ミカンせいじんのしんりゃく
中村正三郎
平成五年の夏は冷たかった。米も空前の大凶作となり、外国米の侵略を
許す異常事態となる。日本を日本として成り立たせていたもの。それが根
底からつき崩されていく予感があった。
その夏、蝉は一声も鳴かなかった。蝉は何者かの侵略を察知し、息をひ
そめていた。人を人として成り立たせていたもの。それを根底からつき崩
していく何者かの侵略が始まっていた。
黒い魔ソフト社長、丸毛は役員会で激怒していた。
「なんだ、この雑誌は。なんだ、この記事は。運動図の日本語版が腐っ
ているだと。こんな勝手なことを書かせておいていいのか。天下の黒い魔
の製品にケチをつけさせていいのか。黒い魔や運動図をあげつらう出版社
はつぶしてしまえ。雑誌は焼き捨てろ。ライターは業界から抹殺しろっ」
役員一同に自分の言葉が染みわたるまで一呼吸おき、ふたたび吠えた。
「おれは黒い魔の丸毛だ。おれに逆らえばどうなるか、思い知らせてや
れ。逆らう奴は、皆殺しだ」
丸毛は怒りにまかせて、たばこを十本わしづかみにすると、大口をあけ
てほおばり、一気に火をつけ、煙を一息吸い込んだところで失神した。
丸毛が失神すると、役員室はスクリーンセーバー状態となり、スクリー
ンセーバーの解説記事が空中に投影され、読者の読むスピードに同調して、
ゆっくりとスクロールを開始した。
スクリーンセーバーとは、パソコンでよく使われるソフトのジャンルの
名前。スクリーンセーバーは画面への描画が行われなくなってしばらくす
ると、勝手に動き出し、画面上にさまざまな絵や文字を描きはじめる。デ
ィスプレイに長時間同じ絵や文字を表示したままにしておくと、画面が焼
付く。さまざまな絵や文字を描くことで、それを防止する。当初はちょっ
としたプログラムに過ぎなかった。現在ではひとつのジャンルにまで育ち、
絵や文字の描き方にも非常に凝ったものが続々と製品化され、人々の目を
楽しませている。
たとえば、画面を夜空にみたて、ほれぼれとする花火を打ち上げるもの。
画面を水族館の水槽にみたて、色鮮やかな熱帯魚をきままに泳がせるもの。
フライングトースターという、一躍スクリーンセーバーというジャンルを
世界に知らしめた羽根の生えたトースターが飛び回るもの。ディズニーの
キャラクターがコミカルな動きをして楽しませてくれるもの。など多種多
様な製品群がある。スタートレックやターミネーターといったSF映画モ
ノもあり、そして、わがミカンせいじんのスクリーンセーバーもある。こ
の物語空間に組み込まれているスクリーンセーバーは、当然のことながら、
ミカンせいじんである。ミカンせいじんとは何か。それはこのあとすぐ登
場する。
解説が空中から消え去るとともに、直径十五センチほどのミカンせいじ
んが役員室の空中を浮遊しはじめた。部屋の隅で釣糸を垂れているミカン
せいじんもいれば、なわ飛びをするものもいる。驚愕する役員たちを尻目
に、堂々とテーブルの上で腕立て伏せを繰り返すものまでもいる。
新宿の高層ビル群が間近に感じられる窓から、いままた一群のミカンせ
いじんが漂い込んできた。神輿のように担いできた大きな巻物を、えいっ、
と投げ広げると、そこには丸毛の紹介文が書かれている。
黒い魔ソフト社長、丸毛毛。「まるけ もう」と読む。年商一千億円の
会社の社長としては、まだ若い。三八歳。
かつて、この男は初対面の人間に、
「本名は『まるけ もう』ですが、ほんとーは『まるもうけ』なんです
よー。ぼく、楽して儲けることしか頭にないから。うきききき。マヌケな
こと言っちゃいましたね。これからは『まぬけ』と呼んでくださいよー」
などと、調子よく自分を売り込むのが得意だった。
丸毛はこのように、おしゃべりで調子がいいだけの男だった。小心者で
あり、ちょっと自分に不都合なことがあれば、すぐに逃げ出し、人に責任
をなすりつけることはよくあったが、いまほど腐っていたわけではない。
その男の自我がこうも肥大してしまったのはなぜか。この男が揉まれてき
た世界。いわゆるパソコン業界について若干の説明が必要だろう。
巻物が蒸発すると、ミカンせいじんたちに担がれて、モーゼが現われた。
ミカンせいじんがモーゼを天井に投げつけると、天井がぱっくりと二つに
割れ、空から歴史が降り注いだ。
九十年代に入りパソコンは急激に安くなり、安くなることで社会に広く
浸透しはじめ、同時に呪術ソフトによって、ちょっとした心得があれば、
だれでもが簡単に操れるまでに進化した。進化の過程で、ライバルを次々
と呪い殺し、全世界の呪術ソフトを牛耳ったのは天才呪術師とうたわれた、
アメリカの青年実業家ブル・ドーザーだった。
ドーザーは、パソコンによって呪術を現代的な姿に変革し、得意の強引
な商法で、世界のパソコンを支配する呪術ソフト帝国、その名もブラック
マジックソフトを築き上げた。そしてその原動力になったのが、運動図で
ある(この名前は世界共通であり、ドーザーの東洋かぶれの影響が色濃い)。
ブル・ドーザーがブルドーザーに乗ってパソコン界を平らげるという陳
腐なギャグが、空中を通り過ぎていった。
それまでの呪術ソフトは、コマンドと呼ばれる言葉でパソコンに呪いを
かけることで操作していた。運動図はそれを激的に変えた。言葉は知らな
くても、体を動かすこと、すなわち運動することでパソコンを操作できる
ようにしたのだった。
言葉は世界の国々で違っている。しかし、走る、跳ぶ、泳ぐ、殴る、蹴
る、セックスするといった運動は、万国共通である。運動図は、どの運動
によればどうパソコンを操作できるか、文字通り、図示された運動を行う
ことでパソコンを操れる呪術ソフトだった。
読者がここまで読んだところで、別のミカンせいじんたちが、コラム
「ハッスル革命」と書かれた横断幕を持って登場し、空中を軍艦マーチに
乗って行進していく。そこにはこう書かれていた。
運動によってパソコンを操る。これはドーザーのアイデアではありませ
ん。それ以前にこれを実用化していたものがありました。
それはハッスル2。カリフォルニアのハッスルコンピュータが作った、
革命的パーソナルコンピュータの名前です。このパソコンは、アメリカ西
海岸の健康ブーム、エアロビクスブームから生まれたといっても過言では
ありません。
エアロビクスのリズミックな音楽を流せるように、当初から本体にサウ
ンド機能を搭載していました。軽快な音楽に合わせて体を動かすことで、
ハッスル2はさまざまな能力を発揮するのです。サウンド機能が標準装備
されていない運動図よりも、いまでも優れている面は数多いのです。
運動図はハッスル2の真似であるといわれます。実際に両社は「パクリ
やがったな、きさま」「いーえ、知りません」の訴訟合戦を繰り返し、世
間を騒がせています。
横断幕とそれを持ったミカンせいじんたちは、桜が散るように消滅し、
裏面史が降りはじめた。
運動図を使えば、運動しながらパソコンを操作できる。パソコンは部屋
にこもって使うネクラなもの。運動図は、このイメージを打ち破ることに
成功。折からの健康ブーム、格闘技ブームも運動図ブームに拍車をかけ、
ドーザーは世界一の大金持ちに成り上がった。
しかしながら真の急成長要因は、別のところにある。ドーザー独裁によ
る恐怖の管理体制、軍隊のような営業、詐欺のようなマーケティング、他
社製品の露骨で巧みなパクリ。これらが効率的な経営の要であり、急成長
をもたらした真の理由だった。
黒い魔ソフトは、そのブラックマジックソフトの日本支社にあたる。本
社の威光をバックに、黒い魔ソフトも日本では絶大な支配力を誇る。名だ
たる日本の大会社も、黒い魔詣でをし、その掌で踊っている。
黒い魔の初代社長、苦川亘は技術畑出身で、経営者としてはボンクラだ
った。業績を伸ばせず、ドーザーから見離され、現在は会長という名の棚
上げポストにおかれ、トホホな毎日を送っている。
丸毛は営業畑出身で、なりふりかまわず売上げを伸ばすことに狂奔して
きた。その功績によって社長に上りつめたが、敵も多く作った。丸毛の首
を絞めたがっている人間は社内にも業界にも多い。だが、日本における黒
い魔の地位を、確固たるものに押し上げた最大の功労者であることは疑い
ない。
すでに黒い魔では、苦川との権力闘争に勝利した丸毛の独裁体制、恐怖
政治が確立されている。
お手本は本家ブラックマジックソフトにあった。ドーザーそっくりの丸
毛のやり方は、ドーザーを喜ばせた。ドーザーの支持を確固たるものにす
るため、丸毛はドーザーに何度も身を任せている。
白魚とは比べようもないうまさ、ドーザーの精子の踊り食い、これに舌
鼓を打つ。あるいはまた、直腸にぶちまけられた精子、これを肛門で一匹
一匹じんわりと噛み締め、じっくり味わう。後ろ盾の存在と自分の地位の
