190「幻の豊臣六大老」



結城秀康(1574―1607)

於義伊、於義丸、三河守、正三位権中納言。徳川家康の二男。生母はお万の方。天正十二年(一五八四)、小牧長久手合戦の講和条件として大坂へ人質に出された。この間に元服し、秀吉の一字をとって秀康と名乗った。豊前国岩石城攻めに参加。天正十八年、家康が関東に入部した際、結城晴朝の養子となった。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦では下野にて上杉景勝と対峙した。戦後、松平姓に復し、越前北ノ庄六十七万石を領す。

◆平成十五年に大阪城天守閣で開催された特別展「五大老―豊臣政権の運命を託された男たち―」はなかなかの好企画であったが、五大老という職制について、また、選出された顔ぶれについては定着までに紆余曲折があったらしいことが展示史料および解説から看取された。たとえば、小早川隆景在世時の上杉景勝の扱い。文禄四年の連署定書では両名とも署名しているため、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家を加えて六名になっている。

◆その最たるものが、結城秀康が幻の六人目の候補となっていたらしいことをうかがわせる書状であろう。これは慶長四年三月、江戸にいた徳川秀忠が兄の秀康に送ったものである。内容は家康と他の大老・奉行衆とが和解したことを祝すものだが、その中で次の一節がある。

大納言殿(前田利家)煩付 内府様大坂へ御下りなさり候処、御入魂の由、満足に存じ候。随て、六人のうちへ御入なされ候由、御尤もに存じ候

つまり、結城秀康が「六人の者」の中へ新規加入することを記しているのである。おそらく、病床に臥す前田利家を、徳川家康が大坂へ見舞った時に、両者の間で合意をみたものであろう。

◆家康側の思惑とすれば、毛利・小早川、前田・宇喜多という血縁者同士が構成メンバーであることへの対抗心もあったろう。あるいは利家が病気の自分にかわって嫡男利長を加える交換条件として、家康も結城秀康の政権参画を持ち出したのかもしれない。そして、このことは当の秀康も承知しており、江戸の秀忠にも伝わっていた。秀忠が「六人の者」と記しているのも重要である。大老は六名という認識が一部にあったのである。六大老は結局成立しなかったのであるから、反対運動がおきていた可能性もある。そういうことに斟酌せず、あたりまえのように書状に書く秀忠という人は(少なくとも若い時分は)根っからの善人だったのであろう。

◆もっとも上杉景勝を除く大老たちは、いずれも豊臣秀吉と何らかの縁戚関係にあり、一時、秀吉の養子となっていた秀康ならば資格は十分にある。世間では結城秀康への期待感があったことをうかがわせる逸話もある。関ヶ原合戦後のことであるが、福島正則などは秀康贔屓で、事がおこった場合は大坂城の豊臣秀頼に味方すると放言した秀康に自分も従おう、と応じたという話も伝わっている。そのような機会がめぐってくることはなかったが、一時期、豊臣秀吉の猶子となっていたことから、豊臣系大名の信任も厚かったようだ。秀康は幼少時代、家康から疎まれ、長兄信康の仲介でようやく対面を果たしたという。また、長じては梅毒を患って鼻を損ない、木製の鼻をつけていたともいわれている。それでいながら、武将としてもひとかどの人物と評価されていたのであろう。

◆実際には前田利家が死去し、家康にとって最大の障壁は除かれた。他の大老、奉行との間も疎隔となり、秀康の中央政権への登場機会は失われたのである。

◆六大老にもなれず、天下分け目の合戦にも参加できず、徳川の家督も弟にとられ、秀康自身は不完全燃焼の思いが強かったのではあるまいか。当時評判となっていた出雲の阿国を自邸に招き、一座の踊りを鑑賞しながら「天下に幾万の女がおっても、この於国は天下一の女である。それなのに、わしは天下一の男になれず、あの女にさえ劣るのが無念じゃ」とハラハラ落涙するのを禁じ得なかった、という話も伝わっている。於国がかぶき踊りを演じて成功したのが慶長八年(一六〇三)のこととされている。また、二年後には徳川秀忠への将軍宣下が行われている。かつて「六人の大老に選ばれて当然ですよ」と言われた弟に、逆に秀康は頭を下げなければならなくなったのである。



※2004.11.24修正(三楽堂)
XFILE・MENU