151「オールド六文銭」



真田信政(1598―1658)

仙千代、従五位下大内記。真田信之の二男。慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣に兄信吉とともに従軍。翌年の夏の陣にも再び出陣した。兄信吉の死後、父信之の後継者と目されたが、実際に家督を嗣いだのは室は稲垣重綱の女であるが、明暦元年に離別している。側室に「御袋様」と呼ばれた高橋氏、小野氏などがある。

◆この人物は何とも言いようのない不満というものを、人知れず心の奥底に飼いながら生涯を送ったのであろうか。

◆関ヶ原の合戦では四歳で江戸へ人質に出された。慶長十九年、兄河内守信吉とともに大坂冬の陣に従軍した時はまだ十八歳であった。東西和睦の後、叔父真田幸村が兄弟の陣所を訪ねてきた。兄信吉は「弟の内記です」と紹介してくれたが、叔父はそうか、とうなずいたきりで一向に話しかけてきてくれない。幸村は信吉の器量を褒めたが、信政のほうは凡人だと断じてそういう態度に出たのだろうか。

◆妾だけは結構いたらしい。せっかくもらった妻とは離婚。側室に高橋氏があったことが伝わっており、「殿さまの女ひでりを癒そう」という家臣の才覚(?)というのが、「上州下平村の百姓五郎左衛門という者の妹」という説もある。有名な小野お通の娘お円も信政の妾である。「将軍の御供で上洛した時に、小野お通の娘を呼んで一晩遊んで孕ませた」と書いているものもある。他にも自性院、永寿院、某氏など名もわからぬ者までいた。

◆そんな信政にも転機が訪れた。沼田藩主である兄信吉が急死したのである。真田宗家の家督の座が、信政へ与えられる可能性が高くなった。信政、時に三十八歳。だが、相続したのは沼田領だけだった。ここで信政は五万両もの貯金をこしらえたが、念願の松代相続が決定した際、ごっそり新領地へ持っていってしまい、沼田衆から顰蹙を買った。

◆父信之が九十歳を越えてなお矍鑠としていたため、信政の家督相続は実に六十一歳の時。人生五十年という時代の話である現代でも定年間近、あるいはとっくに現役引退している人もいる。

◆そして、松代に初入部を果たした翌年の二月、数万両の貯金を使うこともなく、あっけなく信政はこの世を去ってしまうのである。享年六十二歳であった。

◆藩政運営もへったくれもない。家督を相続してから一年あまり。松代へ初入部してからわずか数ヶ月という期間である。あとには幼少の右衛門が残された。

◆ところが、信政はとんでもない最後っ屁を遺していった。信政は死にあたって、自筆の遺書をしたためており、これを自分の死後、将軍家へ届け出るようにと腹心の小山田釆女と金井弥平兵衛に言い渡してあったのだ。

◆家臣たちは驚いた。隠居の信之も内容を知らない書置きをおいそれと将軍家へ提出できるわけがない、と大熊靱負、出浦五左衛門が騒いだ。遺言執行者の一人に指名された小山田釆女も「一当斎さまに見ていただかなくては」と二の足を踏んだ。相談の結果、海津城外の柴村に隠居している信之に信政の書置きの下書きとすでに封がしてある清書を差し出した。信之は下書きのほうだけを読み、封書のほうは返した。

信之「公儀へ書置きがあるというのに、われらにあてた遺言状はないのか。あやつは真田家の家督などどうなってもいいと考えておったのか」

◆この時の信政の遺書の文言を読み、信之はこれを書き改めた上で自身の添状とともに幕府へ届け出た。信政の書置きのとおりであったら、跡目相続は危ないところであった。それを未然に防いだ信之の智恵を老臣たちは賞賛した、と『古老物語』は記している。

◆実は信政急死の裏で、幕閣酒井忠清が沼田藩主真田伊賀守に松代十万石をも相続させようという陰謀がすすめられていたという。前沼田藩主河内守信吉の後室は酒井忠清の叔母であったのだ。

◆酒井の目論みは真田信之によって打ち砕かれたが、真田家中は松代派・沼田派に分裂して騒然となったと伝えられている。

◆ところで、大坂冬の陣和睦直後、寄せ手の陣を訪れた叔父幸村はなぜ信吉とのみ喋って、信政と言葉を交わさなかったのか。実は幸村と信吉の境遇は非常によく似ているのである。若い頃の京都住まい、兄が沼田に転じ、父の側にあったこと。違うのはその後の展開だけである。『翁物語』における、どこか悪意を感じる幸村と信政の叙述。それは、沼田藩士が信政とその系統の宗家相続を快く思っていないことの反映ではないだろうか。そして、同様に真田昌幸の手許に残された幸村への、沼田家中の複雑な思いも込められているのではないだろうか。




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