安泰を確認できる至福の瞬間である。こうしてはじめて、丸毛は安心して
眠れるのだった。
しばらく失神していた丸毛が起き上がった。たちどころにミカンせいじ
んたちは姿を消し、普段通りの役員室が復元された。
「日本語運動図の出来が悪いというのはほんとなのか。ここに書いてあ
る通りなのか。売上げにどれくらい影響するんだ、これは」
丸毛には性急に結論を求める悪い癖があった。しかも結論は自分が思い
つきで決めてしまい、さらに悪いことに朝令暮改は毎日であり、社員は丸
毛のきまぐれに付き合わされてへとへとになるのだった。
「いいか、きさまら。運動図は世界中で三千万本も売れている。その日
本語版をようやく日本に投入できた大事な時期だぞ。ドーザーは五百万本
売れと言った。それをおれがお前らの代わりに頼み込んで、やっと百万本
にしてもらったのだ。いいか、ノルマが減ったのはおれのおかげだぞ。だ
から絶対に最低百万本は売上げが必要だ。その矢先に、こんな記事を書か
れて、馬鹿野郎。失敗したらおれの首が飛ぶぞ。きさまら、みんな、死ん
でしまえ」
役員たちは「お前の首が飛べばせいせいする。明日になったらこいつの
いうことはどう転ぶかわからん」と思うが、口には出せない。しかしわず
かに顔色に出た。猜疑心の塊である丸毛が見逃すはずがなかった。怒りに
油を注ぐことになり、こののち延々五時間、丸毛は同じことを繰り返しま
くし立てた。
運動図で汗をかきながら仕事する。
「汗って、お仕事。」
これが日本語運動図マーケティング上の基本コンセプトだったが、黒い
魔の社員は、冷や汗ばかりかいていた。
「とにかく、この『ラバンドウ』というくそ雑誌を出している呪術評論
社との取引は全部切れ。記者発表から何から、全部閉め出してしまえ。も
ちろん、黒い魔には出入り禁止だ。即刻通告しろ」
「社長の名前で通告を出してよろしいのですか」広報部長がおずおずと
訊ねた。途端に丸毛は、怒鳴りつけた。
「この、くそ野郎。おれの名前は絶対出すな。おれに責任が及ぶような
ことになったらどうするんだ、馬鹿。お前らが処理しろ。そのための広報
だろうが。間違っておれに何かあってみろ、きさまらも皆殺しにしてやる。
それからな、お前は馘首だ」
広報部長の首は、役員室の窓を破り、竹とんぼのように大空に飛んでい
った。それでもおさまらない丸毛は、全社員に電子メールで通達した。
「いいか、きさまら。呪術評論社とは一切取引禁止だ。『ラバンドウ』
というくそ雑誌はおろか、呪術評論社の雑誌や本を会社にもってきたら、
その場で馘首だ。それから坂村正太郎という、下衆ライター。こいつは、
必ず業界から抹殺してやる。こいつは、記事の中でおれをミカンせいじん
という訳のわからんものに襲わせた。おれに歯向かった奴がどうなるか、
きさまらもよく見ておけ」
それでもなお、おさまらなかった丸毛は、社内不倫の相手、愛人にして
いる社長秘書江島礼子を伴い、新宿京王プラザホテルに急遽三時間のご休
憩型短期出張に出かけた。
礼子の体に何度も怒りと精液をぶちまけたのち、激怒で火照った丸毛の
肥大した自我は、ようやく落ち着きを取り戻したのであった。
「パパァ。おきてテレビつけてちょうだい。パパァ。おきてっ」と絶叫
しながら、息子がフライングボディプレスを決めようとダイブしてくる。
坂村正太郎は息子に「勝手にテレビをつけて見てはいけない」と厳しく
言っていた。だから毎朝六時にはこういう不意打ちを食らう。
右手で目をこすり、左手でみぞおちをさすりながら、坂村は居間にいき、
テレビをつけてやった。子供たちの間でひそかに話題になっている超先端
子供番組「ウゴウゴルーガ」の画面が飛び出してきた。
放送開始以来一週間もせぬうちに、「ウゴルー」(子供たちはこう略す)
は、コンピュータグラフィックスと実写を巧みに組み合わせた新鮮な映像
で、子供を虜にしつつあった。中でも、ミカンせいじんというヘンテコな
キャラクターは、その不気味さで人気があった。
ミカンに目鼻が、それも人間らしい感情がまったく欠落した目鼻がつい
ており、さらに線一本の細い手足がついているだけのキャラクターだ。こ
れが、耳障りな音とともに登場し、画面を縦横無尽に動き回る。
たとえば、ミカンせいじんは険しい山のてっぺんで無表情のまま縄跳び
を繰り返す。たとえば、疾走してきたミカンせいじんが、断崖絶壁から何
の感情も見せずに落ちていってしまう。一回十秒程度のただそれだけのコ
ーナーであり、ただそれだけのキャラクターのはずだった。
が、子供たちはミカンせいじんの世界に吸い込まれていった。子供と一
緒に見ている大人までもが吸い込まれた。
坂村もすっかりミカンせいじんにハマっている。ミカンせいじんが走り
回れば、自分も居間を走り回る。腕立て伏せをすれば、自分も腕立て伏せ
をする。ずっこければずっこけ、漂えば漂い、屁をこけば嗅ぎ、泣けばわ
めき、ジャンプすれば頭を打ち、断崖から飛び降りれば、ベランダから飛
び降りる(もっとも坂村の部屋はマンションの二階だが)。こんな行為を毎
朝繰り返していた。
そのような毎日が、坂村に次のような考えをもたらした。
運動ってのは、こうして好きに体を動かすもので、それが本来の姿であ
り、運動の喜びじゃないか。何者にも束縛されず、自由に体を動かせるは
ずなのに、なぜ、おれたちはパソコンに縛られているのだ。なぜ、運動が
パソコンのためでなければならぬのか。なぜ、運動図に制約されねばなら
ぬのか。パソコンを操作するための運動。これは明らかに間違っている。
運動図は、間違っているのだ。人間は運動の自由さ、肉体の奔放な躍動、
スポーツ本来の感動を取り戻すべきだ。肉体はパソコンの隷属物ではない。
このことを書こう。
坂村は、主にパソコンソフトを手がけるプログラマだったが、余技とし
て雑誌に文章も書いていた。さっそく呪術評論社のパソコン雑誌「ラバン
ドウ」に書いた。そこに連載していた「電脳マントラ」の二回分を使って、
運動図批判、特に日本語運動図の批判を書いたのである。
「運動図は腐っている。いや、人間を腐らせている」
で始まる批判は、運動図を使うようになってから、いかに人間が体を動か
す喜びを忘れてしまったか、肉体のいびつな使用が健康に悪影響をもたら
したかを、多くのケーススタディから解き明かした。
たとえば運動図では、ソフトを動かすのにダブルジャンプという動きを
使う。これは、その場でぴょんぴょんとすばやく二回、小さく飛ぶ動きだ。
運動図が紹介されはじめたころ、天田正平、彼方通といった、黒い魔に
飼われ、甘い汁を吸っているライターは、ダブルジャンプの効用をパソコ
ン雑誌でしきりに吹聴した。
「ダブルジャンプを、毎日幾度となく繰り返していると、ある日、すっ
かり体調がよくなっている自分を発見して驚くはずだ。ここだけの話だが、
我々ライターは、一日中座って原稿書きをするので便秘が多い。しかし運
動図を使うようになってから、驚くべきことに便秘が直ったのである。小
さなジャンプを繰り返すことが、腸を排泄物が下る手助けをし、胃腸によ
い刺激を与えているのだろう。出すものを出せば多く食べられるのも道理。
以来、快食・快便の毎日が続いている。運動図が我々の生活に、いや健康
に、いや人生に与える影響はかくも大きい。運動図があなたの健康を保証
する。しかもパソコンを使って仕事をしながらである。これを医職同源と
呼ばずして何をそう呼ぶか。読者は一刻も早く体験してみたいに違いない」
などと書きまくったのだ。
これに対して坂村は、
「ところがダブルジャンプを繰り返していると、胃腸に悪影響が出るこ
とがアメリカで明らかになった。特に脱腸にはなりやすい。運動図を使っ
ているグループとそうでないグループでは、胃腸障碍の出る確率が八百倍
以上違うという報告もある。この影響で、アメリカではすでに運動図見直
し論も登場するようになっている。しかし日本のパソコン雑誌は、黒い魔
に都合の悪い情報は一切遮断して、雑誌に載せていない」
といった具合に、坂村は運動図とパソコン雑誌の問題を列挙していった。
ちなみに、運動図見直し論の急先峰は、と書こうとして、中村正三郎は
危ういところで踏みとどまった。失神させるべき登場人物がいない。仕方
なく中村は、冷蔵庫から木綿豆腐を取り出し、それを持ってパソコンに飛
び込み、自ら物語世界に潜り込んだ。周囲に人気のないことを確認して、
木綿豆腐で頭を殴って失神した。
パソコン界御用達大学教授、牧秀夫にそっくりなミカンせいじんが登場
し、解説を始めた。
ちなみに、運動図見直し論の急先峰は、世界最大のコンピュータメーカ
ーであるハルが開発した呪術ソフト、オーエス2なんだよ。オーエス2は、
湘南にあるハルの藤沢研究所が世界に向けて開発したものでね。運動図み
たいに体を動かすんじゃなくて、掛け声によってパソコンを操作するんだ
