリート・ファイターII』が発売されるように」と書いてあって、そりゃまちがいとは言わないまでも、やっぱりはずしてますわな)、欠点も目につくのだが、国産の国際謀略サスペンスとしてはじゅうぶん及第点。今度こそ、自作が楽しみだ。


【今月のこの一冊#34】(小説すばる97年4月号)
神林長平『ライトジーンの遺産』

「この十年のSFはみんなクズだ」と『本の雑誌』に断言されてちゃうと(三月号特集参照)、おれの青春はなんだったんだとむなしい気分に襲われる――わけは全然なくて、それでもSF読んでんだから偉いよね、ぼんやり思うだけなんだけど、某SF作家の人からは、「コメントとはいえあんな特集に荷担するとはおまえも同罪」と私まで猛省を促されたりして、せまいSF界には嵐が吹き荒れている。なにしろ日本経済新聞によれば、冬の時代を通り越して=w国内SF、「氷河期」の様相』」(2月9日付朝刊)ですからね。
 しかし、氷河に咲く一輪の花(笑)のように面白いSFがないわけではない。
 たとえば、神林長平の書き下ろし長篇『ライトジーンの遺産』。神林長平と言えば、ジャンルSF生え抜きの、自他ともに認める本格SF作家。ここ数作はテーマを絞ってひたすら思考実験をつきつめる傾向が強く、非SF読者には推薦しにくい(つまり、「難解なSF」と思われがちな)作品が多かったんだけど、本書に限ってはまったく趣きがちがう。
 舞台は、原因不明の臓器崩壊現象(特定の内臓が突然こわれてしまう)が全人類に蔓延し、人工臓器が一般化した近未来。タイトルのライトジーン社は人工臓器の総合メーカーなのだが、強大になりすぎたため分割されている。主人公のおれ≠アと{菊月虹{キクヅキコウ}}は、ライトジーン社が人工臓器研究の過程で開発した人造人間で(だから「ライトジーンの遺産」というわけ)、同時にサイファ≠ニ呼ばれる超能力者でもある。
 物語は、コウがライトジーン市警第四課長の依頼を受け、トラブルシューター的に関わっていく事件の数々を連作短編集風に描いてゆく。器としては、「ブレードランナー」風、あるいは『重力が衰えるとき』風の近未来ハーボイルドと言っていいだろう。
 ただしこの本の場合、連作短編集形式になっているのがミソ。各話は、「アルカの腕」「バトルウッドの心臓」「セシルの眼」という具合に、ライトジーン分割によって誕生した臓器専門メーカーが開発した人工の人体各部がモチーフとなり、それぞれ趣向が凝らされている。たとえば冒頭の「アルカの腕」は、怪物を追って下水道に潜り込むクーンツばりのモダンホラーだし、「ダーマキスの皮膚」は異常心理サスペンス、かと思えば意外なところにちょっといい話≠ェ挿入されていたりする。
 独特の文体とともに、著者らしい理屈っぽさも随所に見られるが、今回はむしろ技のデパート%Iな小説技術が駆使されて、エンターテインメント性を前面に押し出したつくりになっている。ふだんSFを読まない人にも楽しめる、本家の味≠フ近未来ハードボイルドだ。


