144「養命酒、誕生す」



塩沢宗閑(?―?)

信濃国伊那郡大草の庄屋。実名は不詳。慶長七年(一六〇二)、本草学者伊藤恕雲から薬酒の製法を学び、養命酒を醸造したと伝えられている。翌慶長八年、養命酒を江戸に送り、徳川家康に献上した。

◆最初に養命酒の成分を記す。桂皮、紅花、地黄、芍薬、丁字、人参、防風、欝金、八雲草、淫羊霍、烏樟、杜仲、肉従蓉、反鼻(蝮のこと。原酒に生きたままの蝮を浸し、土中で醸す)である。これらの生薬にブドウ糖とアルコールを加えて作る。もちろんこれに非公表のプラスアルファがあるわけだが。いずれにしても、これだけの生薬を配合したら、とても高額になるんだそうである。そこから内容物について疑問が呈されたことも過去にはあったらしい。

◆慶長年間のある冬の日。場所は信州伊那谷。行き倒れが出たという知らせが、庄屋の塩沢宗閑のもとにもたらされた。慈悲深い宗閑は雪の中に生き倒れていた病人を自分の屋敷にひきとり、手厚く看護した。

◆助けられた老人は宗閑の好意にあまえ、三年ほど食客となっていたという。ところがある日、「これまでの恩に報いたい」と老人ははじめて身分を明かした。彼は本草学を修めた伊藤恕雲という人物だった。

恕雲「とはいえ、さすらいの身の上ではあなたの御恩に報いる術もない。自分はいささか本草学に通じている。この地は薬草にとっては気候風土もよく、この三年ほど付近を散策したところ、いくつか天然の原料が採れることもわかった。ついては、この地を去るにあたって、手前が存じている薬酒の調法をあなたに伝授いたしたい」

◆こうして、薬酒の製法を教わった宗閑は、これをもって人々のために尽くそうと決心し、自らペットの牛にまたがって赤石山地に分け入り、薬草を採取してまわった。宗閑が造った薬酒が「養命酒」と名づけられたのは慶長七年(一六〇二)のことであったという。命名のいわれは「上薬は命を救う」(『神農本草経』)から採られたといわれる。折しも美濃関ヶ原の合戦で勝利した徳川氏が江戸に幕府を開く前夜のことであった。

◆慶長八年、塩沢宗閑は養命酒を徳川家康に献上した。健康マニア家康も大喜び。「天下御免万病養命酒」という大仰な製造免許までくれた。この時、養命酒のトレードマークである「飛龍」の印をもらったという説もある。

◆養命酒は大評判をとり、「飲むと瀕死の病人も甦る」とまでいわれた。いささかオーバーではあるが。やがて塩沢家も酒造で大きくなり、初代宗閑のような無欲恬淡な人物はいなくなり、「天下御免万病養命酒一合銀三匁也」とまでいわれ、一子相伝の秘蔵の酒となってしまったらしい。後には尾張藩主が製法を聞いてきたが、塩沢家ではとうとう教えなかったという。プレミアがついたおかげで、昭和初期にいたっても特級酒の三倍ほども価格が高かったといわれている。ちなみに会社が組織されたのは大正十二年のことである。

◆手許に長野県の地図があれば、伊那地方の部分を見てほしい。上伊那郡中川村。村役場周辺に塩沢宗閑が庄屋をつとめていたという大草があり、天竜川沿いには養命酒工場があるのがわかるだろう。ちなみにここは、南北朝時代、南朝の皇子宗良親王が拠点とした場所でもある。事業が大きくなろうが、「ここは気候風土が適しているから」と言った本草学者伊藤恕雲の言葉だけは頑固に守ってきたらしい。

◆ところで、養命酒には二種類の製品があることを御存知だろうか。味が違うわけではない。販売ルートが薬品系と食品系の二本を有しているため、「薬用」の表示があるものと、ないものがあるのだ。成分はまったく同じである。

◆塩沢宗閑や伊藤恕雲の事蹟はあまり伝わっていない。実際のところ、雪の日の邂逅があったのかどうかもわからない。名利を顧みない人々はその名と行為を後世にとどめ、草莽の中に隠れてしまったのである。養命酒を前に「自分だけは健康で」とは思わずに「今日も養命酒が飲めてありがたい」と塩沢宗閑への感謝の心を念じれば、効果も倍増するのではないだろうか。そして、伝説的な創生の物語に思いをいたしながら、食前の一杯を味わうと、また格別かもしれない。




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