な、これが。「オーエスッ、オーエスッ」って二回掛け声をかけるわけ。
だからオーエス2ね。ハルらしいネーミングセンスだね。
この目新しさと、胃腸への影響がないこと。これが人々の注目を集めて
いるわけだ。つまり、喉への影響は巧妙に隠されているんだよ。それはお
れ、ハルから金もらってるから、雑誌には絶対書かないけどね。喉にポリ
ープができた奴は、ごろごろいるよ。
そんなわけで、国内外を問わぬカラオケブームにも乗って、いまや「オ
ーエスッ、オーエスッ」の掛け声は、燎原の火のようにパソコン界に広が
りつつあるんだよ。特にアメリカではね。
当然、運動図へのプレッシャーとなってるから、その中で黒い魔は、日
本語運動図を売りまくらないといけないわけ。なおのこと胃腸問題をはじ
めとする問題点には触れられたくないだろうね。
まあね。おれも黒い魔と目本電気には苦い汁を飲まされたから、いまは
ハルのオーエス2を応援するつもりだよ。ハルは大金くれるからさ。でも
黒い魔がもっと金積んでくれれば、やっぱり運動図をよいしょするさ。
ミカンせいじんが魔法のやかんから水をかけると、中村は意識を取り戻
した。そそくさと物語から旅立ち、部屋に戻って続きを書きはじめた。
坂村の追及は、とりわけ日本語運動図に対して厳しかった。「ラバンド
ウ」に次のように書いている。
「いかにドーザーが東洋かぶれとはいえ、元々運動図は、アメリカでア
メリカ人を対象に設計開発されたものである。日本人の体形、体格に合っ
てない部分が多々ある。もちろんのこと、黒い魔は必死で日本語化を進め
たが、いかんせん商社でしかないから、日本語の技術がろくにない。表面
的には日本語化できたようにみえても、実は修正すべき部分が山のように
放置されたまま出荷されている。
たとえば、インチ、フィートやポンドといった単位の表示を日本に合わ
せて、センチ、メートル、グラムといった単位に変更している。ここまで
はよい。しかし信じられないことに、数値を換算し忘れている。「一フィ
ート右にすばやくジャンプ」といった指示は、「一メートル右にすばやく
ジャンプ」に化けているのだ。これでは、アメリカ人が三十センチほどジ
ャンプすればいいところを、日本人は一メートルもジャンプしなければな
らない。
こういう日本語化(苦川会長はジャパナイゼーションと自賛している)を
やっているから英語版にくらべ、日本語版運動図は遅く、使いにくいのだ。
英語版運動図は、まったく別物と思えるほど軽快に動く。それはそうだろ
う。日本人よりも体格のいいアメリカ人が三十センチ動けばいい。すなわ
ち、彼らの身体的能力からすれば楽にこなせる動きで操作できるように設
計されている。かたや日本語運動図を使う日本人は、体格的に劣る上に一
メートル動かなければ操作できないのだ。
こんなものが百万本も日本に出回ったらパソコン業界だけの問題ではな
くなる。一体、日本人の健康はどうなるのか」
さらに坂村は、桜田門外の変のパロディとして、黒い魔ビルのある篠栗
をネタに篠栗門外の変を書いている。これは、害毒いっぱいの代物を日本
で売りまくる売国奴を、オレンジの輸入自由化反対を叫ぶミカンせいじん
が、天誅とばかりに襲うものであった。
この記事が、精神のバランスを容易に欠く丸毛の逆鱗に触れることにな
り、以後、黒い魔対坂村正太郎、より正確には丸毛対ミカンせいじんの戦
闘が開始されることになるのである。
呪術評論社社長、高岡は編集長会議で激怒していた。
「なんだ、この通告は。『ラバンドウ』の記事をネタに、取引停止だと。
こんな馬鹿なことがあるか。うちは黒い魔とは年間五億から十億やってる
んだぞ。黒い魔が今度出すデーターベースのアクセクも、運動図NTも、マ
ニュアルはうちが全部やってるし、ほかのマニュアルもいっぱいやってる。
それを全部切られてみろ。倒産だぞ。元はといえば、黒い魔がやれるとこ
ろがないからと泣いて頼んできたんだ。人も増やし、黒い魔シフトまで引
いて仕事をこなしてやったのに、なぜ、こんな一方的な仕打ちが許される。
本国から直接、黒い魔の頭越しに、運動図の次期バージョン死篭のマニュ
アルも全部やってくれと頼まれてる。そんなうちを切れるのか。黒い魔の
丸毛って奴は、どういう人間だ。馬鹿か、大馬鹿か、くそ馬鹿か、うすら
馬鹿か。人にこんな仕打ちをして、ただですむと思ってるのか」
編集長たちは、黙りこくっていた。中でも「ラバンドウ」編集長の飛田
は、身の縮む思いだった。すでに高岡から厳しく叱責されていたが、また
高岡が蒸し返した。
「なぜ、黒い魔の批判を載せた。飛田、きさま、チェックが甘いぞ。黒
い魔が最大の得意先になったことぐらい知っていただろうが。これを書い
た坂村正太郎というのは、どういう人間だ。馬鹿か、大馬鹿か、くそ馬鹿
か、うすら馬鹿か。とにかく、こんなライターは二度と使うな。連載は直
ちに中止だ。それから、丸毛と会えるように黒い魔内部の人間に打診して
みるから、坂村にも来るよう連絡しておけ」
「坂村さんには、どう言えばいいですか」飛田が質問した。
「くそ馬鹿の丸毛に土下座に行くから、うすら馬鹿のお前も土下座に来
いといえばいいんだよ」
以後、二日にわたって高岡は荒れ狂い、誰も手がつけられなかった。
「という次第で、いやあ、今回はマジで参りました」
飛田の説明を一通り聞いた坂村だったが、ちっとも現実感がなく、また
納得がいかない説明だった。
黒い魔から送られてきた一通のファックス、しかもわずか一枚のファッ
クスは、広報担当者が署名しており、坂村の書いた「ラバンドウ」九月号、
十月号の記事が、黒い魔について誤ったイメージを抱かせる可能性がある
からと、呪術評論社との一切の取引停止、記者会見への出席禁止、資料の
提供停止、取材禁止、黒い魔ビルへの出入り禁止などを一方的に通告した
ものだった。具体的にどこがどうだという指摘はない。
「申し訳ありませんけど、こういう次第ですから、連載は、その、止め
てもらうということで。うちの高岡が怒り狂っていて切れといってきかな
いもんですから」
こんな紙切れ一枚で、何の具体的指摘もないままの連載中止は、坂村と
しては納得できなかった。
「それはもう決定事項ですか」坂村は訊ねた。
「決定事項です」飛田は答えた。
「飛田さん。あなたは、黒い魔や高岡社長のやり方をどう思ってますか。
あなた、いやしくも編集長ですよね」坂村は再び訊ねた。飛田は目を伏せ
た。
「とにかくもう決定なんです。それから繰り返しますが、今回の件は丸
毛社長が大騒ぎしてこうなったらしいので、坂村さんには申し訳ないです
が、うちの高岡と一緒に黒い魔に謝りにいってほしいんですが」
「ちょっと、それはないんじゃないですか」
それまでじっと話に聞き入っていた坂村の担当編集者、浜谷が口をはさ
んだ。
「ラバンドウ」編集部では、飛田と編集部員はソリが合わず、重要事項
を編集長が編集部員に知らせていなかった。そのため編集部員は、社内の
他の部署から情報を得ている有様だった。今回の件についても、編集部員
は一切何も知らされておらず、部員たちは社内の別ルートから情報を入手
していた。このような状況に対して、浜谷は編集部員を代表する形で口を
はさんだのだった。
「丸毛社長が怒ってこうなったといっても、まだ連絡が取れてませんし、
どこが問題なのかも全然わかってないのに、謝ることと連載中止だけが先
に決定しちゃうなんてのは、おかしすぎますよ。もうちょっと様子を見て
から、どうするか考えてもいいんじゃないですか。連載中止といってもす
でに取材もすませたものもあるし、取材に応じてくださった人たちにも申
し訳ないし、場合によってはペンネームで坂村さんに連載を続けてもらう
ことだってできるだろうし」
編集長を前に、ぴしゃりと言ってのけた浜谷に坂村は感心した。浜谷は
「いいですよぉ、いいですよぉ」が口癖で、ライターをうまく乗せて書か
せることが上手な編集者だった。坂村は浜谷を信頼していたので、浜谷の
発言を快く思ったが、飛田は話が意図しない方向に進みはじめたので、愕
然とした。
「そうね。どこに文句をつけてきたかわからないのに、謝っちゃうのも
変だしね」浜谷の意見を補強しておいてから、坂村は訊ねた。「ところで、
丸毛さんに連絡が取れないってほんとですか」
「社長がいろいろ黒い魔の知り合いを使ってやってるらしいんですが、
とにかく手がつけられない暴れようで、会いたくないの一点張りだそうで
す」
飛田に代わって、浜谷が答えた。飛田はもう出る幕がなかった。
「ふうん。じゃ、一週間ほど様子を見ますか。そうすれば丸毛さんの子
供じみた頭も少しは冷えるかもしれない」
「じゃあ、様子を見るということでいいですね」
あっという間に浜谷と坂村が勝手に話を決めてしまい、坂村はもう席を
立とうとしている。飛田は焦った。
