「この国の『3つの過剰解消』と 

                 『景気回復』のイメージ」 (歯痒末説 ver35.1)

 前回の末説では 定量的な物言いで、イメージが 掴みにくかったと思いますので、今回は 

出来るだけ定性的な表し方で、(場合によって 数値抜きになるかもしれませんが)これからの

日本の財政再建と 景気回復への手の付け方を述べてみます。     《末説一覧へもどる》

 

 「3つの過剰」は もちろん「雇用・設備・債務」です。過剰な雇用については 国民を海に棄

てる訳にも行きませんから、道は一つ 生産量(付加価値額)を増やす外は無いのです。個々

の企業の首切りを 禁止する法律は無いし、緊急避難として行なうことは 安さんも認めない

訳ではありません。しかしこの頃のように 市場競争の原理や自己責任の名のもとに、弱者に

経済的負担を シワ寄せしたり、「企業は株主のモノ」という論理で リストラという言葉で正当

化したツモリになって、臆面も無く従業員の首を切る姿勢は 絶対に許されないことです。

 

 市場競争は必要ですが もっとウマイ遣り方があるし、「企業は株主のモノ」という論理でも 

イキナリ従業員の首を切るのが最善・最高の方法では無いということです。少しは 済まなそ

うな顔でもするのならばトモカク、自分の知恵の低さや 見通しの悪かったことを棚に上げて、

ただ 原価項目のツジツマを合わせ、首切りそのものも 中間管理職に圧力を掛けて、自分は

手を汚さずに ヤラセルだけという態度はズルイと思います。学問的に言っても 「企業は株主

のモノ」という学説の外に、「所有権のみを重視するのでなく その活動の場(社会への影響・

社会からの恩恵)との関係を認めて、(従業員や取引先を含む)利害関係者や企業の環境(対

境)への 社会性責任・公益性責任・公共性責任を重視すべきだとする学説」もあるのです。

 

 つまり雇用の過剰性については 「過剰な雇用は (企業単位では在っても 国としては)無

い、いや 在ってはならない」と考えるのです。そうすれば 考える方向は、その内の働ける人

(就業人口)を基準に 働けない人を養うことを含めて、どのくらいの産出付加価値が必要かが

推定できます。基本的にはまず 外国人労働者に依存せずに、日本人だけでの需給を考えて

みます。それで 就業人口が足りない場合には、「コチラから 外国人労働者をお願いする」こ

とに なりますし、一応 労働力については、余裕を持って 国内で賄えるということなら、「外

国人労働者を受け入れるためには どのくらいの 産出付加価値の増加が必要か」を考え、そ

の産出付加価値を捌くのに どのくらいの(例えば)輸出等の上乗せ分が必要になるか等の、

受け入れの 条件造りに問題を絞ることができるのです。

 

 ということで 過剰な雇用はプラス発想で肚を括ることにすると、次ぎは 過剰な債務の肚の

括り方です。安さんなどは 若い時に「借金ができるということは 信用があるということだ」と

教わって実感がありましたので、イキナリ債務が悪い 無借金経営が理想だと言われても納

得出来ないものがあります。まずキチンと 「過剰債務」の定義をして貰いたくなるのです。

 投資をしても それに見合う産出(付加価値)があれば、債務を増やしても レバレッジ(梃子)

で元金を借入れ金利以上増やせれば、「債務を増やさないヤツの方がバカ」 ということになり

ますから、結局債務は 「債務それ自体が悪い」のでは無くて、「利息を払って元金を返済して 

元が取れないような企業の活動情況」が悪い ことになります。

 

