141「ターミネーター日根野」



日根野弘就(?―1602)

徳太郎、雄就、五郎左衛門、従三位備中守。治部卿法印あるいは空石と号す。美濃国石津郡五町村の出身。一説に和泉国日根野の出であるという。斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕える。天文十一年(一五四一)、土岐頼芸を攻めて国外へ逐う。斎藤家滅亡後は浅井氏に仕えたが、刃傷事件をおこし出奔。以後、織田、豊臣と歴仕。天正十二年(一五八四)、弟重之とともに小牧・長久手の合戦に従軍。のち秀吉の忌避に触れて浪人し、天正十八年頃、再出仕。尾張・三河で一万六千石を給された。晩年、高野山で出家した。

◆日根野形(ひねのなり)の冑、というのを耳にされたことがあると思う。冑の鉢を中央と左右打ち延べ、矧合せとした三枚張。高眉庇に真向(鋲で打った冑の全面の部分)を打ち止めにして腰巻の板をめぐらせた実戦向きの頭形(ずなり)の冑である。厳密には、日根野鉢と日根野シコロ(札を半輪状に連ねて鉢の後に垂らしたもの)を指す。つまりこのパーツが用いてあれば、日根野形の冑ということになるのだ。

◆日根野備中守弘就が愛好した冑の形状を、とくに日根野形と称したといわれるが、実際のところ確証はないらしい。意匠に秀でた細川三斎(忠興)がこれを模倣して独自に考案したものを三斎頭形の冑といったが、あるいは、三斎頭形以外の頭形の冑を区別するために名づけられたものとも考えられる。雑賀鉢とも混同されるらしい。ともあれ、日根野弘就の名を史上にとどめているのは、この当世冑の呼称に拠るところが大きい。

◆日根野弘就は弟常陸介重之とともに美濃斎藤家を代表する豪の者だった。戦場働きだけではない、斎藤義龍は敵対する父道三の子どもたち、つまり義龍にとっては弟たちを殺害している。その討手が弘就だった。その描写は『信長公記』に記されている。

長井隼人正巧みを廻し、異見申す処に、同心にて、則二人の弟共新九郎所へ罷来るなり。長井隼人正次の間に刀を置く。是を見て兄弟の者も同じごとく次の間に刀をおく。奥の間へ入れ、態と盃をと候て振舞を出し、日根野備中、名誉の物切れのふど刀、作手棒兼常抜き持ち、上座に候つる孫四郎を切臥せ、又、右兵衛太輔を切殺し、年来の愁眉を開き、則、山下にこれある山城道三かたへ右趣申遣す処、仰天を致し、肝を消すこと限りなし。

まあ、騙し討ち同然だったわけだが、前国主の子がいっぺんに始末されてしまったわけで、さすがの蝮の道三が魂消たほどショッキングな事件だった。

◆のちに浅井家で刃傷事件をおこし、豊臣秀吉の怒りにも触れて、いずれも出奔することになる弘就だが、何となく血生臭さを身にまとったような人物だったのではないか。巷説では、武者修業に出たような記述が散見されるが、もし本当にそうであるならば、鍔や鐙などを製作した宮本武蔵のような兵法者の先輩と言えるのだろうか。

◆その弘就の最期は、実は自殺であったという。世間の噂では、関ヶ原の合戦の折、石田三成に通じていたためで、それが露見することを畏れて自裁したのだという。その死に様が凄まじい。腹を切って、腸をつかみ出し、エイヤッと庭の木にひっかけた。おそらく、庭に面した部屋か縁側で切腹したのだろう。

◆これで最期と思いきや、弘就の心気はいまだ乱れず。そのまま二階へ上がって、書状などを調べて不要なものを破って、さらに念入りに縄で縛った後、火中に投じた。普通、身辺整理をしてから切腹するのが順序かと思うが、弘就の場合は逆だった。あるいは腹を切ったあとで「あ。あの文書を始末しておくのを忘れた」と思い至ったのか。

◆整理をすると誰でも経験はあると思うが、時間がたつのが実に早い。そうこうしているうちに、明日になってしまった。けれども弘就の心気は昨日と変わらず(繰りかえすが、彼の腸は庭の木にひっかかったまま)。あまつさえ、近侍の者に「まだ死にそうにない」とぼやく始末。晩になってようやく苦しみが生じ出した。「いよいよだ。わしが死ぬのも近い」と弘就はついに自らの首を刎ねて息絶えた。

◆三島由紀夫は映画『憂国』で日根野弘就に負けないくらい長い割腹シーンを演じているが、弘就のことを知っていれば、きっと演じたがったのではないだろうか。それとも弘就の緊張感のない切腹は、三島の美学とは相容れないだろうか。




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