181「わがヒゲはメードインジャパン」



三好吉房(?―1600?)

弥助、武蔵守、三位法印、常閑、一路(一露)。尾張国乙之子村出身。はじめ長尾を称したとも、大和国三輪氏の一族であるともいう。豊臣秀吉の姉とも(瑞龍院日秀)を妻とする。嫡男秀次が三好康長の養子となった際、三好姓に改めた。天正十八年(一五九〇)、犬山城主となる。秀吉の後継者となった秀次が自刃させられると、これに連座して讃岐へ流された。没年、死没地については諸説あり。

◆気の毒といえば、この男ほど気の毒な者も少ないかもしれない。何しろ自分の実力や意志とはまったく無縁のところで、歓楽と転落を味わったのだから。たまたま妻にした女に弟がおり、この弟があれよあれよという間に出世していき、いつの間にか織田信長から一方の司令官を任される地位にまで昇りつめたしまったのである。

◆この時の吉房(当時はそんな大層な名ではなかっただろう)は、せいぜい出世のおこぼれを頂戴するぐらいのつもりでいたかもしれない。政治に関わるということがどういうことか、理解していなかった。この点、兄に誘われて政権に参画した小一郎秀長とは大きな違いであった。

◆義弟である豊臣秀吉にくらべて、吉房が「勝っている」点がふたつだけあった。ひとつは実子(しかも男子)の数であろう。しかし、それが吉房にとっては悲劇を生む種ともなったのだから皮肉である。もうひとつは、ヒゲの濃さであった。秀吉にはいくつかのコンプレックスが指摘されている(たとえば出自の問題や幼女趣味)が、ヒゲがうすいことも悩みであったらしい。つけヒゲをしていたというのは有名な話である。

◆吉房はりっぱなヒゲを持っていることで有名だったらしい。吉房もこれが得意で、事あるごとに人をつかまえては、こんなやりとりをしていた。

吉房「世間では、わしのヒゲをどのように評しているか知っているか?」
相手「恐れながら、三好殿のヒゲをご覧になった者はみな、日本国においては見たことがない。きっと唐物(舶来品)に違いないと申しております」
吉房「うひゃひゃひゃひゃっ、まことに誰もがそう申す。だが、わしとそのほうだけの秘密なのだが、実は・・・・・・」

と、吉房は相手を側近くへ呼び寄せて言った。

吉房「実はな、このヒゲは唐物ではない。日本物じゃ」
相手「・・・・・・」
吉房「うひゃひゃひゃっ、そのほうだからこそ、打ち明けたのだ。ゆめゆめ他言は無用であるぞ」

聚楽第か犬山城か、どこであったかわからないが、立派な屋敷で豪奢な衣服に身を包んだ吉房がヒゲの秘密を打ち明ける時の顔は、おそらく尾張の農夫弥助の顔つきであったろう。

◆本当にそんなにりっぱなヒゲを持っていたのか、肖像画が残らないので確かなことは言えない。これでいっぱしの武勇でもあれば、日本の関羽と渾名されていたかもしれない。ただし、江戸時代の初期の頃にはすでにこの話が笑い話として流布していたので、意外と事実であったかもしれない。たとえ本当でなかったとしても、笑い話のネタにされるようでは、同時代の評価というのも知れたものであろう。秀長以外に頼りになる身内が少ない秀吉にとっては、吉房は戦巧者でもなく、さりとて吏僚的能力もなく、単に子沢山という以外にまったく価値を見出すことはなかった。一方、吉房にとっても、子供の多さという優越感にひそかに浸っており、秀吉・秀長の後継にいずれも自分の息子を養子に入れており、いずれは自分の時代が来るなどと妄想を抱いていたともかぎらない。

◆養子に差し出した三人の息子はいずれも吉房に先立って没した。秀次事件に連座して自らも官を剥奪され、讃岐へ流された。孫娘完子が九条家に嫁いだことが、せめてもの慰めであったかもしれない。吉房の手の届かないところへ行ってしまったけれども。

◆どこでその生涯を終えたか。諸説があってはっきりとはわからないが、三好吉房はその最期の息をひきとる前、ふと故郷尾張で妻と三人の息子と一つ屋根の下で暮らす、弥助としての自分を思い浮かべた瞬間があったのではないだろうか。




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