 過剰な債務の対策は 金融(証券)問題の整理過程の事例のように、結局は その時点で

の収益体質に応じて、それ以上 利息が増えない手立てを講じることと、不足する転がしの資

金を測定して 最小限に補給してやることであったように、当面策は 製造業においても同じこ

とです。ただ 金融機関と製造業との相違点は、金融機関は 自分では何も造れず、製造業

の可能性を判定して金を貸してやり 元金と利息をキチンと回収するのが本領であることです。

その過程で一番難しいのは その「製造業の 可能性の判定」ですが、今の金融機関は その

日本の産業の基礎を築くのに不可欠な「判定業務」を見限り バクチ場と化した証券市場に色

目を使い、それも取り引き手数料では飽き足らずに 運用(バクチそのもの)の儲けをカスッて

食うことを考え始めているようです。

 

 これは詰まる処 「製造業は 自分の可能性は自分で証明」しなければならず、「自社の債務

の適正か過剰かも 自身で判定」し 「企業の活動(債務返済)目標を立て それを着実に実

現」して行かねばならないということです。当たり前のことですが これをただ「一生懸命に 遣

ります」というだけでなく、具体的で可能な 手順にして行くためには、キチンとした 誰が見て

も納得できる「尺度と 手順」が必要になります。

 そこで 過剰な設備の考え方が重要な意味を持ってきます。それは 設備の過剰性が客観

的に判定でき説明できれば、債務の過剰性も 同時に説明できるからです。設備の過剰性に

ついては その企業の受注力(価値付加活動の 可能性)を基準にして判定します。そしてそ

の設備の過剰性の判定には 基本投入費原理が役に立つのです。

 

 日本への 労働生産性の考え方の導入は、安さんの知る限り 第2次世界大戦後に日本に

紹介された アレン・W・ラッカーの「生産分配の法則」から始まっています。それは ラッカー

が、1899〜1929の 30年間のアメリカの製造工業統計を解析し、年間賃金総額が 年間

生産(付加)価値総額に「比例して変動」(相関 : 一定の比例率で 水準が変化)していること

から、「産業復興の鍵」「生産性に比例した賃金制度」「労働者の富裕に至る道」等の 論文を

発表したのを受けたものです。日本では 元日経連の専務理事の故松崎芳伸氏が、これを 

「生産性基準原理」として提唱し、労使の交渉の場に 理論的根拠として導入し、賃金抑制を

主導しながら 労使協調路線を構築するのに使いました。[ 今坂朔久著 「付加価値生産性と

成果配分:実践 ラッカー・プランを中心にして」, 日本経済新聞, による ]

 

 この生産性基準原理は その後、その根拠となった 相関(比例的な関係)の意味が再確

認されないまま、今も 日経連から各経営者協会などに配布される経営指針(○○年 労使交

渉の手引き)に、基本理念として 残っています。しかし問題は その相関を保って来たための

影響です。つまり 第2次大戦後から最近に至る、日本の 生産価値総額 対 給与総額の比率

(=労働生産性)を調べてみると、その相関は良いのですが それを長期に維持してきた(相

関を保ってきた)ために、今度は その「生産価値と給与の相関の比率」である 労働生産性

と、経営目的の経営資本利益率との関係(相関)が 無くなってしまったのです。

 

 ラッカーが調べたのは アメリカの過去の30年間のデータでしたから、前記の発見した相関

は (相関を良くしよう というような意図など持た無い)昔の経営者が、まず 自分の企業の「採

算」を確保した上で行なった「成果配分の 結果」でした。ということは 「採算」を経営資本利益

率で表すとすれば、「始めに 経営資本利益率を確保し、それから その時点での銀行金利を

超える妥当な配当引当て額を留保し、残りの余剰額を 消費者予備軍でもある従業員に配分

した」と考えるのが妥当でしょう。その結果 賃金総額と生産価値総額が相関していたというこ

とは、これを 両者に共通する就業人員で除してみると、一人当たり賃金と 一人当たり生産

価値(=労働生産性)に相関があるとことになります。これは「当時の」マクロの農業や IEの

基礎研究に使われた煉瓦積み作業、あるいは 自動車産業に代表される組立型製造業等の

イメージに、実に素直に矛盾無く適合し 当時のアメリカの賃金の性格が見えてくるのです。

 

