171「シリーズ武蔵の孤独・お杉婆は実在した!?」



理応院(?―1652)

田原甚兵衛久光室。宇喜多秀家の家臣小原信忠の女。久光との間に四男をもうける。宮本武蔵は義弟にあたり、後に武蔵の養子となった伊織貞次は二男。一族に従って九州へ移住した。法名理応院妙感日正。

◆吉川英治の『宮本武蔵』で何とも強烈な印象を読者に与える存在が、本位田の隠居であるお杉婆であろう。作中、彼女ほど自分の気持ちをストレートに表現し、能動的に生きる女性キャラクターはいない。狡猾にして愚昧、残忍にして子煩悩。剣豪武蔵の敵は、まず老婆というのが意表をついていた。だが、作中のお杉婆は単に、息子の悪友であり、息子の嫁を誑かした武蔵と敵同士であるばかりではない。巌流島の決闘直前、両者は唐突に和解する。武蔵にとって、お杉婆との和解は自分を置き去りにして家を出た「母」への「ゆるし」であったと言ってもいい。

◆お杉婆はもちろん架空の人物であるが、実際、武蔵には一族中に対立する女性の存在があったと考えられている。

◆武蔵には三人の養子がいる。造酒助、伊織貞次、平尾(竹村)与右衛門である。造酒助は武蔵の外孫、伊織は甥。与右衛門も血のつながりはなかっただろうが、養家宮本氏に連なる平尾家の出身であり、天賦の才を野に見出すどころか、次々に縁者を取り上げていたのである。三人の養子のうち、剣の道にすすみ、名人の域に達したのは、平尾与右衛門だけである。武蔵の門弟をつぶさに検証すれば、そこにさらなる地縁・血縁を見出すことだろう。

◆いくら強いとはいえ、一介の武芸者が諸国を経巡って、あちこちで門弟を抱えられるわけがない。武蔵はおのれの道統を継ぐべき者を、縁者の中に必死に求めようとしたのではないだろうか。

◆理応院が恐れたのは、義弟武蔵が自分の息子たちに目をつけたことだった。

◆理応院が武蔵の剣の道を否定するのには彼女なりの理由があった。理応院は小原氏の出身である。小原氏は武蔵の生国である播磨の隣国摂津国有馬郡の小原城の城主であった。祖父小原信利は黒田如水に従って、天正十四年(一五八六)、秀吉の九州征伐に従軍。翌年、豊前香春岳城攻略の時に討死した。そして、その子信忠(理応院の父)は播磨三木城主中川右衛門大夫の配下となり、宇喜多秀家に属して朝鮮へ渡り、彼の地で戦死した。

◆さらに想像をたくましくするとすれば、理応院は摂津有馬郡の出身であり、武蔵が最初に倒した相手、有馬喜兵衛との関係も想起されよう。有馬がどのような人物であったかはわからないが、摂津の有馬氏は小原氏にとっては主筋であった。理応院は当然、同郷の有馬が義弟に打ち殺されたことを聞かされていたかもしれない。十三歳で人を撲殺するとは、理応院にとって耳をおおいたくなるような残酷な話であった。その殺人鬼が他ならぬ自分の夫の弟なのである。

◆祖父・父二代続いての戦死は、小原一族でただひとり残った理応院に、ある決意をかためさせた。それは自分の子供たちをいくさ人にはさせない、十三歳で人を殺すような人間にはなってほしくない、ということである。理応院は家が絶えようとしている実家の小原家を、自分の息子のひとりに継がせたかったに違いない。だが、それには戦ではなく、別の道で生計をたてて家名を全うして欲しいという願いがあった。

◆理応院の願いどおり、三男貞隆(玄昌)は医業を修め、小原家を継いだ。四男貞利(玄格)も医者として秋月氏に仕えた。末子の正久は播磨国で商人となった。田原家は小笠原藩家老にまで出世した宮本伊織貞次に属して小倉へ移った。その伊織もまた剣の道を進まず、政治家として立身していった。

◆成人前に美作へ養子に出された武蔵と、その兄田原甚兵衛のもとへ嫁いできた理応院がいつ頃、出会ったかはわからないが、「異相があり、性格が偏っている」と言われた武蔵である。肝をつぶしたに違いない。結婚した相手の親族にとんでもないゴロツキがいた、といったところか。

◆吉川英治の小説で、お杉婆は関ヶ原から村へ戻ってきた武蔵に向かって言う。

「かやせ。又八をかやせ」

◆ただし、理応院は年齢を推定しても、武蔵と同年代かやや若かったであろう。粗野な義弟の武蔵に、わが子らをとられまいとする健気な女の姿を想像してもよいかと思う。とすると、タイトルは「お杉婆は実在した!?」よりも「お通は実在した!?」のほうがよかったんだろうか。

◆結局、理応院の手から伊織を得たものの、武蔵のめがねちがいだったか、伊織の意志によるものか、剣の道統はついに血縁者に伝えることができなかった。武蔵が小倉を去って、肥後の細川家へ移った理由もそこにあるかもしれない。

◆武蔵の道統を断ち切った女、それが理応院であった。



*筆者註:「シリーズ武蔵の孤独」は原田夢果史氏の『真説宮本武蔵』に多くを拠っていることを付記しておきます。
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