155「島津家最大の危機(後)」



島津歳久(1537―1592)

又六郎、左衛門尉。入道晴蓑。島津貴久の三男。祁答院領一万八千石を称す。兄義久を助けて九州平定に尽力するが、天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の征討を受けた。義久降伏後も抵抗し、薩摩に入った秀吉への出仕を拒んだ。天正二十年、秀吉の忌避に遭い、七月十八日、竜ヶ水で自害。法名心岳良空大禅伯。

◆朝鮮出兵における島津勢の遅陣、梅北国兼による一揆の勃発は、島津家に対する豊臣秀吉の心証を著しく悪くした。もともと、島津家は秀吉の屈服して以後は一枚岩ではなく、豊臣政権に協力的な義弘と、非協力的な当主義久、歳久らに二分されていた。豊臣家の奉行石田三成も島津の面従腹背ぶりには呆れ果てていた。

◆秀吉もここらで島津を手痛い目に遭わせてやろうと思ったのではないだろうか。義久の弟で、病気を理由に朝鮮陣に従軍せず国許に残っている島津歳久に目をつけた。実は秀吉は歳久には忘れられない因縁があった。

◆秀吉が九州を平定した際、最後まで抵抗したのが島津歳久であったといわれる。そればかりか、島津氏降伏後、秀吉が祁答院を通過した際に、その輿へ矢を射かけた者があった。それが、歳久の家臣であったという。上方勢との戦いで、嫡男忠隣(実は養子)を失っていた歳久は秀吉への敵愾心を捨てきれずにいた。

◆秀吉による九州仕置後も、病いと称して出仕することなく領地に引き籠っていた。やがて時が流れて、全国統一を成し遂げた秀吉が朝鮮半島へ出兵する。島津氏は、当主義久が老齢という理由で渡海を免ぜられたかわりに、義久の二人の弟、義弘と歳久に兵を率いて名護屋へ参陣するよう命じられた。

◆義弘はこれに応じたが、歳久自身は病気と称して領地を出なかった。歳久の病は事実だったらしい。だが、秀吉は歳久を快く思っていない。折も折、梅北国兼らが肥後佐敷城を奪って叛乱を企てる事件が起こった。この梅北一揆に、歳久の家臣たちが多く加わっていたことが判明し、秀吉の怒りは頂点に達した。

「祁答院(歳久)が九州陣の折に働いた無礼は許し難い。その時に誅伐を加えてもよかったのだが、義弘らが赦免を願い出たのでやむを得ず許したのだ。先の梅北一揆にも祁答院の部下が一味していたと聞いておる。今度も命令に反して、高麗へ渡海しないならば、祁答院の首を即刻刎ねよ」

◆細川幽斎を通じて厳命が伝えられた。こうなればやむを得ない。義久ももはや弟を庇いきれなくなった。

◆一方、鹿児島に滞在していた歳久は、秀吉の使者が至るや、舟に乗って居城宮の城に戻って自害を遂げようとした。が、義久はその行く手に兵を派してこれを阻ませた。歳久は帰城をあきらめた。

歳久「いたしかたなし。兄上に向かって弓は引けん」

◆歳久につき従う本田四郎右衛門、木脇民部、成合城介ら百余人も「われらもどこまでもお供つかまつりまする。ひとりたりとも生き長らえますまい」と決死の覚悟。ところが討手も見知った顔ばかり。ただ歳久主従のあとをチョロチョロついていくだけで、なかなか攻めかけようとはしない。

◆だが、ついに竜ヶ水で歳久の家臣たちと義久の討手は交戦。歳久の家臣たちは全滅した。歳久は切腹しようとしたが、病気のため手の自由がきかなかった。歳久は討手の勢へ向かって叫んだ。

歳久「これ。誰か早くわしの首をとれ」

◆歳久の首級は原田甚次という者が討った。しかし、その瞬間、討手は皆々、鑓、刀を投げ捨てて号泣した。ひとりが歳久のきせながのところを探ると、一書が出て来た。

「わしは病いに侵され、殿下に伺候することができなかった。しかし、殿下に対し何の含むところはない。今、ご不審を被り、お家安泰のため切腹せんとす。しかし、家来どもは承服し難いらしい。こうなってはやむを得ない。しかし、これは太守(義久)に向かって弓を引くのではない。わしも家来たちも武勇の本分をもって暫時の合戦に励むものである」

これが歳久の遺書だった。

◆歳久の首は京都に送られて、一条戻り橋に曝された。秀吉は満足気に「祁答院の一類に成敗を加え、早々に首が届いたので満足している」という趣旨の書状を義久に宛てて書いた。これを受け取った義久の胸中はいかばかりであったろうか。

◆ともあれ、島津家は改易の危機を回避することができた。

◆島津歳久を祭神とする平松神社は、明治以前は心岳寺という寺であった。秀吉が死んだ後、義久が弟の菩提を弔うために創建されたものである。




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