 それは 感覚的には、成果配分というより「後払いの賃金」 あるいは「後払いのコスト(つま

り 後払いの比例費)」であったかも知れません。とにかく 労働賃金と生産価値が比例(相関)

するのは当たり前で、労働生産性が経営資本利益率に相関することも何の疑問も無かったの

です。これに対し 第2次大戦後の日本では、「まず(企業の採算が 悪くても)前提を 「生産価

値と給与額の 比例的関係〔のみを考え 設備投資(機械化)効果を無視した姿勢〕をベースに

して交渉する」 こととして、労使が 話し合って来たのですから、押したり引いたりはあっても 

結局は、付加価値計算には インフレ分が吸収され、機械化による(計算上の)労働生産性向

上は 疑われることも無く(交渉は 「話しは判るが 原資《金》が無い」「イヤ 在る筈だ」という

点のみに絞られて)、1950年代後半(昭和30年頃)から 労働生産性と経営資本利益率と

の比例関係(相関)が無くなり、怪我の功名で 消費は刺激されましたが、次第に労働側に 

過剰配分気味になって行ったのです。

 

 1950年代後半(昭和30年頃)からは 日本の機械化(当時は省力化と言う名の 省人化・

自動化)が進んだ時期でした。この頃には 経営者は専ら投資(機械化)をして現場の頭数を

減らしました。、現場は減員しても まだ他に仕事があった時期なので、削減人員は 退職で

なく配置転換で済みましたが、「残った人間は テレビを見てボタンを押すダケ」の仕事で楽に

なったのに、労働生産性向上で 褒められて給料が上がり、本質的に機械化デキナイ  非繰

り返し性で高度の技能の要る仕事の保全職種や、配置転換で 新技術・新技能・新人間関係

への適応で苦労する配置転換者は、仕事で苦労して 労働生産性が低いと叱られ、給料はオ

ナサケで 最下位に甘んじる、あるいはイッソこんなに生産性の低い職種は 別会社か外注

化してしまえということで、今なら 一番付加価値の高いの稼ぎ手となる、(良い意味での)人

間的な判断が不可欠な仕事が ドンドン外部に流出してしまいました。安さんが 生産性の研

究を始めたのは、この事態に反発し 肚を立ててのことでしたが、それは こでは休題。

 

 基本投入費原理へ入るために、労働生産性から 話しを始めましたが、今は 前記の経緯

の技術革新による 大量生産・大量消費(廃棄)時代から、資源をセーブし 地球環境を守る

ための循環型経済への移行が叫ばれる時代になりました。

 経営の理念などというものは そう軽々には変わって貰いたくないのですが、人間には誤り

があり 見通しには限度がありますから、タイム・コンプレッションで 商品も生活パターンも流

動する時代には、経営の理念(筋道と姿)にも 変化が起ります。しかし 経営上の意思決定

の尺度については、極力 その流動を超えてどんな時代をも包括できるものでなければなりま

せん。具体的に 言えば、例えば 前記のこれまで評価的には無視された「機械化」は、雇用

とはまた別種の 技術的なリードタイムが必要な先行投資ですが、その評価尺度が 10年〜

20年で変わったのでは、尺度は無いに等しく そういう尺度を使うことの弊害の方が大きくなり

ます。こういう 変化の時代こそ 特に汎用的で不易の、経営上の意思決定の尺度が望まれる

訳ですが 基本投入費原理にはそのヒントがあったのです。

 

 基本投入費原理の要点は 本論にもあるように、@「産出付加価値と 基本投入費(=設備

費+労務費)の高い相関」 A「その産出/投入比率である 総合生産性指標(=付加価値/

基本投入費)と 経営資本利益率の高い相関」、そしてB「基本投入費を除いた その他の各

投入経費が、それぞれ 基本投入費の、設備費か労務費に 比例的に発生している」ことです。

ここで 最後の比例的の「的」は、直体制や可動時間に左右されることを意味しています。

 

