| た きょう じ |
| 真言宗で、白鳳年間(654〜669)道昭法師によって開基された古寺である、養老年間(717〜723)行基中興という。⇒道昭(どうしょう)法師 629〜700日本に初めて法相宗をつたえ、日本法相宗の開祖となった飛鳥時代の僧。河内の生まれで、俗姓は船連(ふねのむらじ)という。653年遺唐使にしたがい唐に渡り、玄奘に師事して法相教学を学び、660年頃帰国した後、元興寺に住し法相宗を広めた。行基は彼の弟子である。 |
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| しかし、最近建穂寺の研究者によって、建穂寺は弘法太子(空海)を開祖と仰ぎ、平安時代(794〜1180)に創建された学問の寺であった事が分かった。建穂寺は「神仏混淆」の寺として、複雑な側面を持っていた。寺と神社が共存する境内には「延喜式神名帳」に登録された「建穂神社」があって、馬鳴(めみょう)大菩薩が祀られていた。 同じ境内にある「建穂寺」は真言密教の寺として、真言宗の大日如来をお祀りしていた。が何時の頃からか変質していった模様である。建穂寺が最も栄えたのは平安後期と鎌倉時代であったろう。建穂寺には多くの神仏が共存していました。明治初年(1868)の神仏分離令につづく廃仏毀釈により建穂神社が残り、寺は廃寺となってしまったが数百年の長い歳月眠っていた歴史的に貴重な五十余体の仏像や文化財は現在建穂町内会によって「観音堂」に大切に祀られ守られている。また現在の建穂寺の左右に並んでいる仁王像は延亨四年(1747)の火災で焼けてしまっため、後の寛政三年(1791)に駿河の商人が寄付したものといわれている。 |
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| 奈良時代に僧行基が聖武天皇の病気快復を願って彫った観世音菩薩を納めた寺として知られている。その後、鎌倉時代には、久能寺と共に駿河文化の中心として栄えた寺で、今川時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から四百八十石の朱印を受けたといわれている。大応国師も五歳の時此の寺で浄弁法師に就いて十五歳まで修行しここから鎌倉に出かけた。今川・徳川時代厚く保護され、駿府浅間神社の祭礼(二十日会)には此の寺の稚児舞楽が出張して奉納されました。しかし、かくも栄えた当寺も明治維新により徳川氏の保護を失うと共に、明治政府による神仏分離の宗教政策などにより多くの院坊も壊され、跡だけが残っている。明治三年、山頂の観音堂をはじめ二十余の塔頭ことごとく焼失して、寺宝の一部が今村人の建てた観音堂に保存されている。此の中には不動明王〔藤原時代〕銅製阿弥陀如来(鎌倉時代)など貴重な文化財が保存されています。 |

建穂寺絵図(国立公文書館蔵)
| 金玉集という歌集に、大弐という女性が此の寺に千本の桜の木を植えて仏に手向けたとあり桜の名所となったと歌われています。寺は幕末まで栄え、二十一の塔頭があったという. (慶南院・青蓮坊・花応院・法幢院・慈前坊・心福院・円道院・荘厳院・中性院・大正院・満蔵院・円祐院・青花院・歓喜坊・義道坊・蓮花院・顕法院・義運坊・皆成坊・南滝院・唯心院)慶南院は浅間神社の供僧を兼ねた 「金玉集」 寛弘四年(1007)年の頃、藤原公任により選ばれた私撰集で、この中に京極良経と関わりのある大弍という女性が駿河国手越に来て当時栄えていた建穂寺に千本の桜の苗木を送って。建穂寺の境内に植え仏に手向けたことが記されている。その時の歌に”我がたまの光と妻に結びてよ千本のさくらちぢに咲きなば” |


現在の達穂寺観音堂・小さな観音堂の中に五十余体の貴重な仏像が保管されている。
一町内会でこれだけの仏像を所有し保存している事は希有であろう。
また、寺には徳川家歴代の位牌が安置されている。徳川家康の位牌だけが単独で、他の将軍の位牌は
二人づつの戒名が併記されている。これは建穂寺が火災で炎上したために、後世に作り変え簡略にしたものであろう。いずれにせよ、金箔で「葵の紋」が施された立派な装飾位牌である。最後の将軍徳川慶喜の位牌は存在しない

観音堂の入り口左右に並ぶ仁王(阿形・吽形)も見事な作である。
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| 左側の吽形(いんぎょう) | 右側の阿形(あぎょう) |

その昔仁王門から山頂の観音堂までの参道に一丁ごとにあった「丁石」現在は観音堂裏に並んでいる
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この歌碑は元は 建穂寺参道辺りに あったものだが、 今は観音堂境内に 建っている。 駿府の詩人 尾崎天了(83歳)が 天保十一年(1840) に建穂寺で 詠まれたもの。 |