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−はじめに−

 今、教科書問題などを通し、日本が犯した「侵略」の罪を、小さく見せようと
する人々が一部にいます。
(個々の問題に限定していくと、史実があやふやな部分があることも事実のようですが、
誇張をされてしまうようなことをしてしまった、ということに過ぎないように思います。)
彼らは、なんのためにそうするのでしょうか。
いろいろな「目的」があると思うのですが、私の知る限り、それは……
1.日本が謝罪することで、外交的に日本が不利になるから
2.「日本が過ちを犯した」と言うことは、おじいさんたちをいじめることになる
3.「日本が過ちを犯した」と認めることが、日本人から誇りを奪うから
4.自分の愛する日本を「極悪人の国」のように言われるのが許せない
5.そもそも、自分の国を「過ちを犯した国」だと思いたくない
等々です。


−1.について−

 私は政治や外交を専門的に勉強したことがないので、はっきりとした論証を
示すことはできないのですが、大臣などが
「日本も悪いこともしたがいいこともした」といった発言をしたときこそ、
日本と近隣諸国との関係が険悪になってきたように思います。
また、1995年の首相談話で「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを
表明」しているわけですから、これを覆すような言論は、かえって他の国に
不信感を持たせることになってしまうように思います。
それは外交上、また、安全保障上、「得」ではないように思います。


−2.について−

 ご存命の方、戦死された方々、そして戦争で辛酸をなめた全ての方々の「痛み」は、
「平和への礎」となってこそ、本当の意味、価値を持つはずだ、というのが
私の信念であり、確信です。
日本の過去の過ちから目を背ける、ということは、
「戦争がいかに人間を狂わせるか」ということから目を背けるということであり、
そこに「戦争を憎む心」「平和を求める心」は育まれないと思います。
逆に、本当に「戦争をなくしたい」という気持ちに立てば、戦争を体験した世代を
個人的に責める、などということはせず、何が彼らを狂わせたのかを真摯に
追い求めようとするはずです。
そこに「いじめ」などという概念が存在するはずもありません。


−3.について−

 一部の人々は、「日本が過ちを犯した」と認める(教える)ことが、
日本人から誇りや自信を奪うといいます。
しかし、「侵略」という「悪」から必死に目を背け、
「自分の国は大したものだ」と言い続けるところに、丈夫の威風などはなく、
あるのは矮小で歪んだ傲慢な心でしかないと思います。
『孟子』に、
「古(いにしえ)の君子は、過(あやま)てば則ち之を改め、今の君子は、
過てば則ち之に順(したが)う。古の君子は、其の過(あやまつ)や日月の食の如く、
民皆之を見、其の更(あらた)むるに及ぶや、民皆之を仰ぐ。
今の君子は、豈(あに)従(ただ)に之に順うのみならんや、又従りて之に辞を為す」
とあります。
孟子のいう「古の君子」とは、昔の理想の大丈夫を指し、
「今の君子」とは、高位に居ながら人品劣る当時の著名人を指しています。
過ちを死んでも認めず、屁理屈をこねてごまかそうとすることは、
「誇り」などにはつながらず、ますます名誉に泥を塗るだけなのではないでしょうか。

 そして何より、侵略を受けて苦しんだ人々の心を無視することを教える危険があります。
「相手の痛みを理解できない。しない。」
これはまさに、「いじめ」の問題の根の1つであり、
これを教育が増長することになってしまうのではないでしょうか。


−4.5.について−

 どんな国も、多かれ少なかれ負の歴史、あるいは現在の問題を抱えています。
大切なのは、それに拘泥することではなく、それを踏まえた上で、
いかに未来を明るくし、過ちを繰り返さないか、なのではないでしょうか。
ここでいう「踏まえる」とは、過ちから目を背けることでもなければ、
卑下することでもありません。
「過ち」や「痛み」を、一人一人の心の中の「平和への砦」にしてゆくことです。


以上、長々と書いてしまいましたが、私が戦争について書くのは、
日本が嫌いだからではありません。
「戦争」が憎いからです。
そして、21世紀、日本が今よりもっと輝いていてほしいからです。

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