168「黄色い梅の記」



黄梅院(1543―1569)

武田信玄の長女。母は三条氏。北条氏政正室。実名は不詳。天文二十二年(一五五三)、北条氏政と婚約。翌年十二月に嫁ぎ、嗣子氏直をはじめ数人の男子をもうける。永禄十一年(一五六八)、信玄の駿河侵攻によって、甲相駿三国同盟が破綻。越相一和が成立した結果、永禄十二年に離別されて実家へ戻った。同年出家して黄梅院と号したが、六月十七日に死去した。一説には甲斐には戻らず、同年六月十七日に小田原で死去したとも伝えられている。法名黄梅院殿春林宗芳大禅定尼。

◆典型的な政略結婚だった。だが、嫁いだ後もこれほど父親から気遣われた女性も少なかったのではないだろうか。

◆彼女の輿入れの模様は、『妙法寺記』が詳細に伝えている。

去程に甲州一家国人色々様々のキラメキ、或は熨斗付、或は梅花皮(カイラギ。鮫皮の鞘)、或はカタ熨斗付、或は金覆輪鞍。輿は十二挺。米岐女(降魔のための蟇目の矢を射る作法)の役は小山田弥三郎殿なされ候。御供の騎馬甲州より三千騎、人数は一万人、長持四十二挺。請取渡は上野原にて御座候。相州より御迎には遠山殿、桑原殿、松田殿、是も五千計にて罷越候。去程に甲州の人数は悉皆小田原にて越年成され候。

◆本当か、と疑いたくなる。一万、五千という数字に誇張はあるにしても、武田家から出した警護の人数は国境で花嫁を渡すのではなく、そのまま小田原に入り、年越ししたというのだ。ちょっとした大軍勢が駐屯するのも驚きならば、それを許した北条氏もよほど武田氏を信頼していたのであろう。また、信玄も娘をひとり小田原に置き去りにするにしのびなかったのかもしれない。時に黄梅院、十一歳。

◆嫁いだ娘からは、懐妊するたびに甲斐へ使者が走ったものと思われる。信玄はそのたびに富士浅間神社に自ら筆をとった安産祈願の願文を捧げた。現在伝わっているのは弘治三年と永禄九年のものである(富士御室浅間神社文書)。

晴信息女北条氏政妻、当産平安無病延命、則従来歳戊午夏六月、長可抜船津之閉鎖、此乗士峰菩薩願轂、如意満足不可有疑者也、急々如律令、
ちゃんと生まれたら、来年の夏から富士参詣者のために船津の関を廃止しようと信玄は書いた。これによって生まれたのが、氏直とする本もあるが、氏直は永禄五年(一五六二)の生まれである。女性であったか。あるいはひょっとして早世した男子であるかもしれない。そのせいか、次の信玄の願文はより力が入っている。
信玄息女北条氏政簾中也、今時当妊懐之気候、来六七月之頃托胎必然歟、臨厥期而産平安、子母共無毫末之禍機者、帰富士浅間之神功、若夫祷祝不空、於中宮之室集一百衆之桑門而、令読誦法華経王、加之可奉納神駒矣、感応之一件刻日竢之、仍願状敬白、
生まれるのは来年夏ごろと言っている。つまり永禄十年にあたるわけで、これによって生まれたのは、おそらく太田氏房(永禄八年生)のさらに下の弟か妹であったろう。「母子ともに健やかだったら、百人の僧をして法華経を唱えてやろうぞ」なんて文句は、川中島合戦の折の「戦いに勝ったら三十三人の清僧をして三十三部法経を唱えてやろうぞ」という願文(信濃松原神社文書)にも通じて、現実的な信玄らしい。もちろん、安産だけでなく、永禄八年には黄梅院の病気平癒の願文も奉げているのだから、それだけ娘のことを思っていたのであろうが。

◆それにしても、氏政と黄梅院。この夫婦はよほど相性がよかったのだろう。氏康の子は多かったが、その孫をもっとも多く生んだのは氏政・黄梅院夫婦である。とにかく、やれば当たりという状態で、よくよく母体も頑健であったのだろうと思う。それが、三十にも満たないうちに亡くなってしまうとは、そこに異常な理由(自害など)の介在も感じないわけではないが、詮索する手段もない。

◆息子を処断するような冷徹な武田信玄にも、はじめての娘を嫁がせた父親の心情をおさえることは、さすがにできなかったのであろうか。若くして逝った娘のために黄梅院を建立した。他方、小田原北条氏もこの薄幸の嫁をないがしろにはしなかった。天正三年(一五七五)、氏政は亡き妻の法名と同じ名の塔頭を早雲寺内に建立し、その菩提を弔ったと伝えられている。

◆甲斐と小田原のふたつの黄梅院。今、前者はわずかにその痕跡をとどめるに過ぎず、後者は春秋幾星霜のうちに幻と消えた。だが、高野山に残る北条氏過去帳には黄梅院の名がたしかに記されている。氏政は生き別れとなった妻をずっと思い続けていたのであろう。




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