著作紹介 「親鸞 道元 日蓮」

  

 本来、宗教とは何であったか?仏法とは何であったか?その時代に対決し、反逆者、求道者として生きた三人を通して、人間として生きるということはどういうことか、その答えを提示する書である。

 

      <目 次>

 

 まえがき

序 章 三人の反逆者
   1 反逆者とはなにか
   2 親鸞道元日蓮との出会い

第1章 親鸞
   1 出家   2 反逆   3 法然   4 妻帯   5 流罪  
   6 念仏   7 智慧   8 三願転入   9 悪人正機   10 晩年 
   11 永眠

第2章 道元
   1 素姓   2 修行   3 念仏への絶望   4 宋(中国)
   5 曹洞宗  6 坐禅   7 布教   8 真理   9 仏性
   10 行持   11 礼拝   12 永平寺   13 政治権力   14 死
   15 道元と親鸞

第3章 日蓮
   1 若き日   2 遊学   3 辻説法   4 守護国家論   5 弾圧
   6 禅への批判   7 佐渡流罪 その1   8 佐渡流罪 その2
   9 佐渡流罪 その3   10 法華経    11 漂泊の思い   12 最期
   13 人間平等の思想家

終 章 釈迦とマルクス

親鸞日蓮書簡抄 

略年表

 

         <以下抜粋>

 

「親鸞、道元、日蓮といえば、従来は卓越した宗教家としてとらえるのがほとんどで、思想家としてとらえたものはほとんどない。もしあったとしても、それは宗教家兼思想家であり、思想家というのはあくまで従属的なものであった。しかし、私はいま、彼らをいわゆる宗教家としてとらえるのは誤りで、むしろ思想家そのものとしてとらえなくてはならないという立場をとる。

 仏法そのものは本来知慧の教えとしてあったものが、いつか、祈祷中心となり、信仰中心となり、さらに、偶像中心となり、今日では、いわゆる宗教の一部門としての仏教という狭い位置におしやられて、その真骨頂をゆがめ、多くの人から無縁なものとして存在するようになった。」

「人間が人間として生き、行動するかぎり、だれにも自分の拠りどころとなる人生観、世界観がある。それなしには、一日も生き、行動することはできない。その人生観、世界観を教えようとしたのが、仏法であった。それがいつか、いわゆる宗教の一部門としての仏教の位層に堕し、政治、経済、教育、文学などと併存するものとなったのである。しかし、人生観、世界観としての仏法は政治、経済、教育、文学などの根底となり、基礎になるものである。あってもなくてもよいものではない。仏法を否定することは、人間としての「生」を否定することである。私はいわゆる宗教家を否定しても生きられるような立場から、人間として否定できない普遍的、根源的なものを追求するものとして、思想家そのものとして彼ら三人を考えたいのである。

 それに、当時の仏法は、宗教の一部門としての仏教であるよりは、思想そのものであり、学問そのものであった。仏教としてのみとらえられたのは後世のことである。」

 

「いま一つは、彼らを反逆者としてとらえなおしてみたいのである。従来そういうとらえかたはまったくといっていいほどなかったが、彼らが思想家として、あくまで、真理にたちむかう人であれば、彼らがその時代に生きるということは、既成の価値、倫理、秩序に抵抗して、新しい価値、倫理、秩序を創造することであった。それ以外に生きるということはなかった。」

「大事なのは、彼らの生き方そのものである。」

「彼らの求めた仏法も宗教でなく、人々が生きていくために必要なぎりぎりのもの、それは思想といっていいし、信念といっていい。また、人生観、世界観といってもいいし、「生」そのものだといってもよい。」

「反逆者とは、前時代の価値、秩序、倫理を否定して、新しい価値、秩序、倫理を待望し、実現をはかるものであると考えられている。たしかにそういうことはいえよう。しかし、私はその説明だけでは不満なのである。人々が生きるということを考えたばあい、意識すると杏とにかかわらず、人はすべて、その時代の課題とむかいあって、その解決にとりくむものである。それが人間として生きるということであって、単に存在していることとは、はっきり異なる。しかも、時代の課題は刻々変化している。思想、信念、人生観、世界観が時代とともに発展し、豊かになるのも、そのゆえである。だから、人間が生きるということは、前世代の思想なり、信念なりを克服して生きるということである。前世代の思想、信念そのままに流され、それを踏襲しているということは、単に存在しているだけで、人間として生きてきたとは決していえない。反逆者でなければならない理由である。」

