166「ムカデ姫、参上!」



お武の方(1573―1663)

蒲生氏郷の叔父・会津南山城主小倉行隆の女。名はお武の方ともいわれる。文禄元年(一五九二)十二月、南部利直と婚約。慶長三年(一五九八)、利直に嫁ぎ、後の三代藩主重直をもうけた。南部家に嫁いだ時期については異説もある。慶長十四年、重直ともども江戸定詰となり、寛文三年(一六六三)七月二十六日に江戸桜田の南部屋敷で没した。法名源秀院。墓所は盛岡光台寺。

◆奥州北隅の大名南部家に対し、豊臣氏の全国政権への参加パスポートが会津から届けられることになった。九戸政実の乱鎮圧の総大将・蒲生氏郷はいにしえの田原藤太(藤原秀郷)の後裔といわれている。また、蒲生氏郷は、その勇名、毛並みのよさ、どれをとっても豊臣政権でひときわ光をはなつ存在であり、先の九戸の乱に際しては、南部家にとっては、まさに救国の英雄といえた。

◆南部利直の婚儀の相手である武姫は氏郷の養妹であったが、相応の礼を尽くしたものであったことは、その持参するところに蒲生家の秘宝を携えていたことでもわかる。田原藤太が大ムカデを退治した際に使用したと伝えられる矢の根石であった。諸本によって異なるが、田原藤太が大蛇の懇願によって、迫害者たるムカデを退治する話は、竜宮伝説として語られている。ムカデの大きさを示すのに、三上山を七巻き半もする形容から、おそらくは琵琶湖周辺に流布された逸話であったろう。

◆その矢の根石なるものの真偽はここでは問わない。蒲生家ではそう信じられていたのであろう。その家宝ともいうべき矢の根を持参金がわりに持たせるほど、蒲生家のほうでも南部家との婚姻に期待を寄せていたのであろう。田原藤太ムカデ退治の伝承は、近江周辺の採鉄をめぐる新旧勢力の争いに根源を求める説もある。南部鉄を産する地に伝えられたとするのも何かの作為が働いているのかもしれない。

◆だが、その矢の根石に何らかの効力というものがあったとすれば、それを放出した蒲生家は運に見放されてしまったのかもしれない。氏郷すでに亡く、当時としてはオールドミスともいえる武姫が片づくのを待っていたかのように、蒲生家は重臣間の争いからついに会津領を失い、下野へ転封されてしまうのである。石高は会津領時代の八分の一近い十二万石。南部家にとっては、嫁の価値も半分以下になったという思いが強かったのではあるまいか。

◆その後、お武の方となった武姫が、南部家でどのような扱いを受けたかはわからない。しかし、蒲生家からつき従ってきた侍女で、山田長豊の妹が利直の側室になった。お武の方は嫡男をもうけたものの、間もなく江戸で人質生活を送ることになる。

◆お武の方(源秀院)は九十余歳の長命を保ったが、亡くなった時に遺体に異様な形の変色が見られた。それはムカデに似ていたため、「すわ、矢の根に残っていた大ムカデの呪いか」と人々を気味悪がらせた。ムカデは水を嫌うというので、源秀院の墓の周囲には堀がめぐらされた。墓に架けた橋はムカデによって壊されるので、何度も架け替えられたという言い伝えも残っている。源秀院はいつしか、ムカデ姫と呼ばれるようになった。

◆南部家が幕末まで続いたのも、田原藤太ムカデ退治の矢の根石のご利益であったのだろうか。いちばんおいしい思いをしたのは、お武の方の輿入れに付き従ってきた侍女(山田長豊妹)までも手に入れてしまった南部利直であったろう。そう考えると、一連の怪事は、いにしえの大ムカデの呪いなどではなく、ムカデ姫こと源秀院の嫉妬を恐れた南部家の人々の妄想であったかもしれない。

◆一説に拠れば、ムカデを射た矢の根は京都妙心寺に納められているとか。他の藤原秀郷遺品は蒲生家に伝えられていたが、同家が断絶してから、親戚筋の浅野家に蔵しているという。浅野家家老大石氏は田原藤太の子孫であるという。

◆南部家に嫁いだお武の方の遺品も現在に伝えられている。それは矢の根石などではなく、高四センチ、径二センチの厨子に収まる小さなマリア観音像である。キリシタンであった兄氏郷の感化によるものであったろうか。お武の方に関する怪談じみた話の出所は、キリシタンを信奉していたというあたりにも求められそうである。




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