【今月のこの一冊#35】(小説すばる96年5月号)
柴田よしき『炎都』

 いやはやまったく驚きました。あの柴田よしきがこんな小説を書こうとは。『書下し長篇パニックロマン』と銘打って刊行された新作『炎都』は、一言でいうと、驚天動地の妖怪災害ノベル。
 舞台は現代の京都市。市内各所で地下水の水位が下がる異変が起き、それとおなじころ、大原三千院と京都御苑では、全身の体液を抜かれてカラカラに干涸らびた変死体が発見される。やがて、長岡京市北部を震源地とする直下型大地震が発生。京都市内に通じるすべての鉄道・幹線道路は不通になってしまう。
 ……とまあ、天災パニック小説風に幕を開けたところでおもむろに登場するのが、日本古来の妖怪変化たち。水虎やら飛黒烏やら狂骨やら火車やらが山から川からわらわらと湧いてきて、京都の町を跳梁跋扈する。妖怪に食われてバタバタと死んでゆく京都市民。さらに鞍馬山の天狗は眼下の市街に向かって火の玉をがんがん投げつけてくるからたまらない。「大地震」+「インデペンデンス・デイ」+「レギオン襲来」ってとこですか。
 この未曾有の大災害に立ち向かう我らがヒロインは、地質調査会社に技師として勤めるバリバリのキャリアウーマン、木梨香流。彼女と恋に落ちるヒーローが、優男のフラワーアーティスト、真行寺君之。優柔不断な性格だが、一条天皇の生まれ変わりなんだからしかたない――と、このへんのキャラ設定が柴田よしきらしいところか。
 そもそもこの天変地異の元凶は、かつて安倍晴明に滅ぼされた火妖族の娘、花紅姫。人間に復讐し、愛する一条天皇と添い遂げるべく、一千年の時を越えて復活したわけですね。
 設定的には思いきりばかばかしいんだけど、それが現代パニック小説風の描写と合体することである種のリアリティ(金子修介版「ガメラ」的な迫真性)が生まれ、細部の整合性を気にするヒマもなくぐいぐい読まされてしまう。展開は強引だし、文章は荒っぽいし、無造作に突っ込まれた大量のオカズは消化不良気味なのだが、そもそも現代妖怪パニック小説なんて、きっちり書いたら成立するわけがないのだから、ひたすら勢いで突進するのが正解。火に弱い水虎を撃退すべく、灯油しみこませた布をまるめてロープにくくりつけ、それに火をつけてぶんぶん振り回し、火車のマネ(?)をするとか、もう爆笑です。
 特撮映画的テイストが核心にあるという意味では、梅原克文『ソリトンの悪魔』の妖怪版と言ってもいいかもしれない。京極夏彦の妖怪小説シリーズに、「本物の妖怪がちっとも出てこないじゃないか」とご不満の方(笑)にはうってつけの一冊。


【今月のこの一冊#36】(小説すばる96年6月号)
森博嗣『封印再度』

 衝撃的なデビュー作、『すべてがFになる』からまる一年。この4月に出た『封印再度』で、森博嗣の〈犀川創平&西之園萌絵〉五部作が完結した。
 よく知られている通り、執筆順では『F』が四冊目だから、『封印再度』は『F』以降に執筆された最初の小説ということになる。森博嗣ホームページ(http://www.degas.nuac.nagoya-u.ac.jp/people/mori/myst/myst0 .html)にある自作紹介コーナーの記述によると、「構想3日、執筆2週間」の(実質的な)処女長編、『冷たい密室と博士たち』が書かれたのは95年9月。以下、同年10月に『笑わない数学者』、11月に『詩的私的ジャック』、12月に『F』、96年2月に『封印再度』を書いたという。『博士たち』以外の4長編も、おおむね執筆期間は三週間前後だそうだから、この速筆には呆れるばかり。本格ミステリ作家≠フ常識を大きく逸脱している。なにしろ、昨年の新本格界の話題を独占した『F』(ちなみにこの作品は、ファン投票で選出される「インターネットで選ぶ日本ミステリー大賞'97」を受賞した)について、「自分としては大した入れ込みはありませんが、トリックが変わっているかもしれません」と、平然と言ってのける人なのである。
 その作品も、こうして五冊並べてみれば、「驚天動地のトリック」に収束するタイプのパズラーとは、目指す方向が最初からまったく違っていたことがよくわかる。『F』のあの驚愕の真相から出発した以上、読者がトリックに期待して読むのも無理のないところだが、あらためて振り返ってみれば、これは五冊がかりのミスディレクションというか、あらかじめメタレベルの叙述トリックが仕掛けられていたシリーズだったのかもしれない。
 にもかかわらず、完結編にあたる『封印再度』は、まさしく(言葉本来の意味での)パズラーにほかならない。ミステリ的な核心は、一個の立体パズルにあり、そしてこのパズルには、可能なかぎりもっとも美しい解決が与えられる。しかし、小説の中心は明らかにそこにはない。ではなにが中心なのか――を詳述できないのは残念だが、私見によれば、この五部作は、あまりにも破天荒なラブストーリー(異常心理恋愛小説?)として読むのが正解だろう。登場人物のキャラクターを際だたせるために事件があり、殺人もトリックもラブロマンスに奉仕する。そしてラブロマンスの中に事件とトリックが仕組まれるこの論理的恋愛のアクロバット。ある意味でこれは、70年代少女マンガが実現した最良の恋愛文学の90年代流アダプテーションかもしれない。
 今後の森博嗣作品としては、書き下ろし短編集一冊を含み、すでに完成済みの作品が五本待機中。いやはやまったく、たいへんな作家が出現したものである。