192「正統織田家、土佐へゆく」



織田信安(―1611?)

三郎、伊勢守。敏信の子。尾張国岩倉城主として上四郡を支配。織田信行あるいは斎藤義龍と結んで、織田信長に対抗したが、子の信賢によって追放された。後に信長に織田親眞自筆の詠歌と系図を譲ったという。法名常永。没年は天正十九年(一五九一)十月二十四日とも。室は織田信定の女。

◆織田信長の「弾正忠」家は、織田とはいっても尾張守護代織田氏の配下で、三奉行のうちのひとつに過ぎないことは、いろいろな本に書かれている。では、上のほうの人は?というと、伊勢守系と大和守系というのがあり、前者は尾張上四郡を、後者は下四郡を支配していた。信長の家は大和守の家来だった。もっとも最初は伊勢守の家来で、後にその弟の家(大和守家)に奉公するようになったのだという。伊勢守系と大和守系、どっちが偉いのかというと、伊勢守系は在京の守護代、大和守系は在国の又守護代であったらしい。おそらく、伊勢守系のほうが上だったのだろう。しかし、大和守系のほうにしばしば傑物が出て、京都の政局にも影響を与えることもあった。で、いつの間にか尾張をはんぶんこする状況になったのだろう。

◆岩倉織田氏は代々、伊勢守を称し、織田氏の本宗家であったという。もっとも早い時代に実在が確認できる織田氏は常松、常竹。岩倉織田氏も「常」が法名の中に入っている。信安は常永である。対して、信長の家系は「巌」である。信秀が桃巌、信長が泰巌といった具合だ。

◆信安に嫁いだ女性(織田信定の娘)は岩倉殿と呼ばれた。秋悦院太雲妙慶大姉という法名が伝えられ、寛永六年(一六二九)七月十六日に没したとされる。が、彼女の母は天文十四年(一五四五)に没しており、娘を生んで間もなく亡くなったとしても信安夫人はその後も八十四年間生きたことになり、寛永六年という没年にはやや疑問を禁じえない。

◆そして、伊勢守信安の代に織田信長が登場した。信安もよく対抗したが、最後は信長の威を恐れた息子によって城を追出されてしまったという。『寛政重修諸家譜』には「宰臣稲田修理亮、前野小二郎等これをにくみ、長男信賢をすゝめて信安を追」とあり、信賢は続いて斎藤義龍と結んで信長に反抗しているから、どちらかというと不甲斐ない当主を追放したというほうが実相に近かったのだろうか。

◆没落した信安は、やがて信長に家祖親眞自筆の詠歌および先祖伝来の系図を譲ったと言うが、あるいはこの時点で本来の平氏である織田氏が、忌部だか藤原だか知らないが、氏素性の知れない信長の系統に乗っ取られたのかもしれない。その後、信安は時代のうつろいを見つめながら京都や美濃で隠棲していたらしいが、やがて、かつての家来山内盛豊の子・一豊を訪ねることにした。関ヶ原の合戦の結果、山内家は土佐二十二万石に栄転となったのだ。『南路志』によれば「掛川より慕い来る」とあるから、山内氏が掛川に封じられていた頃から世話になっていたものだろう。つまり、山内一豊は岩倉織田家中の出世頭ということになるのかもしれない。

信安「やあ、一豊くん。遊びに来ちゃったよ。二十二万石も貰ったんだってねー」

◆知らせを聞いた一豊は驚いた。

一豊「か、掛川から追いかけてきたのか!?」

◆さて、山内一豊はほおっておくこともできず、浦戸城の北郭に「御養育」していたが、やがて戸波村に住まわせ、二百石を与えた。「勢州様、御堪忍分とし、土州高岡郡戸波村之内を以て二百石進上せしめ候」という一豊の慶長六年八月二十一日付判物が伝わっている。

◆今も高知県には信安の墓が残る。

◆没年といえば、信安は息子信賢に追放された後、京都に隠遁。やがて上洛した信長から美濃国中に所領を与えられ、天正十九年(一五九一)十月二十四日に死去したといわれている。尾張には江戸初期に信安の孫が建立したという墓が在り、法名は松岳院殿大渓玉甫大居士という。「常」の一字が入っていないところが少し気にかかる。一方、慶長十六年十一月二十七日に土佐で没したという説もある。法名は龍譚寺殿大清常允大居士。眞如寺山に葬られたという。没年も法名も葬地も異なる。七十八歳という享年を信じるとすれば、天文三年生まれとなる。又従兄弟の信長と同年で、作為なのか因縁というべきか。




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