 これだけのことが判ると やっと設備の過剰性を定義することができます。

 「過剰な設備」とは: 「現在籍従業員」(国なら 国民全体が)食える最低付加価値総額 →

(基本投入費原理で)許容基本投入費を逆算 → 「現在籍従業員+α(操業予定水準−損益

分岐水準)」の(国なら 余裕を見た就業人口の)労務費を控除 → 「許容設備費」 を算出し、こ

れを 現有設備費から控除すれば、

  「現有設備費」 − 「許容設備費」 = 「過剰設備費」   が出ます。

       (注)ここでの「過剰設備費」は 期間当りの費用ですから、総額(取得額や

         簿価)を算出するには 更にこれから逆算し復元します。

 この算出は 基礎データが蓄積されれば、そんなに 難しいことではありません。算出する

のが望ましいのですが もしそれが現時点で出来ないなら、前記の考え方を 実感を持てるよ

うに感じてみるだけでも効果があります。そうすれば 数字的に把握できなくても、仕事の種類

の整理や転換などの (戦術の「どう やるか」に対し 「何を やるか」の)戦略ぐらいは考え出せ

るからです。

 

 この過剰設備費を算出するには いくつかの、整理しておかなければならない 問題があり

ます。次に その主なものを挙げておきましょう。

 

@ 景気は 基本投入費原理の総合生産性指標の分子・分母の循環という認識

 景気の指標に付いては 主観的な指標が重視される傾向がありますが、国の規模で 客観

的に算出できる数値の方が望ましいことは言うまでもありません。まだ論理の段階ですが 基

本投入費原理によれば、「景気」は 総合生産性指標(IPI)の、分子の産出付加価値の 分母

の基本投入費(設備費+労務費)への、配分・消費の循環率として 次のように考えます。

-------------------------------------------------------------------------

 (A) → 〔Σ(産出付加価値)/(Σ{前年・資本(設備)側 配分額×a }+

                             Σ{前年・従業(労働)側 配分額×b }〕 or

 (B) → 〔{Σ(各企業の 産出付加価値)の伸率 }× {Σ(各個人の 可処分所得)の伸率 }〕

-------------------------------------------------------------------------

*(A)項は 再生産率であり、a は 再投資(「実績」「留保」または「引当て」)率である。また

  b は 消費性向(比率)で、所得に占める 消費の割合である。実数値が累計できれば そ

  れぞれ  の「a」も「b」も不要である。

*(B)項は 成長刺激率で、前項が いわゆる成長率、後項が 生活余裕率で、後項は前項

  の原因になる要素だが 積の形にして敏感化した。

*(A)項と (B)項は、一応 「or」で考えたが、積 「×」にすることも 考えられる。

*以上の指標は 単年度の外に、2・3・5年等の 移動累計値で算出してみることが望ましい。

*また この指標は、あくまで 景気の好転と継続の構造を示すものである。最終的に景気が 

需要側と供給側の、ニーズ・シーズの 噛み合い内容に依存するのは言うまでもないし、供給

(提案)側の知恵や努力が足りなければ 景気が立ち上がらないことも充分に考えられる。

 

 とにかく こういう考え方で、データを採り始めることが重要です。安さんの場合には 入手で

きるデータが 総務庁統計局編,大蔵省印刷局・日本統計協会発行,の 「日本の統計」ぐら

いしか無いので、類似の試算すら できないでいます。それでも こういう数値算出の枠組みを

考えることで、何が現在必要な 施策の要点かが見えてきます。それが 重要なのです。

 

