宝台院
静岡市常磐2-13-2

徳川二代将軍秀忠公の生母、西郷局(昌子)の墓がある。
また、徳川最後の将軍慶喜公が謹慎されていた所でもある

永正4年(1507)開基 浄土宗
開創=金米山宝台院龍泉寺は永正4年(1507)鎌倉光明寺第八世長蓮社観誉祐嵩上人の開基である。
上人は浄土宗十夜興行の開祖で浄土宗常紫衣沙門を始めた人。永正4年、駿河国有度郡柚之木に開創し後に
静岡市紺屋町に移り、徳川秀忠公の寛永5年(1628)現在の静岡市常磐町2丁目に移り大伽濫が造営され、
龍泉寺を改め宝台院という上意があり、この時より宝台院と称するようになった。
また、昔の山門(桃山風の赤門)は菊川町の応声教院に大正7年に移されてそこにある。
http://www.shimashin.co.jp/13town/meisho/kikugawa/ousyou/ousyou.htm

宝台院正門

宝台院は徳川家康の側室で二代将軍秀忠公の生母西郷局昌子(お愛の方)の菩提寺である
西郷局は二十七歳で家康に仕え家康の第三子秀忠を天正七年(1579)四月九日浜松城で生んだ。
家康三十八歳のときである。この頃家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦
小牧長久手の合戦と戦争に明け暮れた最も苦難の時代であった。西郷局はその苦しい浜松城の台所を仕切った
文字どおり糟糠の妻であった。天正十四年十二月西郷局は長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の
実力者となった家康と共に駿府入りした。家康に献身的に仕えた西郷局は駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て
天正十七年五月、三十八歳の短い生涯を終った。初めの法名は竜泉寺と称した。この寺は最初柚木(狐ヶ崎)にあり、
のちに紺屋町(現西部百貨店)裏辺りに移転され再度現在地へと移ったものである。
後年将軍職についた秀忠は生母のために寛永三年立派な大きい寺を建て盛大な法要を営みその霊をなぐさめた。
以来徳川三百年の間この宝台院は徳川家の厚い保護を受けたのである。丁度久能のお社か日光のお宮のようであった。
寺の書院も二条城に見られる如く床の間や壁面にかけて桃山風の豪壮華麗な絵が描かれてあった。
寛永五年(1628)五月十九日、御水尾天皇は、秀忠の孝心を賞し、生母に從一位の位を賜った。
法名も、宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大禅尼と賜った。住職鏡誉上人も紫衣を賜り寺格も上がった。

寺宝の白本尊如来像(重要文化財)は家康公が三州岡崎の大樹寺からもらい受け尊信して武運長久を祈ったものである。
慶長九年(1604)孫の家光が生まれると公は悦び、御自筆の神影及び太刀一振りを宝台院に寄進され、その後秀忠公から
寺へ白本尊を寄付したのである。昭和15年静岡大火の際に寺は焼失したが、県庁の文化財の係りであった、河合冶栄が
駆けつけ、火中よりこの仏像を持ち出して県庁へ移した。何分にも一人だから、丈けが一メートル程もあり、目方も相当重い
仏像を、光背ともども持ち運ぶことは出来なかった。この光背は透かし彫りの舟形で、天人が六人飛翔しており、非常に
優秀な作品であった。秀忠は生母の菩薩のため、寺領に三百石を寄進した。

西郷局の墓

永正4年(1507)開基 浄土宗
 徳川2代将軍秀忠の生母、徳川家康の側室,「西郷局昌子」の墓がある。秀忠は寛永3年(1626)ここに生母のために
立派な大きい寺を建て美しい霊廟を造り、異形五輪石塔を建てた、久能のお社か日光のようで寺の書院も二条城に
見られる如く、床の間や壁面に桃山風の豪壮な絵が描かれていたが、静岡大火と戦災ですべて焼失してしまった。
(五輪石塔のみ残る)西郷局は天正17年5月9日38才で没した。宝永5年(1708)5月9日後水尾天皇は秀忠の孝心を
賞し生母に従一位の位を賜った、法名も「宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大禅定尼」と改められた

西郷局
 母は西郷正勝の娘で、戸塚忠春に嫁して西郷局を生んだ。そして忠春が死んだ後に、局を連れて服部正尚に再嫁した。
成長して正勝の孫の義勝と結婚して家員と女子一人を生んだが元亀二年(1571)夫が戦死した。そこで服部家に帰って
いたのを、義勝の父清員が養女として天正六年(1578)徳川家康に仕えさせ、西郷局と呼ばれた。
そして天正7年4月(1579)秀忠(二代将軍)を生み、同八年九月忠吉(薩摩守・・清須城に封ぜられ慶長十二年、二十八歳
で没)天正十七年(1589)五月十九日三十八歳で没した。


第十五代将軍徳川慶喜公は将軍職を剥奪され、恭順の意を表して水戸に謹慎していたが、謹慎の身柄を
駿府に移される事となった。明治二年七月十九日水戸発、銚子から旧幕府軍艦蟠竜丸に乗って二十三日
清水港着、陸路東海道を通ってその日の夕方宝台院に入った。護衛には松岡萬の率いる精鋭隊隊士
五十人が当たった。新門辰五郎も同行し、宝台院近くの常光寺に居を構えた。
九月二十八日謹慎解除となって紺屋町の代官屋敷(今の浮月楼)へ移った。
キリシタン灯篭古田織部が製作し駿府城へ奉納したもので家康の侍女ジュリアおたあが信拝した。
その後キリスト禁教令が出ておたあらは神津島へ配流された。城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移された

ジュリアおたあ(切支丹殉教者)
おたあは朝鮮貴族の娘だったが、秀吉の朝鮮遠征の時、小西行長が人質として連れてきて養育し
小西に教えられて切支丹を信仰した。のち徳川家康の侍女となった。昼は忙しいので、夜間、聖書を
読み祈った。そして朋輩に教理を説き改宗をすすめた。性質優しく、非常に美人であった。家康は彼女を
側室にしようとしたが、どうしても承諾しなかった。慶長十七年(1612)三月切支丹が禁制となり、おたあ
は伊豆の大島へ流された。しかし清らかな信仰生活を続けて、しばしば家康の意に従うなら島流し生活は
許されると言われたが、どうしても従わなかった。そして更に南方の新島へ移された。
その船出した筆島の浜は「おたい浜」と呼ばれ「おたいね明神」の祠がある。おたあは新島で、同じ駿府の
大奥に仕えた信者のルーシーとクレールに出遭った。ここで三人は神の恵みのままに流人の生活を送った
けれども、おたあは、二人の朋輩から引き離され、更に遠い神津島へと移された。家康の処へ戻れとの
使いがしばしば来たが、おたあはそれを断りつづけた。やがて家康も死に、本土に戻れという者もないままに
年月は過ぎ、慶安四年(1651)彼女は六十余歳で此島で没した。(切支丹風土記)
かくし坊の墓
ルンペン(今のホームレス)踊りや歌がうまく駿府の市中を徘徊して食を乞い、宝台院の裏門に
寄りかかって富士山の景色を眺めるのが好きで、とうとうここを寝ぐらとし生涯を終った。その辞世
富士の雪、溶けて硯の墨衣、かしくは筆のおわりなりけり」という歌があり、この辞世を
平山芦江が書いた碑が宝台院の境内に立っている。この歌を詠んだ、”かしく”は島田、或いは
摂津大阪の生まれだという。また、彼は赤穂浪士の同志で、吉良邸討ち入りの後、雲水となって
諸国を行脚したとも伝えられる。その墓石には法名「雲水夢覚霊」「正徳六年二月朔日」とある。

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