149「おんな六文銭」



大蓮院(1573?―1620)

真田信之室。徳川家康家臣本多忠勝の女。幼名おいね、御子亥、稲姫あるいは小松殿と称する。天正年間、家康の養女として真田信之に嫁ぐ。婚姻の時期は天正十四年(一五八六)、十六年と一定していない。信之との間に嫡男信吉、次男信政をもうける。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦直前、敵味方に分れた舅昌幸・義弟幸村を沼田城に入れることを拒んだ逸話が有名。元和六年(一六二〇)二月二十四日、鴻巣の旅宿で没したといわれる。大蓮院殿英誉晧月大禅定門。

◆『真田太平記』において紺野美沙子が演じた、少女っぽさと凛々しさと聡明さが同居した稲姫(小松殿)は長く人々の記憶に残るのではないだろうか。加えて女だてらに甲冑に身をかため、采配を手にする小松殿の肖像画は戦うヒロイン像を強くアピールしてくれている。

◆この小松殿、そもそも舅の真田昌幸とはあわなかったらしい。それというのも徳川家康が「真田とは相性が悪い」という理由で自分の娘を蒲生氏郷の息子秀行にくれてしまい、いわばスペアとして徳川四天王のひとり本多忠勝の娘を養女として真田家に嫁がせてきた経緯があるからだ。それも本多忠勝の娘では、と昌幸が愚図ったために家康があらためて養女としたと記している書物もある。いずれにせよ、この婚姻は調うまでに紆余曲折があったらしい。

◆ドラマ『真田太平記』では小松殿が真田信幸も含めた花婿候補をひとりひとり扇の先で顎を持ち上げて品定めをする。男たちは鼻のしたをのばしてされるがままになっているのだが、信幸だけは「本多中務どのの娘御とも思われません!」と扇をはねのけて罵倒。小松殿はびっくりして退出してしまうが、その直後に父忠勝に対し、「自分を叱ったから、信幸どのに嫁ぎたい」と答える。加藤武演じる忠勝も目を細めてウム!

◆しかし、猛将本多忠勝の娘だけあって、実際、相当なはねっかえりだったらしい。「権現様(家康)へも、台徳院様(秀忠)へも御直に御前においてものを申す程」であるから、ハキハキとして物怖じしない性格だったようだ。我が子に対しても厳しくて、息子二人が無事に戦場から城へ帰陣するたびに「兄と弟、ふたりもいるのだからひとりくらい討死して忠節を尽せばよいものを」と言ったという(『大蓮院伝御事蹟稿』)。

◆関ヶ原の合戦で真田父子は敵味方に分れた。徳川方につくという真田信幸を残し、昌幸と幸村は会津攻めの陣を引き払い、上野国を経由して信州上田へ帰還した。途中、信幸が留守にしている沼田城を通過する。この時の昌幸の存念がいかなるものかはわからないが、孫の顔を見ていきたいという申し出を、小松殿は一蹴する。「聞けば、伊豆守どのとは敵味方になったとか。かくなる上は、夫の下知がないかぎり、城へお入れすることはできません」とアテナ神もかくやとばかり、武装してのお出迎え。小松殿とくればこの話、というぐらい有名なエピソードである。

◆この時ばかりは、昌幸も「さすがは本多中務の娘御」と感心し、すごすごと上田へ退いて行ったが、小松殿の活躍はこれにとどまらない。

◆夫の信幸は徳川秀忠軍に従って、伊勢崎の砦を奪い、続いて上田城攻めにかかっていた。父と兄を敵にまわして、さぞかし肩身の狭い思いをしているだろうと案じた小松殿は「ひょっとしたら、上田城に籠城している者たちの親類縁者がどのような行動をおこすともかぎらない」と家臣たちに秘計を授け、諸士の老母・女房・子供たちをなぐさめるためと触れさせて、城へ招き入れてしまったという。不安にかられていた家族たちは嬉々として城内へ入る。小松殿は女性や子供を終日饗応した。こうして、上田籠城衆の人質を、小松殿は一手に握ってしまったのである。『関原軍記大成』が伝える「真田信幸の妻の奇計」である。

◆だが、小松殿の本音は、真田家中の家族を戦火から守る措置であったのかもしれない。小松殿はこの事情を上田城攻めの陣中に告げ知らせると、信幸は大層喜んだという。身内でもある人質をおさえて有頂天になる信幸はちょっと想像できない。徳川勢によって家臣の家族や領民を人質にとられてしまうおそれもある。領民の安全を図った妻の措置を喜んだと解したほうが妥当なのではないだろうか。

◆一方、小松殿と相性がよくない昌幸はどうであろう。沼田城に入れてくれなかった小松殿に、昌幸は「さすがは本多中務の娘御」と賞賛した時はまだしも余裕があったかもしれないが、上田の人質をおさえられたと聞いた時の心地はどのようなものであったろうか。案外、歯ぎしりしながら悔しがりつつ、「息子はいい嫁をもった」とはじめて小松殿に親近感を抱いたのではないだろうか。軍略で生き抜いてきた真田家の嫁にふさわしい、と。




XFILE・MENU