184「氏郷・郷可・郷安オール蒲生総進撃」



蒲生郷可(?―1598)

上坂左文。近江の国人上坂兵庫助の養子。はじめ浅井長政、ついで柴田勝家に従う。後、蒲生氏郷に仕えて、伊勢攻略、九州攻めに従軍。蒲生姓と「郷」の偏諱を受けた。天正十八年、小田原攻めの際に北条方の夜襲を防ぐ。同年、蒲生氏が会津に入部すると、伊南城を預けられた。葛西大崎一揆の際には会津留守居。さらに翌年、九戸の乱鎮圧の戦功によって出羽長井郡の中山城代となる。同じく米沢城に配された蒲生郷安と対立し、後にこれを追放。蒲生氏の宇都宮転封後、間もなく死去した。

◆会津・米沢九十万余石を領する大大名となった蒲生氏郷が、肥前名護屋城へ滞留していた時のことである。領国奥羽では一触即発の危機が迫っていた。氏郷の重臣ふたり、米沢城代蒲生四郎兵衛郷安と中山城代蒲生左文郷可の兵がひそかに弓矢鉄砲を持ち出し、臨戦態勢を整えつつあったのだ。

◆蒲生郷安と蒲生郷可は名前こそ似ているが、これは主人氏郷の賜姓・偏諱の大盤振舞いによるもの。一族・兄弟というわけではない。それどころか、犬猿の仲であった。蒲生郷可は、その武芸非凡なるを氏郷に見込まれて、豊臣秀吉の政敵柴田勝家の遺臣でありながら召抱えられた経歴を誇って、とかく我意を通すことが多かった。さすがの氏郷も「大名にだけはさせられないなあ」と考えていたらしい。その氏郷が留守であったために、重石がとれた格好で日頃の鬱憤が一気に炸裂しようとしていた。

◆天正十九年、九十二万石に加増された蒲生氏郷は、出羽国長井郡の中心である米沢へ寵臣蒲生郷可を送り込もうと考えた。米沢はかつて宿敵伊達政宗が居城としていた枢要の地である。

氏郷「どうじゃ。そのほうに米沢の城と三万八千石をつかわそう。米沢を拠点として蒲生家百万石の仕置を頼みたい」
郷可「お断り申し上げます。領内仕置など、できっこありません。わたしには大名は無理だって、おっしゃってたじゃないですか」
氏郷「では、誰か他に適任の者はおるか。申してみよ」
郷可「四郎兵衛がよろしゅうございましょう」
氏郷「ナニ。四郎兵衛を?」

氏郷は、なにゆえ郷可が仲の悪い郷安を推挙するのか、と思ったが、人選としては悪くないと考えた。そこで、四郎兵衛郷安には米沢城を、郷可には同郡中山城を与えることにした。

◆事のおこりは、氏郷の言葉であった。氏郷は長井郡入部にあたって、「敵対していた者でも、よき人材を集めて召抱えよ」と命じていた。これを受けて、郷安・郷可の家中間ですさまじい人材引き抜き合戦がはじまったのである。草莽に隠れた人材を求めるのではなく、身内同士で拉致を繰り返したのだ。ある日、郷可の家来が米沢を通過したところ、郷安の家来たちがよってたかってからめ取ってしまった。これを取り返そうと、郷可方は戦闘準備を整えた。

郷可「おのれ、四郎兵衛、卑怯なり」
郷安「日頃の遺恨、晴らしたまでのことよ」
郷可「ぬかしたな。勝負だッ」

郷可が碁盤を取り出す。

郷安「のぞむところよ。来いッ」

◆長井郡の騒動を聞いて、郷可と親しい蒲生郷成がはるばる白石から「応援するぞー、負けるなー」と加勢にやってきた。会津からは郷可の実弟上坂源之丞(蒲生郷治)も「兄者の危機だ」と軍勢を出す。そして、今、長井郡内の北と南とで、重臣ふたりは睨み合っている・・・わけではなかった。ここが妙なところだが、米沢・中山両城代の蒲生郷安、同郷可の両名(つまりは騒動の当事者)は氏郷が留守のために、会津に詰めている。敵対する二人は同じ会津から、それぞれの城へ声援を送っていたのだ。

郷安「おい、わしが頼んだ茶はまだか!」
郷可「なにを。わしのほうが先じゃ!」
近習「ははー、ただいま」

◆会津城下では取っ組み合いがおこなわれたかもしれないが、米沢・中山両城については、蒲生郷成、蒲生備中らの調停により、戦端は開かれなかった。ところが、間もなく氏郷が病没し、嗣子秀行が宇都宮へ転封となった。誰憚る者がなくなった郷可は、蒲生郷成と結託して蒲生郷安を追い出してしまった。

◆鬱憤を晴らした郷可であったが、同時に心の張り合いも失ってしまったのか。新天地宇都宮に移住して間もなく、急死してしまった。これより、蒲生家は破滅へのスパイラルに陥っていくことになる。

◆重臣同士は仲が悪かったけれども、主人氏郷を思う心はみな一緒だった。かつて九戸の乱鎮圧のため、両国会津へ戻ってきた氏郷は、出迎えた留守居の郷可を見つけると、その手をとって奥州の戦闘状況を問い質した。氏郷は他の家来たちにもひとりひとり丁寧に声をかけた。その様子をみた他家の武士たちは「斯かる君臣の間は珍かなるべし」と感心したという。




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