ずいがんじ 3.瑞巌寺本堂 |
国宝第105号 |
所在地 | 宮城県宮城郡松島町松島字町内91(JR仙石線松島海岸駅徒歩10分) |
宗 派 山号寺名 |
臨済宗妙心寺派(禅宗) ずいがんえんぷくぜんじ 松島青龍山 瑞巌円福禅寺 |
建築形式 | 正面十三間、右側面九間、左側面八間、一重、入母屋造り、本瓦葺、玄関付属 |
建築様式 | おなり 和様(左側に付属るす御成玄関は禅宗様で建てられている) |
建立年代 | 安土・桃山時代 慶長十四年(西暦1609年) |
特 徴 | ほうじょう む ま 禅宗寺院方丈(住居)に見られる典型的な六間取り平面に次の間が取り付く大規模な建物。 くじゃく ぶんのう らい らかん 正面中央に孔雀の間、奥に仏間。左に文王の間、上段の間。右に礼の間、羅漢の間。 それぞれの両脇に次の間が控える平面となっている。 じゃばら さんからど きんぺきさい 孔雀の間折り上げ格天井蛇腹、桟唐戸、欄間等に彫刻が施され、障壁画に金碧彩が 施される等、桃山時代の特徴を表す当代一級の方丈建築であるが、外観は質素。 左側に付属する御成玄関は乙型の平面を持ち、禅宗様の華やかな姿となっている。 |
歴 史 | えんにん 寺に伝わる「天台記」によると、前進は「延福寺」(松島寺)。天長五年(828)に天台僧円仁(慈覚 じゅんな ちょくがんじ ひご 大師)が開き、淳和天皇の勅願寺として平泉藤原氏の庇護を受けたと伝えられる。 (但し「延福寺」の存在を証明する遺構は現在まで出土していない) 文治五年(1189)源頼朝により藤原氏が滅亡後、鎌倉幕府の監督下に置かれるが、 しっけんほうじょうときより ほっしんぜんじしょうさい 五代執権北条時頼により「天代宗延福寺」は追放され、替わって法身禅師性西が開山、 らんけいどうりゅう 寺名も「円福寺」と改名、中国僧 蘭渓道隆(大覚大師)に引き継がれ、大覚寺派禅僧が住職を務める。 南北朝時代(1332〜1392)天台系勢力との紛争に勝利を収め、室町時代初期には足利将軍の ひご ござんじゅっさつ しょざん りゅうせい 庇護を受け禅宗五山十刹に次ぐ諸山の地位を得て隆盛を極める。 すいたい だてまさむね 戦国時代(安土桃山)末期には戦乱により寺運は衰退したが、慶長九年(1604)伊達政宗により復興に着手、慶長十四年(1609)に完工され、寺名を「瑞厳円福禅寺」と改められた。 こさつ 東北宮城民謡「斉太郎節」にも唄われ、名勝松島にその名を留める古刹である。 むなふだ ひゅうがのかみよしつぐ ぞうえい ひゅうがのかみいえつぐ 慶長十四年の棟札には日向守吉次の名が見え、大崎八幡宮の造営に従事した日向守家次の長子と伝えられる。 |
リンク | 瑞巌寺HP |