「えとえと。今回の件、表沙汰にはしないでくださいね。特にネットに
書き込んだりされると、うちも黒い魔も」
坂村は飛田をさえぎった。
「えっとね。それについてはぼくはフリーハンドでいたいです。ですか
ら、ぼくは必要だと思えば、ネットだろうがどこだろうがいつでも書きま
すし、取材も受けます。ただ、様子を見ようという話になりましたから、
しばらくは黙ってますよ」
「しばらくというと、どれくらいですか」飛田はすがる思いだった。
「まあ二週間。長くて一ヵ月でしょう。ぼくは原稿を一度も落としたこ
とがありません。載っていなければどうせあれこれ訊かれるし、それに答
える義務があります。だから二週間。この間に丸毛さんを引っ張り出せな
いのなら、覚悟してください」
飛田は泣きそうな顔になった。
一週間が経ったが、事態の進展はなかった。坂村の問い合わせに呪術評
論社は、「社長がいろいろやってるが、会いたくないの一点張りで、丸毛
さんとは会ってもらえそうもない」という返事を繰り返すのみだった。坂
村は、これを時間稼ぎをして揉み消すつもりだなと判断した。呪術評論社
に頼っていたのでは埒があかないと見切りをつけ、直接、丸毛に、話し合
いに応じるように手紙を認め、黒い魔宛に発送した。
翌日、丸毛の社長秘書、江島から坂村のもとへ電話が入った。「社長の
丸毛と代わりますのでお待ちください」という声に、坂村は「これがお噂
の」と思いつつ丸毛が出るのを待った。丸毛が出た。
「こんなめちゃくちゃなやり方は許せない」と非難する坂村に丸毛は、
「雑誌やまして坂村さんへの圧力ではないですよぉ。単に呪術評論社と
ビジネスの路線が合わないので、取引を止めたほうがいいかなという申し
出をしたまでなんだからぁ。ぼくね、高岡社長が坂村さんの連載を切ると
いう話を聞いて、何考えてんだ馬鹿野郎と怒鳴ったくらいですよぉ。ね、
とにかく連載中止はうちとは無関係な話なんだから、坂村さんは呪術評論
社と話をしてくださいよぉ」
と、しきりに圧力ではないことを強調した。
「そういう話は、ぼくだけが聞いても仕方ないので、高岡社長、飛田編
集長も交えて話を聞きたいんですけどね」と、坂村は話し合いに応じるよ
うにと迫った。圧力ではないから話し合う必要もないと、嫌がった丸毛だ
ったが、やがて電話口で数回たばこをふかしたのち、「わかりました。じ
ゃ、日取りを決めましょう」と、ようやく受け入れた。
一週間後、黒い魔で行われた話し合いは、珍妙で実りのないものだった。
「高岡さん、こういう言い方は失礼かもしれませんが、マニュアルの仕
事がなくなるというのはね、時間の問題だったんですよ。だってもう、紙
のマニュアルじゃ、やってられないでしょう。本社のほうもどんどんCD-
ROMにして紙のマニュアルは製品にはつけない方向になっていて、どうし
てもほしい人は、出版社が出すからそっちから買ってくださいってことに
なってるんですよ。ですから、呪術評論社さんにはかなりの量のマニュア
ルを頼んでますけど、遅かれ早かれこの仕事はなくなる運命だったんです
よ。ちょっとお知らせが急で驚かれたかもしれませんが」
「お知らせが急とはどういうことだ」丸毛が冒頭から始めた責任転嫁の
下手な言い訳を、「出入り業者風情が黒い魔に楯突くなってことか」と、
高岡は怒りを押し殺して聞いていた。坂村は、この言い訳にあっけにとら
れ、笑い出しそうになったがこらえていた。飛田はじっと黙っている。
丸毛はハイであり、冗舌であり、以後、一時間余り、「煙に巻きたい」
という願望が表われているかのように、たばこをせわしなく大量にふかし
ながら、今回の件の本筋とは離れた話題をしゃべり続けた。
丸毛の演説が一段落したところで、坂村は訊ねた。
「送られてきたファックスを見ると、九月号、十月号が問題だとしてま
すが、具体的にはどの記述が問題になったのか、説明してもらえませんか。
運動図を批判したことが問題だったのですか」
丸毛は大げさに驚いてみせた。
「あれあれあれ。坂村さん、それ、誤解、誤解、誤解ですよぉ。ぜーん
ぜん、そんなこと、ぜーんぜん、ほんとに。ぼく、坂村さんのお書きにな
ったものよーく読んでまして、いつも楽しませてもらってます。ほんと、
ほんと。天田正平や彼方通やら、パソコンのライターをぶっ叩いたのなん
かサイコーに笑いましたよ。運動図批判、大いにけっこう。社内でも、こ
れ、ほんとのことだもんとみんな笑って読んだくらいですよ。な、な、お
前らも、大笑いして読んだよな。おれが喜んでたの知ってるよな」
丸毛に付き従ってきた側近四人は、映画やドラマでしかお目にかかれな
いほど、激しく首を上下にカクカクと動かし、丸毛への忠誠を表現した。
「こういう批判はどんどんやってもらわなくっちゃ。うちもいい製品に
したいと思ってがんばってるから、こういう批判は助かるんですよ。東山
さんのきつい批判も助かってるし、運動部員もいいなあと思ってますし」
あらら、登場人物でない人間が出てきたか。東山の姿がみえないので、
中村は仕方なくまた自分が失神することにした。近所の豆腐屋まで絹ごし
豆腐を買いに行くと、顔なじみの店のおばさんは怪訝そうな顔をして、
「あら珍しい。絹ごしを買うのかい」
「いや、ちょっと。木綿だと痛かったもんだから」
挨拶も早々に部屋に引き返し、中村はパソコンに潜り、豆腐の角に頭を
ぶつけた。無数のミカンせいじんが湧いて出て、人文字を形作りながら、
ナレーションとともに説明を流しはじめた。
東山勝也。日本で主流の目本電気のパソコン九九シリーズを叩き潰すべ
く、アメリカのハル本社から送り込まれたスパイ。日本では主に日本ハル
と共同して作戦を遂行する。
東山が企画開発した運動部員は、英語版運動図でも日本語が使えるよう
にするソフトである。運動部員は、黒い魔の日本語運動図への批判でもあ
り、反黒い魔のパソコンユーザーに絶大な支持を得ている。彼はまた雑誌
等における日本語運動図批判の急先峰でもある。
しかし、とミカンせいじんは続ける。
裏ははるかに複雑である。東山は黒い魔社内事情的には、丸毛の手下と
して機能している。丸毛は、それと気づかれぬように巧妙に東山をそその
かし、日本語運動図批判をやらせた。東山は、苦川との権力闘争において、
丸毛の重要な手駒であったのだ。丸毛は日本語運動図批判を東山にやらせ
ることで二つの効果を狙っていた。
まずは、言い訳の用意である。ドーザーが五百万本売れといったのを、
四回オカマを掘らせて達成可能な百万本に値切ってはいた。が、万が一と
いうことがある。もし達成できなかったときは、ドーザーが許すまい。そ
のときの言い訳がほしかった。すなわち、運動図が百万本も売れなかった
のは自分の責任ではない。苦川が無能な上、指揮していた技術陣も馬鹿揃
いで、どうしようもないものを作ったからだと。だから責任は苦川にある。
こうベッドでドーザーに泣きつくつもりだった。自らの失点を苦川の失点
にすり替えることで、苦川に優位に立てる。
もうひとつは、苦川の身ぐるみを剥ぐことである。日本語運動図の出来
は悪い。マスコミを使って情報操作すれば、技術陣を率いていた苦川は社
内的に窮地に追い込まれる。実際に苦川は、日本語運動図批判の責任を取
らされる形で丸毛から技術陣を取り上げられ、もはやほんとうのお飾りに
成り下がっていた。
権力闘争の好きな丸毛にとって、日本語運動図の売上げよりも、苦川を
追い出し、苦川派の人間を粛正することで社内から異分子を一掃し、黒い
魔を完全掌握することのほうが重要だったのである。東山の運動図批判に
対して、助かったと感想をもらすのも道理である。
ミカンせいじんが魔法のやかんから水をかけると、中村は意識を取り戻
し、パソコンから中年太りの身をよじって抜け出て部屋に戻り、続きを書
きはじめた。
「でね、ぼくの実名を出して、ミカンなんとかというのに襲わせるシー
ン。あれ、仮名ならいいです。しかし実名だけは止めてください。最近、
テレパシーで送ったアイデアを黒い魔が勝手に使っているから特許侵害だ
とか、頭のおかしな連中からの変な手紙や電話が多くてね。そういうおか
しな連中は、何がトリガーになるかわかりませんから。坂村さんの記事を
読んで、ぼくを襲おうと思うかもしれない。だから、実名だけは止めてく
ださい。もう最近はね、警察に家族を警護してもらおうかなと思ってるん
ですよ。そんな目に遭ってまで、こんな会社の社長なんてやってられませ
んからね。ぼくだけならいいけど、家族、特に娘に変なことをする奴が出
てきたら、ぼく、そいつ、絶対ぶっ殺してやりますよ」
丸毛の冗舌が止まらず、目が狂った光を宿したのに辟易しながら、坂村
は話を要約した。
「ということは、日本語運動図の技術的な問題を指摘した部分は、何の
問題もないわけですね。唯一、実名で丸毛さんがミカンせいじんに襲われ