「本来、人間とは反逆者でなければならないのてある。

 私は、反逆者という特別の名称を、あらゆる人のものにもしたいのである。すべての人が反逆者を志さなくてはならないと、強調したいのである。いままでは、あまりにも反逆者でないことがあたりまえと思われすぎてきた。」

「転向ということは、反逆者にとって最大の退廃である。いつの時代にも転向が多いのは、私のための生を生ききろうとしないためである。幸福を求める自分の生を大事にしないからである。転向を拒否する心は自分を大事にし、あくまで反逆者として、その生を尊ぶ心である。」

 

「人間が人間として生きるということは、絶えず時代の課題に直面して生きることであり、時代を刻々に超克していくところにあること、いいかえれば、反逆者として生きるところにあることを知るならば、今日、私たちの考え方は大いに変わってくるであろう。反逆者たることによって、私たちは歴史をおし進め、時代を刻々に前進させることができるのである。

 その場合、私たちはなにが前進であり、なにが進歩であるかということを本当に知らねばならない。早急に思いこむことは恐ろしい。後になって、あれは若気のせいだったとか、あの時は無知であったとかいって弁解することは許されない。そのため、ただ一回かぎりの「生」が狂ってしまうのである。

 親鸞・道元・日蓮にしても、それゆえに長い間かかって模索し、これにまちがいないと思うまで行動はおこしていないのである。それは時に十数年であり、二十数年であった。しかも生命がけで追求して、なおそうであったのである。」

「先述したように、私のとりくんだ三人は、宗教改革者としてでなく、「生」のありよう、世の中のありようを一生をかけて追求し、その追求したものを全存在をかけて実現した人間である。その時代よりみれば、反逆者であり、哲人であるかわからないが、人間だれしも当面している課題を生きてみせた、ごく普通の人間であった。だれにも身近かにある人であった。」

「こうして、親鸞は自分自身の生を求めて、苦悩する人間となっていったのである。人々の救いでなくて、自分自身の救いを真剣に問わざるを得ない人になったのである。このことはひじょうに重要なことである。

 今日、革命家を自称し、他称している者は、多くのばあい、自分自身の生のありようをそっちのけにして、他人のために革命をいう者である。そういう人間こそ、自分のために、革命を必要とする者でなく、また大きな壁にあうと挫折してしまう。ともすれば、自分の考えた革命を人々におしつけたりする。

 大事なのは、自分のために革命を必要とする人である。

 親鸞は自分自身のために、好ましい生、あるべき生を求めたので、人々の師となることを考えなかった。ただ彼のような人々に、自分の生をしめしたにすぎない。それはあくまで、結果としてあったことにすぎない。」

「では、親鸞をこれはど苦しめた彼自身の問題とはなにか。一つは、自分自身のうちにある愛欲の問題をどう考えたらよいかということであり、いま一つは、生きていくということで、生きている魚の生命を奪い、生きている植物の生命を奪わずには生きてゆかれない自分。隣人に対して善かれと思ったことが必ずしも隣人に善いとはかぎらないような自分。悪かれと思ったことが必ずしも悪いとはかぎらないようなことしかできない自分。そのように、煩悩熾烈で破戒無慙の自分をどうしたらよいのかということであった。」

 「法然は声を大にして、生きることに忙しくて、無知なままにおわっている人間、造寺・造仏をやる余裕のない人間こそ、本当のものであるといいきったのである。性欲のままに生きる者こそ最も人間らしい生き方である。

 だが、法然自身妻帯にふみきる人ではなかった。いままでどおり、禁欲の生活をつづけたし、ほかの門人たちも進んで、これまでのいましめであった常識を破る勇気はなかったのである。そのなかでただ一人、親鸞は、その言葉どおり、妻帯にふみきったのである。その言葉の誤りでないことを行動でしめしたのである。そこに、求道者、反逆者の真面目がある。

 だからといって、親鸞にもそれをすぐに実践するということはできなかった。なんといっても、名目上のことといえ、真正面からいままで全知識人、全僧侶がいけないと強調していたことにそむくのである。全国民が常識としていたことに、まともに逆くのである。なにが正しいかというだけの問題ではなくて、そこには、非常の決断が、万人を敵とする覚悟がいった。」

「親鸞は人間は生きている限り、善悪二つのなかで、立ち往生する以外にないとみたのである。人間が容易にこれこそ絶対的善であるといっている殺さない行為にしても、人々は自分が生きるために日々殺すという行ないをくりかえしているのである。人々は善かれと思いながら、他人に悪をなしている。人々が悪をなさないためには、死する以外にない。法然にあうまえの彼は、まったく絶望の人であった。そのままでよいといわれたときの彼の喜び。そこから、彼の信が生まれた。

