188「死してなお去就定まらず」



吉川興経(1508―1550)

千法師、治部少輔。元経の子。大永二年(一五二二)、父の死により家督を継ぎ、祖父国経の後見をうけた。尼子氏の郡山城攻め失敗を機に離反。大内氏の出雲遠征に従ったが、再び尼子氏に通じた。後に叔父毛利元就のとりなしで大内氏に帰参。天文十六年(一五四七)、布川に隠退し、元就の次男元春を養子に迎えた。しかし、家臣団の動揺をおさえきれない上に去就定まらず、尼子氏に通じたかどで元就によって実子千法師ともども謀殺された。室は宍戸元源の女。

◆おれの先祖は大織冠鎌足、あいつは大江だ。その下風に立つのはまっぴらだ。というのが、吉川興経の口癖だった。あいつとは毛利元就のことである。尼子から大内に帰参する陰で尽力した元就が恩着せがましく、あれこれと干渉しはじめたのだ

◆元就は元就で、吉川家重臣吉川経世、森脇祐有らと結ぶとともに、二男元春を養子として送り込み、興経を布川へ隠退せしめた。その後も興経の素行に関する流言が後を絶たなかったため、元就はついに刺客を放った。興経の領内へ潜行したのは、熊谷伊豆守、天野紀伊守のふたりである。熊谷・天野は強弓をよくする興経を討つのは並大抵のことではない、と考えた。まず毛利家から使者を遣わし、手島(豊島)内蔵丞という吉川家中でも勇猛ぶりで知られた男を興経のそばから引き離す計略を用いた。

◆それでもなお、興経手練の弓が心配である。何しろ、興経の弓の腕前は鎮西八郎にも比肩すると評判だったのだ。

◆ここに興経の寵臣村竹宗蔵という者があった。心をゆるした相手だったので、興経も疑わなかったが、すでに元就に「興経を討ち果たしたら、所領を与えるぞ」と買収されていた。村竹は腕のほうは自信がなかったので、興経愛用の弓の弦を切り、佩刀の刃をつぶしておいた。

◆そこへ毛利方の熊谷・天野の手勢が襲ってきた。興経は弓矢をとり応戦するが、弦が切れているので役に立たない。それを見た興経は怒るどころか、カラカラと笑った。

興経「これほど運が尽きたとは。まさに天がわれを滅ぼそうとしているのだ!」

項羽を気どるのはいいが、今度は愛用の「青江」の刀を取り出し、敵兵に挑んでいったものの、これがまったく切れない。仕方がないので、三尺五寸の刀身で相手の頭を叩き潰す挙に出た。強力にものを言わせて、興経は二十三人までを打ち倒したが、気絶していただけで、ほとんどの者はあとで蘇生したらしい。

◆熊谷・天野と勝負せん、と興経が門外へ出たところ、村竹宗蔵が背後から矢を射かけた。村竹の矢は興経の腰に突き立った。これを明石という興経が召し使う女が駆け寄って来て、矢を抜こうとする。

興経「明石、引っこ抜くな。前へ押し抜け」

言われたとおり、明石が矢の柄を押し抜くと、興経は自分の横腹から飛び出てきた鏃をつかんでグイと引っこ抜いた。興経は「おまえはわしの手下よりもまさっているぞ。おまえのことは冥土までも忘れぬ」と、明石にニッコリ笑いかけた。興経は天野紀伊守と太刀をあわせると、膂力にもの言わせて相手を組み敷いてしまった。

◆だが、次の瞬間、重傷の興経を熊谷・天野の手下たちが取り囲み、ついにその首級をあげてしまった。かくして藤原吉川氏は滅亡した。興経の首は元就の実検に供された後、土中に埋められ、石塁をもって墓所となした。

◆興経の墓には、彼が生前かわいがっていた白犬がうずくまっていた。じっとそこを動かず、とうとう七日目に餓死してしまったという。その後、興経の亡霊に人々は悩まされ、葦毛の馬にまたがった武人に行きあった者はことごとく頓死してしまった。そこで、御崎大明神を建立し、興経の鎮魂とした。しかし、興経の遺恨はよほど深いものがあったのだろう、なおも人々を悩ませたのである。

◆京都の吉田神社にこの旨を伝えたところ、吉田の神主は「光大明神」と名づけた。その直後、興経の社から傘状の光が発せられるようになった。これを伝え聞いた吉田の神主は、

「光と名づけたので、光り出したとは。なかなか柔軟な対応である。今後は柔軟大明神と改めるがよかろう」

生前、去就がさだまらなかった吉川興経は、死して後も性向だけはなおらなかったのであろうか。


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