るシーン、これが恐怖と怒りを呼び起こしたと。これでいいですか」
「そうです。そうです。いくら黒い魔のいいことをずっーと書いてきて
も、記事の最後で、こういうシーンがあったらダメです」
「なるほど。わかりました。パロディだったんですが、実名で丸毛さん
をミカンせいじんに襲わせた部分、この部分についてはお詫びします。ほ
んとうに申し訳ありませんでした」
坂村は深々と頭を下げた。
「ですがね。編集部にもぼくにも何の話もなく、一方的に取引停止や出
入り禁止をやって知らんふりというのは、やり方がひどすぎませんか」
「いや、それはぼくの責任じゃないんです。ちょっと呪術評論社との取
引を見直したほうがいいかななんて話はしたのは事実です。しかし、それ
を下の者が取引停止だとか大げさに取っちゃって、それをまた広報が馬鹿
なもんだから、馬鹿正直に取引停止だ、出入り禁止だと通告するなんて無
礼なことをやっちゃって、その辺の誤解があったんじゃないかなあ」
「それにしても、編集部にしてみりゃ、ずいぶんな話ですよ」坂村は食
い下がった。
「いや、坂村さん。それは取引停止になったら自動的にあらゆる情報封
鎖も行うようなシステムになっているんですよ。黒い魔ほどの規模の会社
になりますとね。いろいろ法務上の措置もあって、取引が終了した相手に
は、情報は絶対に流れない、そういうシステムが必要なんです。それが今
回たまたま運悪く動いてしまったわけです。けして悪気があったわけじゃ
ない。たまたま偶然運悪くなんですから。そこんとこはご理解いただきた
い。ぼくが意図的に出版社を出入り禁止にしたのは、つい、この前やりま
したが、月経パソコンだな。あそこはね、うちがキャンペーンやってがん
がん安売りやってるでしょ。それがけしからん、末端の販売業者は迷惑し
てる、消費者も混乱しているなんて書きやがったので、馬鹿野郎、お前ら
死んでしまえと思ってね、出入り禁止にしてやりましたよ。うはははは」
「殺してやろうか」高岡は声に出しかかったが、ぐっと言葉を丸呑みし、
穏やかな口調で丸毛に話しかけた。
「丸毛社長のおっしゃることは、それでそうなのでしょうが、私共とし
ましては、あまりに突然の取引停止で。他社の仕事を止めて、マニュアル
部全員を黒い魔担当にしてまで黒い魔シフトを敷いて、さらに御社のため
に雇い入れた従業員も少なからずおりますし、そういうのが全部宙に浮く
というのが、あまりに突然で」
高岡は下請の悲哀でくやし涙が流れそうになるのをこらえ、黒い魔を立
てた。
「まあ、しかし、いまやらせていただいております分については、責任
をもって納入させていただくということで、それまでは何卒お取引を続け
ていただけないものかと」
「いやいやいやいや、高岡さん。ああ、誤解、誤解、誤解ですよぉ。う
ちが御社を取引停止だなんて、とーんでもない。うちは、アクセクも運動
図NTもお願いしてますし、いま御社と取引停止だなんてことになったら、
製品の出荷予定が大幅に狂っちゃう。そんな馬鹿なことはあるわけないで
すよ。それにですね。取引停止もないんだから、出入り禁止もなしです。
それは私が責任をもって直ちに社内に通告します。ぜひ、今後ともうちと
末長くお付き合いを願いますよ。ほんとほんと。ね、丸毛のお願い」丸毛
はしなを作ってウインクまでしてみせた。
高岡、飛田、坂村の三人は開いた口がふさがらなかった。
高岡は、この男の変わり身の早さをどう考えればいいのか、つかみかね
た。高岡も黒い魔の現場レベルも、いま呪術評論社と取引停止になれば、
黒い魔のほうが被害が大きいことはみな知っていた。丸毛と上層部はそれ
を知らず、取引停止通告を出した。製品出荷を目指し、突貫工事の最中に、
寝耳に水の知らせを受けた黒い魔の現場は猛反発し、丸毛を半日かかって
説得。ようやく取引停止撤回に持ち込んだのだった。その経緯を、この三
人は知っていた。自分に向けられた説得材料をそのまま右から左に流して、
最初から取引停止に反対だったかのように事件の張本人が言ってのける。
三人の呆然とした姿を、自分の寛大な措置に感激したものと勘違いした丸
毛はなおもしゃべり続けた。
「最近、ぼくね、もう、パソコン雑誌には出るの止めようと思って。顔
知られると変なのがやってきたりするでしょ。怖いしね。なんかさ、ぼく
のこと、友達みたいに思ってるね、そいつらって。目本電気の関戸社長み
たいに、天皇待遇で扱えとはいわないけどさ、これでも黒い魔の社長なん
だから、もう少し扱い考えてほしいよなあと思ってさ。パソコン雑誌はダ
メね。ここで顔売っても、経営者の格は上がんないし、財界にはつながん
ないもんね」
三人とも、この辺から丸毛の小児症ぶりを嗤う気も失せていた。彼らは
これ以上時間を費やすのは無駄だと判断し、高岡が、坂村が連載を止める
こと。ついては、連載中止の理由を明らかにすることを説明し、丸毛が不
承不承「わかりました」と答えたのを確認してから、黒い魔を後にした。
「いやあ、どんな社長さんかと思ったら、とんでもないですなぁ」帰り
の車の中で、高岡が口を開いた。
「ほんと、びっくりしましたよね。以前取材であったときとは、全然違
う。こんな人だったのかと愕然としました」飛田が相槌を打つ。
「しかし、嗤わせてくれましたね。ミカンせいじんが怖かったというの
は。あれで、よく黒い魔の社長をやってますよね」と坂村。
三人が丸毛を嗤っているころ、丸毛は荒れ狂っていた。
「あの三人の目を見たか。おれを蔑んだ目で見ていたぞ。天下の黒い魔
の社長が、ミカンせいじんが怖いですだと。会社を守るためとはいえ、き
さまらの出したくだらんアイデアで、おれは馬鹿そのものだった。くそく
そくそ」
側近に当たり散らし、人、壁、机、置物、窓、手当たり次第に、タコ殴
りにタコ殴りまくっていた。
坂村の連載が載らなかったことで、坂村のところには、友人知人から電
話やメールで、どうしたんだ、ケガか病気かという問い合わせが頻繁に入
り、その都度、経緯を説明せねばならず、追い込み時期になっていた本業
のシステム開発に支障をきたす寸前になった。
そこで坂村は、友人知人がよく出入りしている朝目ネットと月経ミック
スという二つの小規模なネットに、次号に載せるはずの、連載中止にいた
る経緯を説明した文章を掲載した。
規模は小さいが、マスコミ界とパソコン界の人間が多いネットだけに反
響は大きかった。大手ネットから全国の草の根ネットまで、メッセージの
転載希望があった。これは商業誌に掲載されるからと坂村は当面の間転載
を断わった。
すぐさま「噂の感想」が取材を申し入れてきて、直後の号で「黒い魔ソ
フトの言論封殺事件」として記事にした。これがまた波紋を呼び、以後、
出版社、新聞社、テレビ局などから話を聞きたいといった電話やメールが、
坂村のもとへ次々と舞い込んだ。しかし、パソコン雑誌でこの事件を記事
にしたのは、「PC波」という雑誌だけだった。他の雑誌は黒い魔を恐れ、
沈黙を守っていたのである。
坂村のもとには、さまざま人物から黒い魔の社内事情、黒い魔への恨み
つらみも多く寄せられた。中には「いま業界で一番ひどい広報です」など
と、苦い経験をさせられた人々からの、黒い魔の広報に対する非難も少な
からず交じっていた。
波紋は広がりはじめていた。ミスティのような大手ネットでも黒い魔に
対する非難は激しさを増していった。
愛人の秘書江島礼子とともに、沖縄での休日をのんびりと過ごして、幸
せな気分で出社した丸毛は、事態を知らされ、泥水をぶっかけられた気分
になった。群衆が、丸毛と黒い魔を口々に非難して、押し寄せてくる。じ
わじわと自分に迫るそのさまを想像すると、丸毛は吐きそうになった。し
かしまだ、丸毛は気づいてはいなかった。その群衆がミカンせいじんであ
ることに。
「連載中止にいたった経緯を載せる。せっかくこう約束をしたものを一
方的に反故にすることになりますが、私としても断腸の思いで、この記事
は掲載せず。こう決定しました。誠に坂村さんには申し訳ないが、この件
は納得してもらいたい」
坂村と「ラバンドウ」編集部員全員を集めた席で、高岡は切り出した。
「理由はやはり、黒い魔がらみですか」坂村はおもむろに質問した。
「黒い魔が脅してきました。うちの別の部署の人間が、別件で電話した
ときに、ネットに流れている坂村さんの文章。あれが『ラバンドウ』に載
れば黒い魔は呪術評論社を取引停止にするどころか、殺す。こういう意見
が上のほうで支配的になっていると、黒い魔の社員から脅かされましてね」
問いに答えた高岡を引き継ぐ形で、黒い魔に電話をかけた呪術評論社の
社員が話しはじめた。
「だから取引停止になる前に、ほしい資料があれば言ってくださいと向
こうは言いました。最大限好意的に解釈すれば忠告ですけど、口調は相当
