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−南京大虐殺問題−

  最近、いろいろなところで、南京大虐殺についての議論がなされている。
中国は大虐殺による被害者数は30万人だと言い、一部の日本人は、
被害者数は数千人なのではないかという。
そして多くの日本人は、そういう面倒くさそうな話題には無関心である。
考えようともしない。
  しかし、南京大虐殺問題を含め、第二次世界大戦について、「前の世代がやったことだから、
自分たちには関係ない」などといっていて済む問題ではない。
まだたった50年しか経っていないのだ。
日本を含め、アジア各地に、そして多くの人々の心の中に、戦争の傷跡が生々しく残っている。
  つたない文章だが、私は少々考えるところを述べたいと思う。


−兵士たちの名誉−

  南京大虐殺や、従軍慰安婦などに関して、なるべく「日本軍は悪いことをしていない」と
言いたがる人々がいる。
そういう人々は大抵、「日本軍があまり悪いことをしていない」と言うことが、
「日本軍兵士の名誉」であると思っている。
  しかし、私はそうは思わない。
彼ら兵士も、「兵」であるまえに「一人の人間」であったはずだからだ。
家族も、恋人もいる、一人の若者だったはずだからだ。
彼らは見せかけの「名誉」なんかより、「青春」を取り戻したいのではないか?
戦争によって真っ黒に塗りつぶされてしまった、「平和で希望に満ちた日々」を!
  しかし、その願望は、もはや果たされることはない。
だからといって、相手と自らの過去の傷を、偽り、浅く見せることが「名誉」なのか?  否!
彼ら兵士を含め、人々の、戦争によって受けた想像を絶する苦しみは、
その後の「平和の礎」となってこそ、最大に報われ、最高の「名誉」と
なるのではないだろうか。


−「平和念仏教」に堕してはならない−

  戦争の犠牲となった人たちの苦しみを、「平和の礎」にするとはどういうことだろうか。
それは、二度と戦争を起こさないために、努力していくことであると思う。
そのために必要なことは
戦争の悲惨さを伝えること
南京大虐殺でなくなった人がたとえ数千人だったとしても、それはあまり意味をなさない。
大事なことは、戦争が全てを狂わし、無差別虐殺という暴挙を行わせた、ということである。
まず、「戦争」を憎む心を伝え、育てなければならない。
「なぜ」を追求すること
なぜあの戦争が起きてしまったのか、なぜ偏狭なナショナリズムの渦に日本が飲み
込まれてしまったのか、今はほとんど議論されていない。
この点こそ、今、最も欠落している視点である。
この視点の欠落がある限り、常に日本は軍国化の危険を帯び、
アジア諸国から信頼を勝ち取ることは出来ないであろう。
今の日本は、全く安心して見ていることが出来ないのである。

といったことであろう。その上で、「具体的な行動」に移していくことである。
そのとき初めて、戦争の犠牲者たちは「平和の礎」となり、その「死」は「無駄」ではなくなるだろう。
結果的に後の世代の命を守ることになるからである。彼らの「死」が無駄であったかどうかは、
私たち後の世代の行動で決まってしまう。
  ここで注意したいのは、ただ「平和が一番」「戦争は嫌い」と言っているだけでは、
「平和念仏教」である、ということである。それでは何も変えることは出来ない。
いてもいなくても同じである。「平和」は(当然非暴力で)戦い、勝ち取るものなのだ。
私たち一人一人が、不屈の信念を持った平和の闘士となる

ことが、戦争の犠牲者たちに対する最大の供養なのである


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