170「シリーズ武蔵の孤独・又八という怨念」



本位田外記(1563?―1589)

実名不詳。美作国竹山城主新免伊賀守の次席家老と伝えられるが不明。宮本無二之助について当理流十手術を修める。天正五年(一五七七)、新免氏より小房城を預けられる。羽柴秀吉の中国経略に際して、使者として秀吉のもとへ赴いた。天正十七年、竹山城下において上位討ちに遭い、無二之助あるいは平田武仁に討たれたと伝えられている。

◆吉川英治は畢生の大作『宮本武蔵』で、本位田一族を登場させ、とりわけその惣領息子・又八を同年代の若者として主人公武蔵に相対させた。

◆間もなく、「吉川武蔵」に対してクレームがついた。本位田祥男という帝大の経済学者だった。「学生に又八呼ばわりされて困っている」「自分の先祖に又八などという者はいない」という内容の記事が新聞に掲載された。ここで多くの読者は、本位田氏というのが実在する一族であり、では、又八も作者の創作した人物ではなかったのかと、一瞬、錯誤に陥ってしまうのである。

◆単に創作と笑い飛ばすことができず、「自分の先祖に又八という者はいない」と言い切るくらいだから、本位田祥男博士の家に先祖書か何かが伝わっていたのであろう。自分のところの系図にも又八はおらないし、関ヶ原へ出陣したという者も見当たらぬ。かりに出陣していたとしても、雑兵ふぜいではなく、れっきとした侍大将たる身分であったろう、とその自信には恐れ入るほかはない。実際、歴史小説作家のもとには、「自分の先祖を貶めて描いている。けしからん」といった手紙がけっこう舞い込んでくるものらしい。大河ドラマなども同様で、放送局にクレームをつけたものの対応が不満ということで無言電話を繰り返しかけて逮捕された者もいる。

◆吉川英治もこれには辟易したらしく、小説と史実を混同しないでほしいと悲鳴にも似た抗弁を試みている。だいたい本位田という姓からして、「本位田だの、中位田だの、岡山周辺古くから存在する姓で、古代の官田の称が名字に転化したもの」であるに過ぎないとしている。ちなみに、毛利元就の子供のひとりが備中の穂井田氏(穂田とも)の養子に入っている。この穂井田氏も読み方を変えれば、「ホイデン」。本位田と似ている。語源はもともと同一だったのではあるまいか。今どきの歴史作家にこのように抗弁する人物はあまりいないのではないだろうか。正直な話、一々、こまかい話に耳を傾けていたら小説の構想を練るどころではなくなり、ノイローゼになってしまうのがオチだからだ。

◆もっとも「本位田又八」事件については、これが契機となって、吉川英治と本位田祥男の間に交流も生まれたようである。現代の我々から見れば、学生たちから「又八、又八」とからかわれる教授に、夏目漱石の『坊っちゃん』あたりを連想してユーモラスな印象を抱く向きもあろう。だが、新聞(全国紙である)に投稿するくらいであるから、当の本位田教授には自らを笑い飛ばす気などサラサラなく、本心からまいっていたのであろうと思われる。

◆本位田氏の中で今に名が伝わっているのは、宮本無二之丞(無二之助一真か)の槍術の弟子である外記という人物である。天正年間、周囲の勢力がみな反織田氏という状況の中で、新免伊賀守則種は中国経略に乗り出した羽柴秀吉に好を通じた。当然双方で人質の交換が行われたことであろうが、この時、新免伊賀守の命で秀吉側の人質を受け取ったのが、本位田外記であった。

◆外記は、四囲みな敵という状況下、沙門に化けて、秀吉のもとを訪れ、無事に人質を受け取ることができた。秀吉から新免伊賀守に宛てた密書は、外記が竹の杖の中に仕込んで持ち帰ったと伝えられ、その杖が遺品として新免家に伝わっているそうである。

◆この本位田外記は、上意討ちに遭ったとされている。原因はよくわかっていない。討っ手は平田将監あるいは無二斎であるが、これを武蔵の養父宮本無二之丞や「平田系図」に出てくる平田武仁に比定したり、とだいぶ混乱している。通説では、若い外記を警戒した平田無二斎が「奥義を授ける」と誘い出して、巧妙に刀を取り上げた上で騙し討ったとされている。一方で、主命と弟子への愛情に懊悩する無二斎の様子を見て、外記が潔く自刃して忠義に殉じたとする美談(?)まで創られている。時に外記、二十七歳であったというが、これも矛盾が残る。

◆又八の行状は、映像よりも文章のほうが辛辣であるように筆者には思われる。また、主人公の引き立て役ではなく、慶長年間の等身大の一個人を描いたと吉川氏が主張するのであれば、本位田はともかく、マタハチの名は再考したほうがよかったかもしれない。本位田祥男教授はおそらくマタハチの語感が耐えがたかったのではないか、と想像する。




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