に脅しが入ってましたから、これは問題だなと思って、今日、こうして集
まってもらっているわけです」
高岡は、黒い魔が資料を出さなくなると、雑誌や書籍で使う画面写真の
撮影費用がかさむし、自前で用意したところで、使えば著作権を盾に黒い
魔が訴えてくるだろうし、などと細々とした本筋に関係ない話を持ち出し
て、黒い魔に隷属する理由、掲載しない理由の正当化に努めた。すでに数
時間が経過している。
「これ以上、ごちゃごちゃやっても、決定は覆らないんでしょう。だっ
たら時間の無駄です。掲載せずでけっこうです。ぼくは納得はしませんけ
どね」坂村は、うんざりして言った。
「そうですか。では、申し訳ないが、今回は不掲載ということで」高岡
は答えた。その言い方に坂村はカチンときた。
「それは、いつか掲載されるという意味ですか」。
「いや、それは。それは、おそらく永久にないでしょう」と、ちょっと
たじろいで高岡は答えたが、返す刀で、
「それにしても、坂村さん。坂村さんがネットにさえ流さなければ、こ
の記事は掲載できたのに、どうしてネットに先に流したのか。それが私に
はわからない」と問うた。「揉み消しに必死だったくせに、このオヤジは」
と思いながらも坂村は、
「いきなり雑誌に掲載して、取引停止を食らったらどうするおつもりだ
ったんですか。ぼくが流して敵の出方がわかって助かったんじゃないです
か」と逆に問うた。高岡は顔を赤くしてしぶしぶ「その点は助かりました」
と認めた。坂村はもう一点確認した。
「ところで、『ラバンドウ』で載せないんだったら、あの記事、もうど
このネットに転載してもかまいませんね」
高岡は、「ご自由に。うちと黒い魔は関係を修復しなきゃならん。もう
うちは関係ない。やるなら坂村さん、勝手にやってください」と答えた。
すでに坂村は「ラバンドウ」に経緯説明が載ることを、ネットを通じて
明らかにしていた。丸毛も高岡も事件の揉み消しに必死のあまり、もはや
経緯説明が載らないことのほうが、経緯説明が載ることよりも大きな事件
になることに気づいていなかった。坂村は、件のメッセージの転載を許可
した。あとは雪崩が人々を飲み込むようなものだった。
案の定、「ラバンドウ」に経過説明が載らなかったこと、同時に坂村の
経過説明が全国のネットに転載されたことで、前にも増して黒い魔非難の
声がネット内に満ち満ちた。新聞社も動き出し、内弁慶の丸毛は記者の取
材から逃げ回り、姿を隠すのに汲汲とする毎日を送るようになった。
やがて朝目新聞が記事にし、毎目新聞も記事にした。黒い魔の業界支配
のあくどいやり口は、ようやくネット内だけでなく広く世間の目に触れ、
記録に残ることとなった。
事件の揉み消しを図った丸毛と高岡のもくろみは失敗した。高岡は新聞
に記事が出たことで腹をくくり、一度は掲載見送りにした坂村の文章とと
もに、自ら事件の経過を綴り、「ラバンドウ」に掲載することにした。
胆の小さい丸毛は、ストレスのため激しい円形脱毛症に見舞われていた。
決して表に出てこようとせず、公開討論に出て来いという坂村の呼びかけ
にも耳をふさいで指をしゃぶっていた。のちには政敵苦川に、坂村との対
談をやってもらい、尻ぬぐいをしてもらう羽目に陥る。黒い魔帝国独裁者
の小児症ぶりは、後の世まで世間の嗤いを誘うこととなった。
圧力をかけた理由も、当初のファックスでは「黒い魔に誤ったイメージ
を抱かせる可能性がある」だったが、丸毛の説明では「ミカンせいじんに
襲われたのが怖かった」にすり変わり、新聞記事になった時点では「守秘
義務に違反する可能性のある内容が含まれている」に化けていた。さすが
の丸毛も、新聞に「ミカンせいじんが怖かった」と載るのは恥かしいと考
え、何度も坂村の記事を読み直し、守秘義務違反をでっち上げたのだった。
坂村は、運動図標準の日本語入力ソフトが他社製であることを、黒い魔
の日本語技術のなさの表われとしていた。他社製の日本語入力ソフトを黒
い魔が使っている。この事実を明らかにしたことを、黒い魔は守秘義務違
反とマスコミに説明したが、これはすでに他の雑誌でも明らかにされてい
た公知の事実だった。結局、丸毛のでっち上げは、黒い魔のダーティな体
質を一層浮彫りにしただけに終わった。
「よっ、正さん、お久しぶりっ。応援してますよ。なんてったって、お
れたち坂村ブラザーズですからね」
パソコンソフトの販売と出版を手がける坂村満太郎は、日本ハルのパー
ティで坂村正太郎に声をかけた。この二人、ほんとうの兄弟ではないが、
名前が似ているところから意気投合して、冗談半分に坂村ブラザーズを名
乗っているのである。
「でさ、苦川から連絡あったんだよ。正太郎さんに話をつけてもらえな
いかって。裏から話つけようなんて、丸毛もお前も同じかって言ってやっ
たら、すいませんなんちゃって。あいつ、からきし弱いね。かかか」
「え、満太郎さんとこにそんな話が。苦川さんから、パーティが終わっ
たらお話をしたいなんて連絡があったから来たんだけど、その様子じゃ、
望みがなさそうですね」正太郎は早くも徒労感を感じそうになる。
「ところでさ、これ知ってる?」満太郎が一枚のフロッピーを見せる。
「おっ。ミカンせいじんの」と正太郎。
「そう、スクリーンセーバーがね。やっとできたんだよ。もう会場のマ
シンに入れまくっちゃった」満太郎が得意気に鼻をうごめかす。「作った
ドクタースランプこと下町ってのが天才でね。隠し機能をばくばく入れち
ゃって。一番すごいのがね、秘密モードね」
「なんじゃ、それは。どんなになるの」非常に興味を示した正太郎に、
満太郎が説明しようとしたとき、
「おお、これはこれは。わざわざご苦労さまでございます。坂村さん。
はじめまして。かな? 黒い魔ソフトの苦川でございます」
巨体を揺すりながら、苦川が坂村ブラザーズに近づいてきた。
「説明するより、やったほうが早いな」とつぶやいた満太郎は、元ボク
サーのフットワークを生かして、苦川に近づいた。苦川が「誰かな。あ、
坂村満太郎だ」と思った瞬間、満太郎は強烈な右フックを苦川の顔面に叩
き込んでいた。苦川は象が足元から崩れ落ちるように倒れた。大の字に寝
転んだ苦川の頭のあたりには、ミカンせいじんたちが漂いはじめた。正太
郎はのけぞった。
「げげげ。これは一体。まるでギャグ漫画に出てくる、気絶した人間の
まわりを飛ぶ天使みたいな」
「うはは。おもしろいでしょう。秘密モードのミカンせいじんを起動し
ていると、半径百メートルは影響が及ぶんです。でね、失神するとミカン
せいじんがそいつのまわりを飛ぶんですよ。かわいいでしょ。しかもすご
いのはね。気絶した奴の秘密が全部わかっちゃうとこなんですよ。何かリ
クエストはありますか」
「ほんとにそんなことできるの。じゃあさ、ブラックマジックがリスキ
ーを買収して、牛さんが黒い魔の社長になるって噂について訊いてみて」
「いいね、いいね。おれんとこにも、いろんな奴から、リスキー株買え
って電話かかってくるんですよ。ブラックマジックが買収するか、資金提
供するからもうリスキーは大丈夫だって。業界ぐるみのインサイダー取引
ですよ。かかか」
「で、ドーザーが最後に日本で頼るのは、丸毛でも苦川でもなくて、か
つての盟友、牛だっていうんでしょ。ぼくもその話、ずいぶん聞きました
よ。だいぶ出回ってる噂ですね」
「うん、それそれ。でね、やり方は簡単で、ミカンせいじんに囁けば教
えてくれるから、正さん、自分でちょっとやってみてよ」
言われるままに正太郎は、ミカンせいじんに小声で訊ねてみる。ミカン
せいじんたちが激しく飛び交ったあと、忽然としてリスキーの牛の姿が、
坂村ブラザーズの眼前に浮かび上がった。牛は妙に機嫌がいい。エレベー
ターの中のようだったが、ルンルンとスキップしていた。
「すごい。これ、ライブなのかな」正太郎は感嘆する。
調子に乗ってスキップする牛だったが、衰えた足腰は巨体を支えられず、
牛はひっくり返り、後頭部を打って失神する。中村正三郎は、自分が失神
せずにすんだことにほっとし、手にもって用意していた杏仁豆腐を、さっ
そくおやつに食べはじめた。
新たなミカンせいじんが音楽に乗って登場し、ラインダンスを踊りなが
ら、歌うように説明を開始した。
牛は、れっきとした名字なの。牛一人と書いて「うし かずひと」。
牛はドーザーとコンビ組み、パソコンの拝み屋稼業で大儲け。一躍寵児
に踊り出て、パソコンの天才とうたわれる。いいえ、牛もドーザーも、天
才なのは金儲け。
リスキーは牛が設立し、社長を務める会社の名。まだ三十年は務める気。
甘い汁を吸った仲、いつしか両者は仲たがい。ドーザーの手引きでリス
キーから、苦川、丸毛が飛び出して、でき上がったのが黒い魔よ。
バブルに乗ってイケイケの、事業の多角化、大失敗。
バブルがコケて文字通り、リスキーはあまりにリスキーに。いまや倒産