A マクロに考える場合に 「製造業」に含める業種について

 安さんは 本論の「安さんの 世の中の見方」 (些論 ver1.2)」で、「製造業の付加価値を GNP

(国民総生産)の1/4以下に低下させることができ」 残りの「3/4を 製造業外の業種で分け合

って」いると述べました。この場合のマクロの製造業とは 「建設業と製造業(*1)」 その他の

業種は大きい意味の「サービス業(*2)」と考えています。

     (*1)中小企業庁編・中小企業診断協会発行・同友館発売

                         「中小企業の経営指標・同 原価指標」による

     (*2)サービス業は 「所有権の移転を伴わない 取り引き」である

      (注)不動産業は 前記(同前資料の)統計分類上はサービス業だが、

                所有権の移転を伴うことからは 例外的なサービス業になる

 ここで 景気に関連する問題で重要なのは、標記の「製造業」の 生産性の問題です。日本

では 1955年(昭和30年)に日本生産性本部が出来た時に、「今後 生産性と言えば、特に

断わらない限り 労働生産性を指すものとする」ことになっています。ここでは 前記の総合生

産性指標(IPI)の意味で、製造業の総合生産性を高く維持・向上できなければ、サービス業種

に配分される付加価値までが低減し 景気の第一線が沈滞し始める恐れが問題なのです。

 IT革命などと言われますが 内容的には「経済のサービス化」に重点があるようで、アメリカ

などでも モノを造るトラディショナル・エコノミーの方は、経済成長がゼロに近いことが 報告さ

れています。もう少し 伝統的で手応えがある、経済の基礎部分の 伝統的な「製造業」に焦

点を当てて、製造業もまた 新時代に適応できるように仕立て直す必要があることを考え、製

造業の沈滞を破って 連続的に革新(改善・改良・改革)を積み重ねる必要があるのです。

 

B 消費過程(生活)での耐乏と

            生産過程(仕事)での高生産性の達成 とサービス業種への配分

 前段の 説明のように、「3つの過剰」に付いて 構造と解決への着手の切り口が判っても、

今回の不況が単なる不況で無く バブルの崩壊で経済規模が縮むことを、同時に 克服すると

いう難しい問題が残っています。経済規模の縮小は 平均的には20〜30%が予想されてい

ますが、業種によっては 50%にも及ぶ縮小が必要で、そのシワ寄せを集中的に受ければ

相当な規模の企業でも経営が難しくなるし、国民の各人も 消費しなければ不況が続くし、耐

乏しなければ 生活が赤字になるという、銘々が 横を見ては暮らせない「自己判断・自己責

任の時代」になって来たのです。

 

 具体的には 昔、池田首相が顰蹙を買ったが 真実を衝いた名言、「貧乏人は 麦を食え」

や「所得倍増」を 別の形で、今度は 公害や環境破壊ヌキで実現しなければならない時代が

また来たのです。モノが無い時代の我慢は できないものでもありませんが、モノが有り余る時

代に 自分だけが我慢することには、強い 精神力が必要です。時間は取り戻せませんし 景

気を悪く循環させてもイケませんから、我慢や耐乏も 消費そのものをシナイのでなく、質で工

夫して 消費は行なうようにし、 まず生産性から高め 収入に応じて消費の質を改善するよう

な、多様な生活設計ができるのが 今回の耐乏生活の特徴なのです。

 

 サービス業種の不況対策の重点は 単なる廉売やイベントによりも、顧客一般あるいは階

層別の 「ニーズ」の把握と商品化企画にあります。これに対し 製造業の不況対策は、自身

の技術的な「シーズ」の開発と商品化提案にあることは言うまでもないのですが、問題は そ

の価格(コスト)です。今 日本が不況から脱出するために、製造業が生産性を上げなくてはな

らないというのは、直接に「ミイリを 多くしろ」と 言うのではありません。それは 逆に、生産性

の向上で 売値が下がり、収入は 減る恐れすらあるくらいです。それでも 製造業のそういう

行動は、製品(商品)の限界消費性向を 高めるように働きます。国全体では 経済の循環が

高まり、税収が増え 国の借金も減ります。その間 製造業は 「貧乏人は 麦を食え」です。

 

