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ホモセクシュアリティと芸術表現

1992年3月

 

「ホモセクシュアルは芸術的な感性が豊かだ」「古来、芸術家にはホモセクシュアルが多かった」というような文句はよく耳にする。

 この手のクリシェは一見肯定的だから、当のホモセクシュアル自身も気に入っていて口にしがちだ。耳に心地良く響くものね。でも、僕はこんな言葉を聞く度に「ほら又来た。それって違うんじゃない」と反応してしまう。

 芸術的なものに関心のないホモセクシュアルは山ほどいるし、古今東西の芸術家全体で考えれば、やっぱりヘテロセクシュアルの芸術家の方が圧倒的に多いのだと思う。“芸術家にはホモセクシュアルが多い”という言葉には“みんなが思っているより”という語句が抜けてしまっているだけだ。

 ただ、ホモセクシュアルが否定されていたり、曲解されている環境では、ホモセクシュアルは常に自己表現の一部が抑圧されているワケで、なんとか別の形で自己表現したいという欲求が強まるのは当然だ。だから、芸術的な表現の分野にホモセクシュアルが集まって来る傾向はあるかもしれない。どちらにしろ“ホモセクシュアルは○○だ”という物の言い方にはウンザリさせられてしまう。みんな好きなんだよねえ。「△△は○○だ」という言い方。

 ホモセクシュアルであることと、自己を芸術的に表現するというのはどんな関係にあるんだろう。その表現者が自分のホモセクシュアリティをどのように捉えているかによって、ずいぶん様相は変わってきてしまうだろうけど、かなり大きな影響を与えると思う。

 僕自身のことで考えてみると、その影響は決定的だ。僕の作品には、直接ゲイのイメージは入っていないし、僕にとっての性的な対象としての男性のイメージも入っていない。だから表面的にはホモセクシュアリティとは何の関係もないように見えるかもしれない。しかし、僕の作品においては、僕がゲイだということは重要な位置を占めている。“ゲイ”というのは、男性が性的に男性に魅かれているという意味だけれど、僕にとっては単なる性的な嗜好という趣味の問題に留まってはいない。決して、紅茶が好きかコーヒーが好きかというような話ではないのだ。

 それは僕という人間の核となっている重要な問題であり、僕の人生における大切な事柄に、全て関わってきた問題なのだ。

 僕が初めて社会というものを意識したのも、ゲイである自分を疎外しているものとしての 認識からだったし、友情も、恋愛も、家族も、ゲイである自分にとっても可能かという形で考えてきた。要するに僕の価値観や人生観、大げさに言えば世界観の決定にさえゲイであることは影響を与えてきたワケだ。僕にとっては全ての出発点だし、唯一信用のおける原点だと言っても言い過ぎではない。

 僕は、作品を作るときにいつも心がけていることが一つある。それは「僕の中から気持ち良く、楽々と取り出す」ということだ。こうあるべきとか、こうすべきという考え方からできるだけ自由になり、やりたくなったことを疑わずにやるというやり方だ。それがうまくいった時は、その作品は僕の中から出てきた僕の一部分でありながら、ちゃんと僕の全体をも映しだしているものになる。

 当然、僕のホモセクシュアリティというあり様もそこには反映されているのだ。見る人が 見れば、僕の作品の回りにはラヴェンダー色の“気”が立ちこめているのが見えるんですよ(?)。

 以前、展覧会の会場で僕の作品を前にしながら、ある男性の作家から「これは女性の方が 作られた作品だと思いました」と言われて笑ってしまったことがある。その直前に、女性の作家から「やっばり男性の作る作品ですね」と言われていたからだ。どこをどう見るとそう見えるのかは分からないけれど、彼らがそう考えてしまったのも不思議はないなという気もする。、二人とも、自分の属している〈何か〉とは違うものを感じ、それを性の違いに由来するものと考えてしまったのだろうから。

 実際、何がホモセクシュアル的で、何がヘテロセクシュアル的かということは、そう簡単に答えられる問題ではない。作品を鑑賞する時に、その作家がホモセクシュアルかどうかという情報は普通提供されていないから(されてたら、それも不気味だけど)、鑑賞者はホモセクシュアルの作家の作品を見ても、それを認識することができない。だから、ホモセクシュアルの作家の作品とヘテロセクシュアルの作家の作品を比較検討する機会なんて持てないワケだ。

 要するに、ホモセクシュアルの作家の作品なんて普通は存在しないのと同じなのだ。評論家もそのことに興味がない。鈍感だから気がつかないのか、無視したいという気持ちが無意識に働くのかは人によるのだろうけど、そういうアプローチが採られることは、あまり、ない。

 そして作者そのものが、その間題に触れられたくないと思うのが一般的だ。自分の作品を色メガネで見られたく ないという気持ちもあるだろうし、自分のホモセクシュアリティを否定的に捉えている場合もある。結局、芸術全般の雰囲気としては、その作者がホモセクシュアルであるというのはゴシップに属するものとして扱われ、まともな鑑賞をする際には考慮に値しないものとして無視されてしまっているのだ。まさに、社会がホモセクシュアルに対してとってきた態度を如実に反映していると言える。

 芸術は、送り手の感性と受け手の感性が揃って、初めて成り立つ<何か>なのだ。その意味で、芸術において何がホモセクシュアル的かという問題は、送り手と受け手それぞれ中に“ホモセクシュアルとは何か”を知りたいという欲求が持たれない限り、明らかにされていかないのだろう。

 ホモセクシュアルのアーティストは、今までもずっと芸術表現をしてきたし、当然ながらこれからもずっとしていく。本人が意識しようとしまいと、ストレートな社会にとって何か違う不思議なオーラを放つ作品群を送り出していくのだ。

 その中で、自己のホモセクシュアリティをポジティブに捉えている作家がどのような表現をしてくるのかに、僕は関心がある。特に、この日本でドンドンそういう表現が見られるようになって欲しい。社会的にカミングアウト(自分がホモセクシュアルだということを他人に対して明らかにしていくこと)しちゃえる位元気の良いアーティストたちが、日本中に溢れているステレオタイプのホモセクシュアル像とは違った、活きのいいゲイやレズビアンのある様を見せてくれる日が一日も早く来ることを切望してしまう。

 “ホモセクシュアルは○○だ”という言葉は、ラペルを貼るのが好きな人たちから、これからも言われ続けるだろうけれども、そろそろ言われっ放しの状態は脱していきたいと思いません? ホモセクシュアルの兄弟姉妹の皆さん!「それって違うんじゃない」とか「こういうのもあるんだよ」とか「そう言ってるアンタ達ってこういう風に見えるんだよ」とか、いろんなホモセクシュアルたちがそれぞれいろんな形で自分の思いを表現していったら、世の中もっと面白くなるのにネ(なんだかアジ演説のノリだな)。

 映画や演劇に限らず、音楽、文学、視覚芸術など様々な分野で、異議申し立てとしてのホモセクシュアルの表現や、ヘテロセクシュアルとは違った視点からの世界の見え様の表現など、多様な試みが成されることを時代も求めているのだと思う。このフィルム・フェスティパルが、日本におけるそんな動きに少しでも刺激を与えてくれたら良いのになあ。


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