寸前の有様で、銀行管理の状態に。
牛、文治、糠元の、トロイカ体制も大崩壊。文治、糠元はいち早く、イ
ンサイダー取引で、リスキーなリスキー株を売りぬけて、たんまり儲けて
トンズラよ。
それで作ったバンプレス。パソコン関連出版社。じわじわ勢力伸ばして
る。
ちなみに丸毛はリスキーじゃ、牛の直属の部下だった。一方、苦川は反
牛で、文治・糠元のラインだった。
苦川、丸毛の闘争は、金の成る木黒い魔の、金脈をめぐってトロイカの、
代理戦争でもあったさ。
「ははあ、リスキーと牛がらみの流れを説明してくれるわけか」正太郎
は感心する。ミカンせいじんは、なおも歌い続ける。
牛は、ブラックマジックがリスキー再建に手を貸してくれることを大喜
びしている。リスキーと営業面でもめていた呪術評論社を、理由をでっち
上げて切り、その分のマニュアル製作をリスキーにやらせろ、黒い魔ビル
のすぐそばに専門部隊を張り付けるから、と丸毛をそそのかした。それを
実行した丸毛がドツボにはまって大慌てしている光景を、腹を抱えて嗤っ
ている。これで丸毛が失脚し、自分が黒い魔の社長になれたらそれでよし。
さもなくば、ブラックマジックとリスキーで合弁会社を作り、その社長に
就任するつもり。さらに、ブラックマジックの次期商品、OA機器用ソフ
トの利権はリスキーが握り、日本メーカーに売りまくって儲ける気。その
ためには、苦川が邪魔なこと。苦川がいなくなれば、丸毛から自分が黒い
魔の社長を引き継ぐつもり。リスキーをブラックマジックに売る用意もあ
る。どっちみち、丸毛もポイ、苦川もポイで、牛・ドーザーのコンビ復活
を狙っている。
などとミュージカル仕立てで説明した。
「牛さんがらみの話ばかりだな。それほど、苦川さんの頭の中は、牛さ
んのことでいっぱいということかな」と正太郎が首をひねる。
「まあ、丸毛はバックで牛が操ってるらしいから、当然かも。それにし
ても社内的には苦しいな、こいつは。トホホの苦川って言われてるけど、
よく丸毛とコンビを組んでいられるもんだ。いつ辞めてもおかしくないぞ」
と満太郎。
「そういえば、苦川さんて、黒い魔辞めて、文治、糠元のバンプレスの
社長になるという噂がありましたね」
「それを言ったら、正さん。苦川がハッスルコンピュータジャパンの社
長になるって話があるんだよ。そうだ、このネタ、ちょっとミカンせいじ
んに訊いてみよう」満太郎はミカンせいじんに囁いた。
ミカンせいじんは、
ハッスルジャパン社長の他家愚痴が苦川を口説き、苦川もその気になっ
た。他家愚痴は、ハッスルジャパンが主催したディーラー会で次期社長に
苦川が就任すると話した。ところが今回の事件で丸毛が失点を重ね、苦川
が社内で生き返ったことでハッスルジャパン社長就任の話は流れた。この
影響で、他家愚痴は次期社長を決められないまま、社長を辞任、その人事
の不自然さが業界で話題になるだろう。
といったことを二人に教えた。
「いやあ、便利ですね、これ。なんでもわかっちゃうわけか。すばらし
いね。それにしても、裏はどろどろしてるよなあ」正太郎は飛びだす内容
の奇怪さに唸っていた。
「もうこの業界も腐ってつまんなくなった。昔から似た顔ぶればかりで、
しかも見識はないけど人格には難があるってやつらばかりだもの。人材不
足なんだよ。結局さ、こいつらがやってるのは、ユーザー不在の、パソコ
ン利権のたらい回しだもん」満太郎は吐き捨てた。「もうこれくらいで、
苦川を起こそうか」
「いや、ちょっと待って。今日、おれに会ってどういう話をするつもり
だったかを知りたいんだ」正太郎はあわててミカンせいじんに訊ねた。
ミカンせいじんは、
通告ファックスの署名をした広報の女性社員に苦川が泣きつかれたこと。
上から言われるままに書いた文章だったので、彼女の名前を出すのは勘弁
してほしい、責任は社長や会長にある、と弁明するつもりでいること。
を告げた。
正太郎は、黒い魔のレベルの低さにあきれ、苦川と今回の件について話
し合うことの無駄を知った。
「黒い魔は、こんな馬鹿が広報をやってるわけか。評判悪いはずだよ」
満太郎が正太郎の気持ちを見透かしたかのように言う。正太郎もつい調子
に乗ってまくしたてる。
「広報のくせに、文責の重さも知らないんだぜ。取引停止の通告に署名
していながら、知らなかったと泣きつけばすむと思ってるのか。まいっち
ゃうな。尊大に振る舞う評判の悪い広報のくせに、甘ったれるな。責任は
社長や会長にあるだと。だったら社長や会長の名前で文書を出せ。こうい
う馬鹿な言い種のために、人を呼びやがったのか。このあほは」
「うはは。じゃ、もう、こいつ捨てちゃいますか」満太郎は、にこにこ
笑いながらズボンの前をまさぐる。「お、じゃ、お相伴にあずかりまして」
正太郎もズボンの前をまさぐる。
苦川の顔に二本の滝が降り注いだ。牛にも、エレベータの天井をぶち破
って、バケツをぶちまけたように、生体生ビールが降り注いだ。エレベー
タ内の水位は急速に上がり、飛び起きた牛は、いま脱出しようと懸命にも
がきはじめたところだ。
温かい滝に打たれ、苦川が意識を取り戻したときには、ミカンせいじん
と坂村ブラザーズの姿は消えていた。
ようやく峠を越えたところまで書き上げて、中村正三郎は椅子に座った
まま、背伸びをする。残るのはラストシーンか。一息つけるところまで辿
りついて、少しほっとしていた。
「どうやら締切に間に合いそうだ。これも満さんの行動力のおかげだな」
正三郎は苦笑した。
実はこの原稿の依頼主、ビレッジセンターの中村満社長には、一度、二
週間締切を延ばしてもらっていた。ドドーンと資金援助をし、徹夜の連続
で筒井康隆断筆祭を成功させたかと思えば、息つく暇もなくアメリカにす
っ飛んで行く。いつもながらの行動力は正三郎をあきれさせていたが、当
初約束した締切のころには日本にいないからと、締切を延ばしてもらえた
のだった。その締切に間に合いそうだった。
と書いたのは嘘で、連絡がないのをよいことに、正三郎は勝手に締切を
さらに延ばし、ゴールデンウィークの五月三日になっても書き続けている
のだった。
コーヒーでも淹れて、休憩しよう。パソコンの前から立ち上がり、寝入
っている家族を起こさないよう、そっとドアを開け、部屋から出ようとし
た。そのとき、部屋の中が真っ暗になった。
停電かな。参ったな。パソコンは電池で動いても、真っ暗じゃ、原稿が
書けないぞ。あ、おれのはバックライト液晶だから書ける。よかったよか
った。書きかけの原稿はどうなる。ああ、これも大丈夫だ。レジューム機
能で電源が切れてもメモリの内容は保持している。安心安心。
ここまでを一瞬のうちに考えて、正三郎はコーヒーをあきらめることに
した。「仕方ない。さっさと片付けよう」
この停電は、一気に最後まで書いて寝ろ、ということなのだろう。そう
考え、ドアからパソコンのほうに正三郎が振り返ったとき、それはそこに
いた。正三郎はその姿を見て、凍りついた。
「どうして、このレベルにお前がいる」
ミカンせいじんが佇んでいた。
「お前はおれの作った世界、下のレベルにいるはずだぞ。なぜここに出
てくるんだ」
ミカンせいじんは、無表情だった。
「あの抜け道を通ってきたのか。いや、あれはおれのために作ったもの
だ。下のやつらが通れる場所じゃない」
だとすると、下のどこかでミカンの汁をつけちまったか。ミカンの汁は
なかなか落ちない。妻によく叱られる。こいつ、おれが気を失っている間
に、こっそり自分の汁をつけたんじゃないか。
正三郎があれこれ推測するのを無視して、ミカンせいじんはサンプリン
グレートの低い耳障りな声を発した。
「十二人の騎士が揃いました。聖杯を奪取するチャンスです。暗号をど
うぞ。五、四」
正三郎はミカンせいじんの言っている意味がわからなかった。
「なんだ、それは。円卓の騎士か。アーサー王伝説か。それとも、あ、
わかったぞ。クリスタル・カリバーンのことか」
「聖杯を奪取しました」
「えっ、ナニ。いまので聖杯が取れたの。ウソ。おれ、あれなかなか取
れないのに。超ラッキー小僧だな。うはは。でもナニ、お前の出現とマッ
クのピンボールゲームがどう関係するんだよ」
「全空間、全時間、全レベル、全物語のスクリーンセーバーが、オンに
なります」
問いには一切答えず、ミカンせいじんは自動機械の正確さで事態を進め
ていった。
ミカンせいじんの体が明滅を開始する。明るくなったときは、柔らかい
オレンジ色の光がその体を包む。みかんで作ったかわいらしいぼんぼりの
ように見える。暗くなると、闇にわだかまった怨念のようだった。
明滅は徐々に激しくなっていった。ついには、超新星爆発のような眩し
さと、真の闇・真の静寂が目まぐるしく現われては消え、消えては現われ
た。暴風が吹き荒び、雷が哮り、海は荒れ狂い、地はもだえ、山は卒倒し、
