191「一飯の施し万人に届く」



内藤昌秀(1523?―1575)

工藤源左衛門、修理亮、昌豊。武田信玄の家臣。父工藤下総守は信虎によって成敗されたという。永禄十一年(一五六八)、信玄の小田原攻めに従軍。三増峠の合戦で小荷駄奉行をつとめる。この合戦で戦死した浅利信種の後任として元亀元年頃、上州箕輪城代となる。この時、内藤に改姓。以後、武田氏の西上野支配を管轄した。天正三年(一五七五)、長篠の合戦で戦死。法名善竜院泰山常安居士。

◆息子信玄に追放された武田信虎が信濃までやって来た時、出迎えた長坂長閑らに「今は誰が出頭しておるのだ?」と聞いた。「内藤修理亮殿です」という答えに、信虎は首をかしげた。知らない名だったのである。ところが工藤源左衛門が旧名であると聞くと、「その昔、そいつの兄をこうして袈裟懸けに斬ったのよ」と床の間の太刀をとって一同の前でふりかぶってみせた。父とか兄とか異なっているがよくわからない。信虎に直諫して殺された工藤氏の子に内藤家を継がせてひきたててやったのが信玄だった。内藤家も信虎の代に当主が手討ちにあったともいわれているから、信虎が言ったのは先の内藤氏であったかもしれない。

◆内藤昌秀の母は熱心な一向宗徒だった。その母が亡くなった時、甲州等々力から一向宗の僧たちが大勢やってきた。昌秀が膳に馳走を盛って仏に備えていたので、一行を束ねる上人が注意した。

上人「阿弥陀様にお供えすれば、他にお供えする必要はありませぬ」
昌秀「どうして他宗のやり方と違うのでしょうか」
上人「死人に食を供えることこそ、心の迷いなのです」
昌秀「それでは亡者が餓えませんか?」
上人「阿弥陀様にお供えすれば、衆生ことごとく施しを受けたことになるのです」

なるほど、阿弥陀様にお供えした一飯が、万人に施すことになるとは殊勝なことですな、と昌秀は納得した。

◆やがて葬儀も終わって、僧侶たちに馳走を出す頃合となった。が、膳は上人の前にしか出てこない。百人はいると思われる僧侶たちの前にはお茶さえも出てくる気配がない。そのうち、昌秀側の一族たちは自分の膳で食事をはじめてしまった。僧たちが昌秀にそのことを告げると、

昌秀「上人様にお供えをすれば、御坊たちにも施しになるのではありませぬかな。先ほど、そのようなお話を上人様よりうかがったばかりでござる」

けろっとした物言いに、上人も僧たちも赤面し、平謝り。ようやくのことで食事にありつけたのだった。百人も連れ立って来た僧侶たちへ、食事を出す側の昌秀もちょっと皮肉ってみたくなったのかもしれない。僧侶とて人間。いざとなると我が身の衣食住にはね返ってくるのだから、ありがたい宗旨といえども心して口にせねばならない。

◆永禄十二年、武田軍が小田原を攻めた際、山県昌景が先陣の昌秀に対し謎をかけてきた。「いとけのくそくてきをきる(糸毛の具足敵を斬る)」である。昌秀はこれを「糸毛の具足を着る様な大将が居るところまで深入りするな」と戒めてきていると断じ、「小太刀(小太刀で相手をあしらうようにいたそう)」と応じた。まあ、言い換えれば、

昌景「糸毛の具足とかけて何と解く?」
昌秀「小太刀と解く」
昌景「そのこころは?」
昌秀「大将が居るところまで深入りするな」

と、いったところか。

◆後刻、三増峠で北条氏と戦った時のこと。小荷駄を預かる昌秀は、馬場・山県らに戦況をたずねるに「待つ宵に深行くかねの聲きけばあかねの別れの鳥はものかは」と言ってよこした。それに応じて馬場から「車牛離牛(くるまうし・はなれうし)」という返事があった。元の歌の意は「恋するあなたが来る間が憂し」「思う人に離れ憂し」なのだが、この場合は「敵は猛勢で味方が来る間も憂し」「敵が後を慕って追撃してくるので離れ憂し」という意味で昌秀に答えたものである。死生を分かたざる劇戦の中にて、風流をもって安否を贈答する事、臨機応変の秀才、智と云い勇と云い、往昔の名将にもおさおさ劣らざる英雄かな、と賞賛された。




*補足調査
内藤修理と山県が小田原の戦陣にて
「いとけのくそくてきをきる」
「こたち」
という謎賭けのやりとりの場面が紹介されてましたが、件の戦場はなかなか苛烈だったようで、使いとして伝言を伝えた早川弥三左衛門という者はその往復だけで鉄砲傷を2箇所くらったらしいです。(「列戦功記」「甲斐国誌」)
謎かけの使いで負傷とは、この使い番も災難ですな。(X-file特別調査官:くしゃみ侍)
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