179「源五郎が鋳たる釜」



遠藤基信(1532―1585)

六郎、文七郎、内匠、山城守。伊達輝宗の家臣。役行者流金伝坊の子といわれる。諸方を流寓した後、伊達家臣中野宗時に仕える。後に宗時の謀反が発覚し、伊達家を遂われると、輝宗の直臣となった。おもに外交に手腕を発揮し、諸大名家との書簡が多く伝存するという。天正四年、相馬合戦で奉行となり、以後宿老に列し、千五百石を知行する。天正十三年、輝宗が畠山義継のために横死した後、殉死。法名医国景薀。連歌に秀でていたという。

◆中央で、織田信長が勃興しつつあった頃のことである。奥羽の大小名もそれぞれ信長に贈答するなど、遠くよしみを結ぼうと心を砕いていた。伊達輝宗もそのひとりである。

◆輝宗は自身、秘蔵していた二頭の駿馬「黒舟」「早駆け」を献上することに決めていた。そして、腹心の遠藤基信を見て、言った。

輝宗「わしとは別に、そちから何か上方へ贈り物をつかわすも、苦しゅうないぞ。良い品がなければ、砂金か拵えものの金具でもよいぞ」
基信「ありがたき仰せ。しからば、わが屋敷で囲っておりまする源五郎というやつめ、近頃、鋳掛けに凝っております。薄手の茶釜などを得意としております。わが屋敷の女どもも使い心地がよいと申しておりまする。これを進上したいと思いまする」
輝宗「おかしなことを申すものよ。次の天下の主となろう御方に、そのほうが召し使っている者が鋳た釜を進上するだと? たしかに珍しいものには違いないが・・・・・・」
基信「されば、いくらそれがしほどの者が、金銀や名馬をととのえて信長公に献上したところで、まずは奇特とも思ってくださったとしても、かえって、田舎者が見栄を張って、とそしりを受けるがオチかと存じます」

◆輝宗は「お前らしくもない浅はかな考えだ」と言いながら、好きにしていいと許してくれた。内心、信長の反応が見たかったのかもしれない。

◆基信は、屋敷に戻ると、「おぬしが拵えた釜を信長公に献上することにした」と言って、可哀相な源五郎を卒倒させた。基信は「源五郎が鋳たる釜」を、紋の入った厚板の袋にかけ、樺綴じの曲げ物に入れて、「世に比類なきものにござります」と説明書をつけて、上方へ贈った。

◆京都では、信長のもとで茶の湯始めが行われようとしていた。そこへ伊達家の使者到着の知らせ。さっそく、輝宗秘蔵の名馬二頭をはじめ、鷲の尾、熊の皮など、色々な献上品が披露された。

信長「御使者ッ。伊達殿より贈られた品々。どれも感じ入った。礼を申すぞ」
使者「ははあっ。もったいなき仰せ」

◆次に出てきたのが、家老遠藤基信の献上品。使者は汗だくになりながら、披露する。

信長「ナニ。遠藤山城が屋敷にて召し使われておる源五郎が鋳たる釜だと!?」
使者「さ、左様でござりまする」
信長「宗易、きさまは源五郎の釜を見たことがあるか」
宗易「恐れながら、実見したことはござりませぬ」
信長「気に入った。宗易も見たことがない源五郎の釜か。これにて、茶の湯始めの茶をたてて、皆で笑おうぞ」

◆遠藤基信が贈った「源五郎が鋳たる釜」を、信長は「遠山」と名づけ、天下の名物に加えたという。「遠山」とは、基信の姓と官命から一字を採ったのかもしれない。小賢しい千宗易が「見たことがありません」と答えたのが、よほど痛快だったのであろう。

◆この時、輝宗が贈った「黒舟」「早駆け」の二頭の名馬かどうかはわからないが、『信長公記』には、天正三年十月十九日の条に、「奥州伊達方より名馬がんぜき黒・白石鹿毛、御馬二ならびに鶴取りの御鷹二足進上」とある。信長はとりわけ白石鹿毛が気に入ったらしく、「竜の子じゃ」と言って、秘蔵したという。伊達の使者は清水寺で村井長門に振舞いを受け、虎やら豹やらの皮など、お土産をたくさん貰って帰途に着いた。

◆遠藤基信が贈ったという「源五郎が鋳たる釜」も「遠山」の名も『信長公記』には記載がない。実際には届けられなかったのか、輝宗の息子政宗がもっともらしく家臣たちに法螺を吹いたのか、あるいは信長も一顧だにしなかったのか、それはわからない。




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