178「畠山姓を名乗りたい」



菅原為繁(?―?)

左衛門佐、直則。広田直繁の子。叔父木戸忠朝や従兄弟の重朝らとともに羽生城に拠って北条氏と戦った。天正二年(一五七四)閏十一月、救援にやってきた上杉謙信の判断によって城を自落させた後、上野国へ移る。謙信没後は武田勝頼に従う。天正八年、羽生城回復を赤城山神社に祈願している。天正十八年、小田原攻めで豊臣秀吉に従った後、武州騎西に土着した。室は木戸忠朝の女。古今伝授の相伝者である東常縁の子孫。

◆永禄三年(一五六〇)およびその翌年の、長尾景虎(上杉謙信)の関東進出・小田原攻めは、次第に北条氏の優勢が決定的となる。永禄末年の越相一和によって一時は展望が開けたかに見えたが、結局は上杉・北条の相互不信が原因で、この講和は画餅と帰した。天正二年(一五七四)にはついに謙信は、利根川以南の関東経略から手をひくのである。

◆その間、利根川以南において最後まで頑強に北条氏に抵抗していたのが、武州羽生城の木戸一族だった。木戸忠朝とその兄広田直繁。直繁没後は、息子で忠朝の婿でもある菅原為繁が共闘した。

◆その菅原為繁が、妙な「お願い」を謙信に対してしたらしい。畠山氏への改姓である。改姓自体、珍しいことではないが、なぜ畠山姓だったのだろうか。元亀三年正月に謙信はこれに対して次のように回答している。

「長年の忠節うれしく思うぞ。この機会に名字を変えたいということだが、畠山にしたいって? 河内や能登の畠山は源氏であるし、関東の畠山は平氏だろう。菅原氏の畠山とは聞いたことがない。しかし、まあ、たっての望みとあれば、畠山左衛門佐と名乗るがよかろう」

◆いかにもアバウトな謙信らしいが、ちょっと違和感は抱いていたのであろう。為繁は証人として一時越後にも滞在していたといわれ、謙信も彼には甘かったようである。しかし、なぜ畠山なのか疑問は残るし、これ以後も為繁は文書上では菅原左衛門佐で通しているし、謙信も菅原左衛門佐宛で文書を発信している。謙信の「聞いたこともないぞ」の一言で為繁も思い直したのであろうか。

◆もともと木戸氏であったのだろうが、こちらは叔父の忠朝の家系が継承している。為繁の父は広田氏を称しているのに、為繁は広田ではなく菅原姓とバラバラである。広田姓については羽生城主木戸氏が広田氏(菅原氏)の血筋をひいているので、もうけた男子一名にその名跡を継がせたものだろう。これが為繁の父直繁である。為繁はこの広田を避け、菅原で通している。こだわりがあったのかもしれない。そのこだわりの菅原を変えてまで畠山への改姓を希望した。鎌倉時代の名将畠山重忠のことが念頭にあったのか、とも考えられるが、畠山への改姓願いは、為繁が、羽生城にいる叔父を応援するために武蔵国へ赴いて間もなくのことであった。迎えた妻が畠山氏かその故地に関係する女性であったのか。あるいは謙信から秩父方面への軍事行動を指示され、実行の折には平姓畠山氏にあやかろうと考えたが、その機会が来なかったということだろうか。

◆そして、天正二年、羽生城が越後から遠いために維持するのが困難と判断した謙信は、城を破却して、木戸・菅原一族らに上州へ移るよう命じた。この時、城主木戸忠朝は戦死した模様である。菅原為繁は命じられたとおり上州へ移った。

◆謙信の没後、羽生回復の夢を託して武田勝頼に従った菅原為繁であったが、ついにその望みはかなわなかった。天正十年には武田氏が滅亡し、為繁は武蔵国忍の成田氏を頼った。もともと成田氏への抑えとして差し置かれていた木戸・菅原一族であるから、これは耐え難いものがあったろう。その間、岩付浄国寺に仏眼舎利を寄進している。玄奘三蔵が天竺からもたらし、玄宗皇帝の宝物となったという由来があるもので、日本へ渡来した後、尾張の熱田神宮に奉納された。菅原為繁はこの熱田神宮宮司の子孫でもある。為繁はこの仏舎利を大切に供養していたが、不思議なことがたびたびおこるので、浄国寺に寄進したのだという。

◆ちなみに、仏眼舎利は寺が質入れしてしまい、そのまま戻ってこなかったそうである。為繁の子孫は正能氏を称した。菅原畠山氏も幻と消えてしまったらしい。




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