194「下総海上の隠者」



新庄直頼(1538―1612)

新三郎、従五位下、駿河守、越前守、宮内卿法印、法名晟珊。近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌の嫡男。幼くして父が戦死。長じて豊臣秀吉に仕え、馬廻りとなる。天正十九年(一五九一)、大津城代となり、一万二千石を領す。後、大和、摂津に転じ、関ヶ原合戦で西軍についたため失領。会津蒲生家に預けられたが、慶長九年(一六〇四)、赦されて、徳川家康から常陸麻生三万石を与えられた。

◆慶長十三年(一六〇八)十二月。徳川家康は武蔵国河越で鷹狩を催した。お供には僧形の人物がつき従っている。新庄駿河守直頼、今は宮内卿法印と呼ばれる男である。直頼は関ヶ原の合戦では弟の直忠とともに西軍についたために改易され、会津の蒲生秀行に身柄を預けられていた。しかし、どういうわけか、兄弟して家康には気に入られていたらしい。弟は近江でわずかな所領を安堵され、兄は四年前に家康から常陸国麻生で三万石を与えられた。

◆休憩時間になって、家康がおもむろに宮内卿法印の新庄直頼に話しかけた。

家康「法印は耳にいたしておるか。近頃、不思議な隠者がおるそうな」
直頼「ほう。どのような者でござりますか」
家康「場所はここからそう遠くもない、下総海上という所じゃ。名は惣帰居士。性は純朴、粗末な庵に住まい、財利をむさぼらず、いたって質素に暮らしておるとか。常に瓢箪をひとつ、軒にかけて里人からの施しを待っておる。瓢箪に何も入らない日があっても、とりわけ物乞いなどに歩かないとか」
直頼「なるほど。そのような人物のお話を仰せになるということは、手前に引き合わせたいと大御所様はお考えでしょうか?」
家康「鋭いな。その惣帰なる者、噂に聞けば、もと三好家の者であるそうな」

◆三好家と聞いて、直頼の目の色が変わった。家康はただ御伽衆のひとりに退屈まぎれの話をしているつもりではなかったのだ。

◆直頼は河越滞留中に家康の許しを得て、謎の隠者惣帰に会いに出かけた。実は直頼の父直昌は直頼が子供の頃、天文十八年(一五四九)の江口の合戦で戦死している。江口の合戦は、三好長慶と対立する管領細川晴元方の三好政長による抗争で、後者が長慶の部将十河一存・安宅冬康らに攻められ敗れた戦いである。おそらく新庄氏は近江六角氏に従って晴元方として参戦していたのであろう。そして、三好長慶の軍勢と戦って討たれたのである。家康から三好家所縁の者であると聞かされ、直頼はその隠者が父の最期を知っているかもしれないと思ったのである。

◆隠者惣帰居士の庵はすぐに見つかった。庵の中をのぞくと、七十余りの老僧が法華経を唱えている。直頼は軒下に立って、身分を隠した上で来意を告げた。惣帰は「何もおもてなしもできないが遠慮なく入られよ」と言った。

◆直頼は惣帰相手に四方山話をしたが、いよいよ江口合戦のことを言い出した。

直頼「老人は三好家にゆかりのある方とか。江口の合戦で討たれた新庄直昌をご存知あるまいか」
惣帰「新庄殿。ウム、おぼえておる」

◆惣帰は新庄直昌の最期やその家人の首実検について語った。六十年ぶりに聞く父の姿である。聞いていた直頼ははらはらと涙をこぼし、「その新庄直昌とは、わが父でござる」と答えた。

◆惣帰も少し驚いたようだった。やがて、直頼が形をあらためて惣帰の姓名を問いかけた。しかし、惣帰はついに姓名を名乗らず、ただ「江口の合戦の折、金の采配をもって三軍を指揮していた者にござる」とだけ答えた。

◆徳川家康は戻ってきた新庄直頼の報告を聞きながら、感心したように言った。

家康「やはり、そのほうの父を知っていたか。さてもさても冥加というものであろうか」

◆この惣帰という人物の正体については、さまざまに取り沙汰されている。いわく、三好長慶の後身、いわく、滝川一益の後身、などなど。江口合戦の折に三軍の指揮をとるほどの者であれば、十河一存、安宅冬康あたりも候補となるが、いずれも慶長年間まで生きていたという所伝はない。天文十八年の江口の合戦に指揮をとるほどであれば、慶長のはじめ頃には相当な年齢になっていたと思われる。惣帰も走鬼、早鬼などさまざまに表記されるようだ。

◆徳川家康だけは、その正体を知っていたように思えるのだが、いかがなものだろう。




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