165「静かなる男、怒号す」



戸田勝成(?―1600)

勝重、重政、半右衛門、武蔵守。民部少輔勝隆の弟。織田信長の馬廻りで、後に丹羽長秀に仕える。長秀没後、豊臣秀吉直臣となり、一万石を与えられ、越前安居城主となる。以後、九州征伐、小田原攻めに従軍。伏見城普請の功により一万石を加増。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦で西軍に与し、奮戦。討死した。交友が広く、敵味方からもその死を惜しまれたという。

◆関ヶ原の合戦において、西軍大名中、戦死したのは大谷吉継、平塚為広、戸田勝成らである。今日、両軍の布陣図をみてみれば、この三名は揃って反応軍のそばに陣していた人々ということがわかる。小早川秀秋以下の内応が明らかになった時、もろに側面から攻撃をかけられ、真っ先に被害を蒙ったであろうと想像する。だが、敗勢覆うべくもなくなった時、戦場を離脱せず、屍を関ヶ原にさらしたのは、彼等が西軍の内情をよく理解していたからではないだろうか。それぞれの思惑を秘めた「よせ集め」である、と。

◆戦前の軍議の席上、西軍諸将は石田三成の野戦論、宇喜多秀家の大垣籠城論が出た。しかし、主導権を握る三成の戦法に一決した。いざ、出陣と諸将が表で出ようとした時のことである。それまで、末席に控えていた戸田勝成が声をあげた。

勝成「われ、末座にありながら、中納言様(宇喜多秀家)、また奉行衆の御前も憚らず申し上げる。こたびの合戦は大事なれば、利あらずば、それがしは一足も去らず討死いたす所存。これについて御大身の方々に申し上げたい。本来、人命を惜しむ習いに貴賤の別なし。もし、われら小身者を眼前に捨て殺しにいたし、自分ひとり死を恐れて、この戦場を生きて逃れたならば、百年寿命を保とうとも、名は末代までも汚れましょうぞ。この場で二心ある御方は、この武蔵守の言に恥じて、ただちに志を改めていただきたい」

おそらく、それまで存在すらも忘れられていたのではないだろうか。通常であれば同席さえ許されない身分の人々に混じって、戸田勝成は机上で奄々繰り出される空疎な戦略を聞かされていた。が、ついにこの死を覚悟していた控えめな武人は、生涯一度の激語を吐いた。「二心ある御方」とは、内応の風聞が絶えない小早川秀秋であろうし、あるいは戦意に乏しそうな西国大名たちを暗に指していたのであろう。あんたたち、やる気はあるのか、と。

◆全員、総毛だった。元亀年間にすでに勝成は織田信長の馬廻りとして活躍していたというから、この頃はすでに五十歳を超えていたのではないか。わずか二万石の初老の武士がひとまわりもふたまわりも若い面々に向かって怒気を含んだ言葉を発しているのである。ややあって、石田三成が言った、

三成「武蔵守は若年の頃から気色ばんだことがなかったのに、今この時にあたって、荒言を申されるは御忠節のほどまことに頼もしい。味方の勇みともなるであろう」

◆三成はさすがに見事なコーディネーターであった。勝成の無礼ともとれる放言を、全軍の士気昂揚へと転化させた。やがて、全員退出し、やがて順次、大垣城を出て関ヶ原へ進軍していった。

◆現代でもこうした場面、髣髴とさせるシーンがないだろうか。上のほうで何やらゴチャゴチャやっているのをズーッと聞かされてきて、とうとう「あなたたち、ほんとにやる気あるんですか!?」と叫んでしまう。場は一瞬白けて、叫んだ本人はため息をついているようなことって。

◆九月十五日、決戦の日。乱軍の中にあって、戸田勝成は織田河内守の軍勢と戦い、討死を遂げた。嫡男内記も討死し、ここに戸田隊は生前の勝成が演説したとおり、軽輩にいたるまで踏みとどまり、ほぼ全滅したのである。

◆戸田勝成は旧知の津田長門守信成と鑓をあわせ、突き伏せられた。そこを織田家の家臣山崎源太郎が横合いから首を横取りせんと走り出た。勝成は山崎をハタと睨んで叫んだ、

勝成「将たる者の首を取るには法がある。汝、覚悟はあるのか」

一喝されて、山崎は怯み、かわってその主人織田河内守が「うけたまわる」と応じて、首をとったという。


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