164「ガラシャ、光秀の子にあらず!?」



細川ガラシャ(1563―1600)

玉、伽羅奢。細川忠興室。父は明智光秀、母は妻木範熈の女。二女あるいは三女の諸説あり。天正六年(一五七八)、忠興に嫁ぐ。忠興との間に三男二女をもうける。天正十年、本能寺の変によって丹後味戸野へ幽閉される。天正十五年、受洗。フロイスの『日本史』や書簡等に動向が散見される。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦直前、西軍の人質として大坂城へ入ることを拒み、玉造の屋敷で自刃。法名秀林院殿華屋宗玉大姉。

◆叛将・明智光秀を父に持ち、その負い目を受けたがゆえに輝かしい栄光の日々に背を向けた後半生を生きた細川ガラシャ。その苦悩と悲劇の生涯は、光秀の主君弑逆に端を発したように思われがちだが、四十年以上も前に福岡県の郷土史家が「ガラシャ養女説」を提唱したことがある。

◆郷土史家・井上盧城は、「政治評論家・細川隆元氏がガラシャ夫人を通じて、叛臣明智光秀の血につながっているかに誤解されている」ところから自身の情報開示に踏み切ったらしい。近くは日本新党躍進に湧いた頃、元首相のルーツとして、細川氏がとりあげられ、ガラシャの血筋と喧伝もされた。が、少し江戸時代初期の細川家の歴史をひもとけば、元首相にガラシャの血も光秀の血も入っていないことは明らかだ。ガラシャの血は細川忠興によって廃嫡された嫡男忠隆の系統に残り、前述の評論家に至っているといえる。ところが、井上盧城によれば、彼の中に明智光秀の血は入っていないのだという。

◆井上盧城が久留米の篠山神社文書の中から発見した「石田家覚書」には、ガラシャの実父は京都所司代石田備後守であると記されている。この「石田家覚書(石田名字ノ事)」は久留米藩士石田良長が両親からの聞書きをまとめた全編三十一箇条の由緒書である。

◆石田家の先祖は丹波福知山に住んでおり、一族の備後守が京都所司代の役職にあったとする。もっとも室町幕府の職制で京都所司代というものがあったかどうかは心許ない。石田備後守と妻の大岡殿(近江国鯰江出身)は播磨国三木で病没。子供は一男一女で、この女性が明智日向守の養女となり、成人して細川越中守に嫁いだ。すなわち、ガラシャである。これには、石田家の史料にも異同があり、旧久留米藩士稲次成令蔵の「有馬家系図」では、「石田備後守一男三女有リ、男ハ右兵衛、二女花宮ニ明智日向守養女トシテ細川越中守室トス云々」とある。男子のほうは織田信長に千二百石で仕え、この子孫が後に久留米藩士として続く。

◆「石田家覚書」には、系図も挿み込まれていて、ガラシャに相当する女性の名は「玉(たま)」ではなく、やはり「花宮」と記されている。筆者は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」というガラシャの辞世からつくった名ではと勘ぐってしまうのだが(辞世といわれているものも数種類ある)。あるいは、明智家の養女となった際に「玉」と名づけられたものか。

◆ところで、ガラシャの両親が没したという播磨国三木と、彼女の兄弟の子孫が住する久留米はどう繋がるのか。それは有馬氏(久留米藩)の存在である。播磨国三木は有馬氏の故地である。ガラシャの兄弟とされる石田右兵衛の子勘助長政(入道宗哥)は渡瀬左衛門佐(豊臣秀次重臣)に仕えていたが、後に有馬玄蕃頭豊氏に従い五十人扶持を給された。渡瀬左衛門佐の所領遠江国横須賀を有馬豊氏が継承したため、勘助長政もこの時に有馬家へ移ったものらしい。関ヶ原合戦の戦功で丹波福知山に移封された。元和七年に石田長政は丹波福知山で没しているが、その子で五郎兵衛良長(「石田家覚書」の筆者)は有馬家に仕え、主家の移封(福知山→久留米)に従い、島原の乱鎮圧にも従軍した。

◆とはいうものの、ガラシャ養女説はこれまで黙殺されてきている。「石田家覚書」は近世の編纂であるし、由緒書という性格上、自己の都合で史実を歪曲している可能性もある。京都所司代(?)石田備後守の事蹟が明らかにならないかぎり、稗史野乗のひとつとして消えていく運命にあるのかもしれない。

◆上総英郎氏は「(ガラシャは)京都所司代石田備後守の娘ともいわれているようだが、幼少時代に明智家の養女となったのだから、血筋のうえにさほどこだわる必要もない。たとえ養女であったにせよ、一向に構わないと思う。養女であれば明智から細川という家にはいって血のきづなに頼られぬ境遇に玉がおかれていたとすれば、それだけ人の心の動きに敏感な気質がうまれてくることであろうし、むしろそのほうが細川夫人の内面性をより明かしてくれるからである」と述べているが、そのとおりであろう。光秀の実子であったにせよ、養女であったにせよ、その一生の価値に違いはない。




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