 これを マクロの視点から見れば、こう なります。まず 製品から見れば、「消費者の手に

渡る時点での 価格」から 「製造業が仕入れた 外部(からの)購入費」を差し引いた金額が

「全 付加価値」です。これに対する 「製造業がサービス(流通)業に引き渡す価格」は、不況

で現状維持がヤットですから、製造業の付加価値(≒粗利)は 変わりません。同様に サービ

ス業にも、原則的には 付加価値は増やしたくないのですが、 多少はウマ味がないと 人も

集まらずサービス化も進みませんから、ここへ(製造業が 生産性向上で生み出した)付加価

値を 少し配分します。そして残りの付加価値の大部分が 消費者に渡ることになれば、限界

消費性向(前段で言った 収入が増えたら余計に売れる量の、単位増加に対する 値)が大き

くなり、製造業に 「売り上げ 増加」の形で反映されて、良い経済の循環が 始まるのです。

 

 この過程は基本的に 市場の自由競争を通じて行なうことになりますが、政治家と官僚に自

信があれば 明日からでも「強制的な 統制経済」で出来ることです。「我慢や耐乏」の生活

いうのは ココで、国民の銘々が 生産・サービス者としては「儲けるのを 我慢」し、同じく消費

者としては 「貧乏人は麦を食え」で「質的な調整を行ないながら 消費に励む」という、日本な

らではの (平成元禄指向の)体力蓄積の時代に入る訳です。余談になりますが こうやって

見ると、古臭く これからの時代に合わないように言われた「日本的経営」の(≒)完全雇用が、

新鮮に見えてくるから 不思議なものです。目的が 「日本国民が他に迷惑を掛けないように 

存続する」ことにあるならば、もう一度 競争と淘汰の機能をビルトインした「日本的経営」を提

案し、試行によって よい結果を出し、世の中の蒙を 啓いてみたい気もします。 

 

 製造業へ もう一言、こういう不況期に 製造業の工場で起る現象は「ヒマだから ユックリ

造ろう」という態度です。これは大変に危険な兆候で イザ忙しくなったというときに即時に立

ち上がれないだけでなく、日本の企業の悪癖である「売値は コスト+X」の罠に落ち込んで、

顧客に 自社のアソビ時間を売り始めることになるのです。あくまで 生産に当っては正常なペ

ースで作業を行ない、仕事が無ければ 改善活動でも、職場の清掃でも キャッチボールをし

ていても良いのです。商品(製品)の売値は 「コスト+X」では無く、常に 「他社の売値−Y」

で無ければならず、その「売り支え 感覚」が 企業を伸ばし日本経済を再生させるのです。

 

C 基本投入費原理に必要な 標準指標の確立・普及とバックデータの蓄積開始  

 前項の施策を行なう場合に 重要なことは、ある情況を造り出すだけなら 強制的な統制で

も出来ますが、それを 継続的にコロガシて行くとなると、企業あるいは国民の銘々が リアル

な報告数値によって動機付けられる仕組みが不可欠になります。

 最近も GDP(国内総生産)統計操作の疑いが、国外から指摘され 問題になりましたが、

安さんはその真偽よりも この疑問について国内から何の目立った意見も出なかったことに、

大きな問題を 感じています。つまり 本気でデータを見ている人も居ないし、経済企画庁の発

表を基に意思決定をしている経営者など居ないのではないか という疑いです。

 

 尤もアメリカにしても 騒いでいるのは投機(バクチ)資金の代弁者であって、そちらの方がビ

ビルなら 大いに「御都合主義の データ操作」も面白いと思う位です。しかし 真面目に「在る

べき姿」を考えるなら、日本でも 個々の企業の戦略策定に、こういう数値が 活用されうよう

にしたいものです。もしそれに ウソや誤りがあったら、政府を相手に訴訟が起る位に使い込

まれるべきなのです。そういう観点からすれば これも動機は同じようなものですが、アメリカ

商務省が 1997年頃からのIT革命の動向に反応して、@インターネットが どういう目的でど

のくらい使われているかということ AIT革命とアメリカ経済の関係を解析して 年次報告の「デ

ジタル・エコノミー」に発表する、という2つのことを 国民に宣言したのは立派でした。数値と

いうものは こう扱ってこそ、責任も明確になるし 内容も厳正なものが蓄積されるのです。

 

