180「摺りきれ者の生涯」



蒲生郷成(?―1614)

源左衛門、坂小番。坂勝則の子。はじめ父とともに柴田勝家に従い、後に蒲生氏郷の家臣。氏郷の会津入部に際して三春城代となった。氏郷没後、その子秀行が下野宇都宮へ移封されると、常陸国笠間で二万石を領す。後、蒲生家が会津へ返り咲いた時には、会津守山城主として四万五千石を知行した。しかし、同じ蒲生家重臣岡重政と対立。慶長十四年、主家を退散し牢人となった。

◆諸大名の間では一族以外でも功臣であれば、自分の姓を与えることがあった。とりわけ多かったのが蒲生氏郷と浅野長政だったという。通常であれば、主君が家臣に対して自分の姓を与えることは大変なことである。婿などになるのならばともかく、褒美において姓をもらうことは名誉この上ない。蒲生氏郷は非常に武辺者を好み、これと見込んだ者には自分の姓である蒲生を惜しげもなく与えたらしい。それを聞いた前田利家は次のように言ったという。

利家「人という者は、一度手柄をしてからは、奉公能くして身上持つ上は自分の名字こそ立度願い申すものなれ。天下を取りたまいし太閤の真似は無用なり」

自分の家中にも前田姓を与えて当然と思われる家臣もいたが、その身のためを思い、与えないでおくのだ、という。

◆蒲生郷成の通称「源左衛門」は豊臣秀吉から貰ったものだという。蒲生の姓と実名の「郷」は主人氏郷から与えられたものだから、あちらこちらから貰った結果、こうなったということだ。もとの名は坂小番といった。

◆氏郷が蒲生姓を与えた理由は、彼自身が「知行を与えるばかりではだめだ。家中の摺きれどもに情をかけてやらなければならぬ」と考えていたかららしい。「摺きれども」とは面白い表現だが、おそらく粉骨砕身する者たち、長年忠勤を励んだ者たちといったニュアンスであろうか。氏郷から蒲生姓を与えられたとおぼしき者を列挙してみれば、源左衛門郷成のほかには、蒲生将監、蒲生左門、蒲生主計、蒲生五郎兵衛、蒲生忠右衛門、蒲生四郎兵衛。彼らはいずれも氏郷やその後嗣秀行の血縁ではない。みな氏郷より「褒美」として蒲生姓を与えられた者たちだ。記録に残るだけでもこれだけいるのだから、実際はもっといたかもしれない。

◆郷成は照れ屋でもあったらしい。自分のこれまでの働きを「悪筆で、イロハさえ見分けられないかもしれないが」と断って一代覚を遺している。ただし、その内容は凄まじい。伊勢長島にて首一つ、長篠合戦にて首一つ、伊勢木造左衛門と言葉かわし両度競り合う事、同夜の合戦にて首一つといった調子で、各地での戦功が書き連ねられ、最後のほうに「喧嘩の事」とし、「これは若き時、人を討って退き候事」とつけ加えている。柴田勝家のもとにあった頃のことであろうか。手負いも何度か経験しており、文字通り「いくさ人」の一生を送った。

◆豊前岩石城攻めの折には、秀吉から腰刀を下賜されている。この時、郷成は「一番乗りは栗生美濃でした。彼の旗指物が黒い吹流しだったので目立たなかったのです。それがしのは白い吹流しであったために、殿下のお目にとまったのでございましょう。ですから、一番乗りの功は栗生に賜りますように」と答えた。感じ入った秀吉は腰刀を栗生に与え、郷成には別に賞禄を与えたという。

◆そんな郷成が子孫に書置を遺している。いわく、

「武家の家に生れたならば、弓馬鑓兵法を朝暮の遊びと同じように考えろ」
つけたし。上手のしようと思う覚悟など必要はないぞ。
「今どきの武士は、ことのほか贅沢をして自分の職分を失っている。武具馬具に心かけるべきなのに、茶の湯などにうつつを抜かして金銀を浪費している。よくよく慎め」
「主人への忠孝は忘れるな。主人となり、家来となった関係は、みな天道のいたすところなのだ」
「一族の者が落ちぶれた時は、自分の身代の十分の一をもってこれを養え」
「くれぐれも我が身の分限というものを知り、身持ちをわきまえること」

◆五箇条しかない短いものだが、何だか郷成自身、我が身を振り返って思い当たるふしを書き連ねたのではないか、と思えなくもない。「一族の者が落ちぶれた時は」というのは、主家を退散した自分を養えと放言しているのかもしれない。また、最後の一条は、冒頭の前田利家の言葉とも符合するものがある。蒲生姓を貰ったことで、郷成のなかに無意識のうちに驕りが生じ、次代の主君との軋轢が生じたとすれば、郷成没落の理由のひとつであったかもしれない。




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