- 優れた科学啓蒙書が、一様に感動をもたらすのは、
それらが、ミステリの手法で記述されているからである。科学啓蒙書は、謎についての解説という形式で記述される。
探偵である著者は、その研究テーマを、
- 一見それはあたりまえのように見えながら、実は以下に謎に満ちているか。
- その謎が、ある観点から眺めることにより、如何に見通しがよくなるか。
- その結果、如何に多くの謎が解明されるか。
という順序で、その疑問を抱いた瞬間の当惑や、
天恵により急に見通しが開けた時の感動をもって、記述していく。
これがつまらないはずがない。
- クオリア(qualia <quale の複数型>)[哲学用語]:
――ランダムハウス英和大辞典第2版(小学館)より
- 特質:事物とは独立して存在する普遍的な本質
- (明確な特質を持つ)感覚データ
我々の外界に対する認識は様々な質感(クオリア)に溢れている。
- しかし、認識とは、我々の脳の中で起きている現象である。
この脳の中で起きている現象とは、ニューロンの発火、という単純な現象に尽きる。
これは細胞膜電位が、ある一定の閾値を取っているか否か、という二値のうちのどちらかの状態であり、
それ故(著者は触れていないが)、脳という分子機械は、万能チューリングマシンと等価である。
平たく云うなら、ハードウェアとしての脳は、コンピュータと等価である。
- その脳が認識している、かくも豊かなクオリア。
- さらに、その脳が認識する「生と死と私」。
「「私」を「私」にするもの」
「「睡眠」の前後で、どうして同じ「私」だとわかるのか?」
「「私」の「コピー」は「私」なのか?」
そして、
「私は「自由」なのか?」
- わかりやすい例として、以下の思考実験を行ってみよう。
(たぶん、これを読んだ後はわからなくなる)
- ある朝「私」は目覚めた。この「私」は目覚める前の「私」と同一か?
同一であることに異論はないと思う。
- 「私」はかなり長い間眠っていた。何かの事情で数年に渡って眠っていた。
目覚めた後の「私」は、目覚める前の「私」と同一か?
やはり同一であろう。
- 「私」はひじょうに長い間眠っていた。
その間、宇宙のある場所で「私」と同じ分子配列を持つ存在が現れた。
脳の状態は当然「私」の脳と同じ状態となっている。この脳を持つ存在は「私」と同一か?
明らかに違う(と思う)が、認識がニューロンの発火のみによるものならば、後者の脳は「私」と同一である、と結論せざるを得ないようにも見える。
- 「明らかに違うと思う」根拠は、眠りの前後のような連続性が根本的に欠けているからである。
では、上記「ひじょうに長い眠り」の間に「私」が死んでしまったら?
後者を「私」の「生まれ変わり」と云うことはできないのか?
他人が見れば「生まれ変わり」に見えるであろう。
しかし「私」は生まれ変わったとは思わないだろう。
- ここまでの議論が厳密性を欠いており、一つ一つ、全てその不備を指摘できる、
或いは全てに対して反駁できるというのならば、もう少し。「私」が眠っている間に「私」のコピーが作られた。
もちろん分子配列から何から何まで同じ。外観は完全に「私」と同一である。
この「私」と「私のコピー」が同時に目覚めた。
この二人の「私」は異なる行動を取るかも知れないが、まさしく「私」が取るであろう行動を取ることはまちがいない。
また、どちらの「私」も眠りの前後の連続性を持っていると感じているであろう。
「私」は、どちらも「私」は「私」である、と感じている。
しかし他者は、一方はオリジナルで、一方はコピーである、と知っている。
- 他者がオリジナルとコピーを識別できるのは、そのコピーする瞬間に立ち会っていて、
オリジナルの肉体がオリジナルであり続ける状態を、ずっと見ている場合のみである。
もしコピーのみを見たならば、コピーか否かは判断できない。
本人も、自分は自分と思っている。
他者も、同一であると判断する。
ならば、どちらも「私」なのではないか?
- では、「私」は二人になったのか?二倍の人生をおくれるのか?
コピーをn体作れば、n+1倍の人生をおくれるのか?
コピーを作った後、オリジナルの「私」が損なわれた場合は?
「私」が死ぬ前に「私」をコピーし続けると、「私」は永遠に生きていくことができるのか?
(「コピーは不完全で、オリジナルの状態を完全に再現することはできない」
というような、前提は却下。今の思考実験において、そのような前提を置く理由がない)。全て、同じロジックに従っているはずである。
ならば、全て正否は同一のはずである。最初の例は否だから全て否のはずだが、最後の例だけは、正しいようにも思える。
それは、正しい判断なのか、それとも最後の例が不死の可能性を示すが故の、単なる願望なのか?
- 上記の議論は、混乱を引き起こすために、故意に論点を歪めているか、
必要な前提を故意に無視しているか、或いは、何の議論も無しに、不確実な前提を置いており、
それ故、正しい結論に到達しないように思える。この「思える」という判断は正しいのか?
或いは、ここの議論のいずれかを正しいと見なし、
従来の前提を根底から見直さなければならないのか?
- 私には、著者がこの研究テーマによって、とんでもないパンドラの匣を開けてしまったように思える。
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『枕草子*砂の本』 |
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