(〜初版の文章) 

 私が今日の右翼に期待するのもそのことである。
 以上述べたように、日本の右翼者といわれるほどの者は、いちように、日本の伝統や民族の歴史を尊重し、それらに主体的にかかわっていったが、決して、偏狭固陋でもなく、常に、創造的、発展的であろうとした。人類的規模でものを考え、行動しようとした。
 しかし、他方、彼らに共通する一面として、日本の伝統や民族の歴史をつきはなし、批判してみせるという姿勢が弱かった。つきはなし、批判した後にこそ、真に強い確信が生まれるという自信に欠けていた。それが、人々へのおしつけにもなり、せっかちな要求ともなってあらわれ、人々の中に入っていけない理由でもあった。
 もちろん、維新(革命)を求める右翼者が現代の疎外者であり、現代社会の中に、安住の地を得られないこと自身、それは正しい。維新が実現したことがない以上、彼らが常に少数者であり、彼らには失敗の歴史しかなかったことも当然であろう。だが、右翼にとって、その歴史、その思想は、決して貧弱なものでないはずである。それは、本書も証明している通りである。
 民族の歴史と伝統を大事にし、それをふまえることによって、人々を真に正確に理解し、人々の自由と平和と独立を達成しようとするのが右翼。もしも、右翼が人間を手段化し、維新のために利用するという観点をもち始めたとき、その右翼は、転落し、右翼ではなくなる。
 それは、日本思想と精神が、何よりも、生命を尊び、生命の共存を願うものだからである。

 

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