 親鸞はこの信を易行道とみた。たしかに、その結論だけを信ずることは、多くの戒律をなしながら、そのなかで自分自身、結論をみちびきだすことにくらべると、たやすいようにみえるけれども、その実、信ずることは大変むずかしい。」

「親鸞は死の瞬間まで悩み、悩みの多い人間であった。悩みを悩みつづけた人といっていい。」

「親鸞はあれほど、信を強調しながら、学び、知るということを強調した。学び、知るということにはかぎりがないと思っていたし、信のもとになるのは、学びだと考えていた。

法則すなわち法そのものは、学び追求しても、これでいいということがないと思っていた。」

「法とは宇宙を支配している法則であり、人間を支配している政治的、経済的、社会的法則であり、それらに対して、あるべき法則を追求して、それらに従って生きるものが法なのである。だから法をみきわめることにより、人間は自由でもあるし、解放もされるのである。幸福な生活もできるのである。この法をみきわめたものが仏であり、覚者であり、真の知識人でもあるのである。それ以外に、仏も法もない。普通ともすれば、仏といい、法というとき、なにか特別のものであるかのごとく錯覚している。ここでもう一度、道元のいう仏、法を正確に知ることである。」

「“曹洞宗というのは、その祖といわれる洞山がいえといったものではない。ただ能なし奴が自分を権威づけるためにそういったにすぎない”といっている。彼は禅宗といい、曹洞宗といい、そうした言い方を極力否定した。彼には、法・真理というものしかなかったし、彼のいうところは法の法、真理のなかの真理であったのである。」

「それとともに、道元には、自分の救済よりも他人の救済が先であった。もちろん自分の救済なくして、救済のなんたるかを知らないで、他人を救済することはできないが、志はあくまでも自分よりも他人が先であった。他人を救済せんとする志をおこすことが、永遠の生命を得ることであるともいうのである。

 だからこそ、道元はただ管に打坐して、法を得ることを強調するのである。」

「禅宗といわれ、曹洞宗といわれるのを、全心身で道元は否定したにもかかわらず、その後ずっと今日にまで、禅宗といわれ、曹洞宗といわれつづけている。彼の求めつづけたものがただ一つの法であり、真理であることを知る者はほとんどいないのである。」

「法然、親鸞は修行しなくとも、念仏を唱えるなかで変わるといい、道元は修行することによって初めて変わるというのである。親鸞にとっては念仏を唱えることがそのまま修行である。

 変わり得る者には、親鸞の教えは正しい。しかし、変わらない者には親鸞の教えは気休めであるし、実際にはそういう者が多いのである。道元は初め、男女の別なく、だれでも坐禅はできるといったものの、法を正確に把握し、覚者になることは非常にむずかしいと気づいたとき、出家主義のもとに、求道者、反逆者になることを後年いい始めるのである。それでも法を得ることはむずかしいのである。」

「いまの世が、彼らの生きていた時代よりどれほどよくなっているかはまったくあやしい。道元は親鸞の弱点に気づき、それをのりこえようとしたが、世の中も世に住む人々も変えることはできなかった。ただそれまで、法を求めることがなかったのに、それをすべての人が法を求め得るような道をきりひらいたことは偉大である。それも、法というものが,一切に優先して、意義あるものであるということを教えたのである。

 それから数百年たったいま、彼らの説いたところを知る者は非常に少ない。知って実践する者はなお少ない。それ以上に大事なことは、彼らの説いたことでなく、彼らがその時代に生きたように、現代にとりくんで生きることであるが、そのような人が果たしていま、どれくらいいるだろうか、疑問である。」

「…日蓮の疑問とは、“人が最もすばらしく生きる道はただ一つであるにちがいない。それなのに、いま釈迦の教えといって、多くの宗派が争っている。ほんとうに釈迦の教えとは一体そのなかのどれであろうか”というのが、彼の問いであった。

 当時の仏教界には、まじめに法・真理を求めようとする者はほとんどいなかった。法・真理を求め、それに生きるはずの僧侶の世界は俗世間以上に乱れ、いたずらに地位や財産を求め、戦争にうつつをぬかしているような世界であった。俗世間で尊ばれる権力がそのまま通用していた。」