空間はたわみ、時間はねじれ、物語は融合した。
「最後の聖戦に突入します」
宣告が時空にこだまする。無数のミカンせいじんが活動を開始した。
「おっはようございまーす。満さーん、ほんと、お久しぶりっすね」
中村正三郎が、ウィンドウズワールドエキスポの会場にあるビレッジセ
ンターのブースを訪れると、中村満がにこにこして待っていた。
「おう、これはこれは。ミカンせいじんの原稿、どうもでした。おかげ
さまでね、今日、こうして会場で本を売ることができて。見てよ、これ。
ブース出しましたよ、嫌味で。がはは」
坂村満太郎が近づいてきて、調子に乗る。
「いやあ、今日は楽しいなあ。ミカンせいじんの着ぐるみ。いつでも出
動オッケーですからね。早く見せてやりたいな、丸毛に。テレビも週刊誌
もカメラが来てますから」
それらしき格好をしたスタッフが正三郎のほうに会釈し、正三郎も会釈
する。
「でも、丸毛さん、ここじゃなくて、千葉ロッテのマリンスタジアムの
ほうで大イベントやるんでしょ」と正三郎の陰から、坂村正太郎が姿を現
わす。「地に堕ちた威信を回復するために、小学生を大勢集めてマスゲー
ムやるそうじゃない」
カメラマンの一人が話に加わる。
「なんでも次期運動図の死篭のデモンストレーションで、新操作法だと
いって、丸毛さんが指一本で一万人の小学生をコントロールするらしいで
すよ。とうとう独裁者が子供をコントロールするための呪術ソフトになっ
ちゃうんだもん。運動図はすごいっすね。その絵もばっちり撮ってきます
から、期待しといてください」
「あ、すると、プレスじゃないと、スタジアムには入れないの」正三郎
は恨めしげにカメラマンを見る。
「そうなんすよ。いやらしいでしょ。黒い魔に忠誠を誓うサインをした
プレスだけ入れさせるんですよ。でも、こいつら、入っちゃいますけどね。
プロだから。ついでに指名手配のおれたちも入っちゃいましょう。がはは
はは」満が高笑いした。
「それサイコー。丸毛さんならおれたちの顔知らないもんな。うははは
は」正三郎が高笑いした。
「じゃ、おれたちはN社長の講演を見に行きましょうかね。あっちは満、
正三郎の中村ブラザーズは知ってても、おれたち坂村ブラザーズのことは
知らないから」今度は、満太郎と正太郎が高笑いした。
丸毛は、高揚していた。
ようやく失地回復のチャンスが巡ってきた。実にひどい半年あまりだっ
た。どこに行っても、くすくす嗤われているようで、丸毛のプライドはず
たずたになっていた。しかし、社長である以上、さまざまな行事に出ない
わけにはいかない。丸毛の失態をついて、息を吹き返した苦川の動きにも
いらいらさせられた。丸毛は心の中で毒づく。
事態の収拾役を買って出るなどと調子に乗って、ネットに書き込んだり、
坂村と対談をしてみせたりと、ここぞとばかりに自分の存在をアピールし
やがって。そのくせ、どれもこれも不発で、却って黒い魔のイメージを落
としただけだ。会長までこれではと、あきれられているぞ。
おれは苦川のようなマヌケではない。真に威信を保ち、尊敬を集めるに
は、どう演出すればいいか熟知しているのだ。おれの指先ひとつで、多く
の人間が自由自在に舞い踊る。この華麗なショウを内外千人のプレスに取
材させてやる。死篭の限りなき可能性の前宣伝にもなる。何よりおれのさ
っそうとして凛々しい姿は、絵になる。そしてもう二度とくすくす嗤いは
許さないのだ。
万雷の拍手に迎えられ、丸毛は、スタジアムの特設ステージに立った。
目の前のグランドと外野席には、マスゲームを行う小学生が、丸毛の合図
をいまかと神妙に待ち受けている。内野席とネット裏には、招待したプレ
スと、サクラに駆りだされた黒い魔の社員とその家族がひしめいていた。
拍手が鳴りやむのを待ってから、おもむろに丸毛は挨拶を始めた。短い
がいい挨拶だった。最後にショウの開会を宣言した。いよいよ、マスゲー
ムを指揮する。
丸毛は、人差し指を立てた右手を、頭上から一気に振り下ろし、マスゲ
ームをスタートさせた。
その合図を待ってましたとばかりに、グランドの小学生が、丸毛めがけ
てやみくもに突進を開始した。
「しまった、コマンドを間違えたか」と思う間もなく、小学生たちはス
テージにかけ上がろうとしている。ステージ前方にいた警備員たちは、す
でに小学生の波に飲み込まれて姿が見えなくなっていた。
「止まれ。止まれ。止まれ」
大声で叫びながら、左手を前方に伸ばし、掌をかけ上がってきた小学生
のほうに向ける。いっこうに通用しなかった。
「まさか、死篭のバグか。いくらベータ版とはいえ、昨夜試したときは
大丈夫だったのに」などとのんびり考えている暇はなかった。
小学生たちは丸毛に殺到した。ステージに上がった小学生たちは、一斉
にかぶっていた黄色い帽子を脱ぎ捨てた。いくつもの小さな黄色い帽子が
宙を舞う様は、さながら花畑を舞う蝶の群れのようだった。
黄色い帽子を脱ぎ捨てた小学生の顔は、やはり黄色かった。頭も体もや
はり黄色かった。見渡せば、ステージはもちろんのこと、外野、内野、ネ
ット裏もどこもかしこも黄色かった。無数のミカンせいじんがスタジアム
を覆い尽くしていた。
そこに梯があり、それにつかまれば空中に逃げられるかのように手足を
激しくばたつかせていた丸毛だったが、次第にその動きは鈍くなり、すで
にミカンせいじんに包まれ、一本の黄色い柱となろうとしていた。
ミカンせいじんは、バーゲンに殺到する猛獣オバタリアンのようにわめ
き、罵りながら、丸毛を食べはじめた。丸毛の心に幾重にも巻きつき、ず
ぶずぶに自我を肥大させ、腐らせている邪悪な皮。それを一枚一枚喰いち
ぎりながら、剥いでいくのである。
「まあ、面の皮の厚いこと」「まあ、情の薄いこと」「まあ、胆の小さ
いこと」「まあ、無神経なこと」「まあ、恥知らずなこと」「まあ、反省
のないこと」「まあ、口先ばかりなこと」「まあ、都合のいいこと」「ま
あ、牛のにおいの臭いこと」「まあ、権力欲の強いこと」「まあ、猜疑心
の強いこと」「まあ、狡猾なこと」「まあ、器の小さいこと」「まあ、二
枚舌なこと」「まあ、非常識なこと」「まあ、好色なこと」「まあ、誠意
のないこと」「まあ、愛人どっぷりなこと」「まあ、嘘つきなこと」「ま
あ、見栄っぱりなこと」「まあ、ほんに今日はいい潮干狩り日和で」
小一時間したころ、「あった、あった。未完成人が見えるぞ」という声
がした。とうとう未完成人のありかを探り当てたのだった。
ミカンせいじんたちは、集中的に声のした部分を剥いでいった。丸毛の
意識が最後の力をふりしぼって激しく抵抗する。ミカンせいじんたちは、
思いもよらぬ抵抗にいささかたじろいだが、すぐさま突破口を見出した。
丸毛から娘の記憶を剥いでいったのである。「それだけは、やめてくれ」
丸毛の意識は哀願したが、ミカンせいじんに情はなかった。娘の記憶、そ
の最後の一片が剥がれ、ミカンせいじんに喰われたとき、丸毛の意識はは
じけ、消滅した。
「そっと、そっと。大事にな」傷をつけないように慎重に作業を進め、
ようやく丸毛の未完成人を掘りだすことに成功する。
それは、まだ小さく、目も開いているかどうか定かではない、赤ん坊の
ミカンせいじんだった。少し弱々しかったが、それだけに初夏の北海道、
どこまでも広がるあの空のように、澄みきったピュアな感じがした。
「おうおう、苦しかったろう」「つらかったろうねえ、こんなところに
閉じ込められて」「長かっただろう。でももうわしらが来たから」「そう
そう。もう安心していいわよ。あたしたちと一緒に暮らせるから」「そう
とも。おれのような立派なミカンせいじんになるんだぞ」
ミカンせいじんたちは、口々に救出した未完成人に声をかけた。そうや
って励ましながら、まるで御神体のように未完成人を頭上にかかげ、スタ
ジアムを練り歩く。圧倒的な熱狂がスタジアムを包み、ゆるがしていた。
上空から見ると、未完成人を中心にした黄色い台風が、迷走しながらも
スタジアムを、ホームベース付近の特設ステージからセンター後方へと、
横切っていくかのようだった。未完成人はちょうど台風の目にあたるのだ
った。
しばし練り歩いたミカンせいじんたちは、未完成人をどこかへと運び去
ろうとしていた。スタジアムを覆った熱狂が、いま目の前を通り過ぎてい
く。押し寄せた津波が沖に引くように、ミカンせいじんたちの姿は、やが
てスタジアムから消えていった。静寂が戻ってくる。
巨大な力の奔流に洗い流されたスタジアムには、人影はひとつも残って
いなかった。だが、ただひとつ、丸毛の形をした虚無だけが残されていた。
初出
「めいきんぐスクリーンセーバー ミカンせいじんの恐怖/誕生/しんりゃく」
(ビレッジセンター)'94年6月
Copyright (c) 中村 正三郎(Shozaburo Nakamura)