 基本投入費原理も まだ周知されておらず、企業の数値は ウオール以来の(金を 貸す側

の)財務比率一辺倒で、基本投入費原理向きの 数値を造ろうとすると、各種の資料の仕訳

や集計の不整合に いつもジレッタイ思いをさせられます。もしこの基本投入費原理の有効性

を認めるならば 最初に為すべきことは、基本投入費把握のための 「仕訳と集計の 標準化」

を行い、当分の間は(目的が違いますが 比較解析のためにも)在来財務データと併行して 

基本投入費原理関係のバック・データの蓄積を行なうことなのです。

 

 基本投入費原理の展開について もう少し具体的に言えば、ある特定の企業の時系列解析

を行なう場合には その企業だけの問題ですから(仕訳・集計の 遣り直しで)ある程度は理論

に近い形で作成することができます。しかしそれを 他企業のデータと突き合せて、ベンチマー

キングでも 行なおうということになると、要素費用間の相関の低下を 承知の上で、入手でき

る在来型の仕訳・集計のデータを そのまま使うことになります。

 個々の企業の場合の詳細は ここには尽くせませんが、例えば 付加価値の算出一つをとっ

ても、(控除型で 算出する場合)「付加価値=売上高−外部購入高」の 購入高が低下した

場合、妥当な競争や低減努力の成果か 苦し紛れのダンピングかが区別できなければ、その

後の 戦略・戦術の立てようが無くなります。

 

D 必須で個性的な 「COM(機械化係数)の低い仕事(生産品)」の開発・革新の継続

 過剰設備費の算出過程や @Aでも述べたように、今後の日本は 製造業が生産性を上げ、

その向上分の付加価値を 以降のサービス業や最終消費者に配分しなければなりません。し

かしその生産性の向上分は 「過剰な雇用」の個所で肚を括った時の、産出付加価値で予定

した製品(商品)とは、違った種類の製品であることが 望ましいのです。

 在来の製品ですら 産出付加価値で予定しただけ売れる保証は無いのですから、これから

の日本が 世界の中で製品販売面や労働需給面で強い立場に立つには、まず 生産品の面

でCOM(機械化係数)の低い、言い換えれば「必ず必要で 日本でなければ出来ない、どうし

ても 人手に依る必要のある生産品目」の 開発(判っていることの 新しい組み合わせ)か研

究(未知のことの 発見・創造)を行なわなければならないのです。

 

 具体的には 最終消費財の生産そのものでなく、その最終消費財を造る機械の設計・生産

や 開発・研究やその研究部材、あるいは試作品生産やテスト方法の開発 その他販売ソフト

や生活スタイルの提案、医療・介護のソフト・ハードから 農業法人等のソフト・ハードのバック

・アップ等々、既に 一部着手されているものもありますが、この種の革新が進み そのノウハ

ウを日本が握ることが出来れば、日本の未来は 飛躍的に明るいものになります。

 

 怖いのは 先入観で、「技術で 生きる」「IT革命だ]などというと つい機械化係数の高いプ

ロセスをイメージして 目標を設定してしまうことです。世の中は 自動機で洋服が縫えても、モ

ノさえ特徴のある高品質水準に造れれば 手縫いの方が格が上で高付加価値が認められま

す。モノ余りの時代には 大量生産の恩恵が行き渡ったトタンに、二極分化の生産・消費に 

入って行きます。これからの日本の耐乏生活は 生産面では高級化指向の局面を受け持ち、

消費面では大衆的な大量生産品で暮らす処から始めて、次第に 消費面も高級化を狙うこと

になる筈です。これらのことは 口では言っても容易に出来ることではありませんが、「思わな

ければ モノゴトは実現しない」ものです。イメージさえ適確に描ければ 今打たなければなら

ない手は見えてきます。そのために 「どう 思えば良いのか」を提案してみたのですが、貴方

は どのようにお考えですか?。                        《末説一覧へもどる》

-----------------------------------------------------(歯痒末説 ver35.1)-----