「では、日蓮はどのようにして、そういう結論に到達したのであろうか。彼は天台知がいの諸教批判を知ったのである。それによると、釈迦は法・真理を把握したあとにまず華厳の教えをといたというのである。しかし、人々にわかりにくいため、やむなく、わかりやすく、阿含の教えを説き、つぎに、維摩の教えを説き、さらに磐若の教えを説いたのである。だが釈迦七十二歳のとき、ようやく、人々がその思想を理解するようになったので、はじめて、法華の教えを説いたもので、この法華の教えこそ、釈迦がほんとうに説きたかったものである、というのである。

 この考えは、その後、最澄にもうけつがれ、長らく仏教界に通用していた。その考えに日蓮は到達したのである。今日、このような考えは通用せず、仏教文献学の立場から、法華経は紀元後一世紀の作ということになっている。しかし、今日、法華経がいかなるものにせよ、日蓮はここから、法華経こそ唯一絶対のものであり、仏教諸派は法華経によって統一されるべきであり、仏教諸派は本来の仏法として、一つになるべきだと考えたのである。人々はただ一つの法華的真理にたちむかって生きねばならないと考えたのである。」

「そのとき、日蓮は、自分しか知らないことを自分が知った以上、それをいうのは自分の義務だと考えたにちがいない。…自分のように、法華経を尊び、これを唯一の拠り所にしようという者はいない。法華経を信じて、他の一切を捨てよという者はいない。そう思ったとき、日蓮は誇りと自信で胸のおののくのを感じたことであろう。

 鎌倉の小路にたって、辻説法という大胆な方法で弘法活動にふみきったのも、日蓮のなかに生じた、この誇りと自信のせいであろう。」

「日蓮の禅宗攻撃といい、真言宗、律宗の批判といい、十分とはいえないまでも、その核心の一端にふれて、少しも妥協しない態度であった。ともすれば、日本人の多くは、真理を考えるとき、あれもこれもといって、つきつめて考えようとしないのに対して、彼はどこまでもあれかこれかと考えた人間として珍しい存在であった。」

「日蓮は吉田松陰が“私が権力者を激しく攻撃するから、権力者の弾圧も激しい。この弾圧は自分がひきだしたようなもの。私の攻撃がゆるめば弾圧もゆるくなろう”といったように、自分の攻撃がこの弾圧をみちびきだしたことを知っていた。知っていわなくてならなかったのが日蓮である。それが日蓮にとって生きるということであった。妥協して生きることは法に生きようとする者にとって、最大の恥であった。法に生きようとする者で、この世をみたすということしか考えないのが彼である。彼からみると、単に地位、財産だけを求めて生きている権力者、一般の人々こそ、なによりも人間らしくない者であった」

「…人間が人間として生きるということは、時代の子として、時代そのものが生みだす課題と真正面から対決して生きるということであり、そのためには、前時代の思想というか、それを克服して、いまの時代的課題にとりくんで生きるということだからである。そのとき、はじめて人類社会は日々に進歩し、発展し、人間の幸福は深まり、広まっていく。前時代の思想、それを克服するとは、常に前時代、その前世代からみて反逆者として生きるということであり、いまの思想を見出すために求道者として生きるということである。だから、人間が人間として生きるということは、反逆者、求道者として生きるということであり、反逆者、求道者でないものは人間として生きていないということである。彼らは、反逆者、求道者であることで、すべての人間の「生」の師といえる。それほどに、彼らはすぐれた反逆者、求道者として生きたのである。いままでは反逆者、求道者として生きたものを特別視してきたが、あらためて、反逆者、求道者の道こそ、人間としてあたりまえであるということを、よくよく知るべきである。」

「…彼等の思想的課題が生きているということは、後世の人々が怠慢であったということである。とくに彼らの思想を絶対化し、固定化することで、彼らの思想をのりこえるものとしてとらえ、のりこえることをはからなかったのは、最大の怠慢である。」

「…私が今日に再生したいのは、彼らの思想でなくて、彼らの生そのものである。思想は彼らの生そのものの所産であり、生を方向づけたものでも、あくまでその時代の所産であり、過去のものである。」

「今日、彼らの生を生きようとする者はほとんどなく、みな彼らの思想のみを生きようとする。もっと悪いことには、生きようとせず、彼らの思想を知ることに終わっている。これでは、彼らの思想を発展させるどころか、矮小化するのがせいぜいである。

 彼らの思想を正確に知ることはいい。しかし、それは、あくまで、自分自身の思想、現代の思想を生みだすために必要なものである。彼らの思想を知ることが目的でなく、彼らの思想をのりこえて、現代の思想を生みだすことが目的である。」

 

                      <1972、産報KK刊>

 

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