140「四本目の矢」



穂井田元清(1551―1597)

少輔四郎、治部大輔、伊予守、従五位下。毛利元就の四男。母は側室乃美氏。穂井田元資の名跡を継ぎ、穂井田(または穂田)を姓とする。尼子征伐や羽柴秀吉の中国攻めに従軍。天正六年(一五七八)には山中幸盛が拠る上月城を攻略。のち二男秀元が宗家毛利輝元の養子となったため、毛利姓に復帰。広島城の普請などを勤め、輝元の信任が厚かった。慶長二年(一五九七)、桜尾城内で死去。法名洞雲寺殿笑山常快禅定門。室は来島通康の女。

◆毛利の三兄弟、隆元、元春、隆景は元就の正室を母とし、兄弟の中でも特別な存在だった。元就自身、弘治三年(一五五七)にしたためた三子教訓状は、この三人に宛てたものであるし、同状の中で彼等の弟たちについて次のように記している。

「唯今虫けらのやうなる子ども候。かやうの者、もし〜此内かしらまたく成人候ずるは、心もちなどかたのごとくにも候ずるをば、れんみん候て、何方之遠境などにも置かるべく候。又ひやうろく無力之者たるべきは、治定之事に候間、さ様之者をば何とやうに申し付けられ候共、はからひにて候〜」

◆つまり、虫けら同然の幼児がいるので、人並みに育ったならば、憐れみをかけてどこか僻地にでも領地を分けてやってほしい。が、たいていは魯鈍、無力な者に決まっているから、そのような者はそなたたち三人の計らいに任せる、といった意味だ。

◆元就から虫けらと酷評された弟たちには、この時期、四男元清(七歳)、五男元秋(六歳)、六男元倶(三歳)がいた。筆頭の元清にしてからがすぐ上の兄小早川隆景とは十八の年齢差があった。元就としてみれば、すでに立派に成人している三兄弟の情に訴えるような形で「虫けら、ひょうろく」と書いたのかもしれない。

◆長じて、備中の国人穂井田元資の養嗣子となった元清は、毛利氏の備中経略に従い、猿掛城の守備についた。織田信長による中国征伐が本格化すると、織田に通じた宇喜多直家と戦ってこれを敗走させている。また、敵中に孤立した桂広繁の備中嶋城を自ら三千の兵を率いて救援し、羽柴秀吉軍の囲みを解いている。こうして、甥の輝元や兄たちへの助力を惜しまず働いた結果、二男宮松丸(秀元)が輝元の養嗣子に決定した。元清も晴れて毛利の名字を名乗ることになった。

◆やがて、豊臣秀吉の治世となった。秀吉は毛利家を重んじたが、一族中とくに元清の子秀元を可愛がった。朝鮮出兵時には、病気となった輝元のかわりに秀元が指揮をとったが、やがて秀吉はこれを呼び返し、かわって実父である元清が軍事指揮を任された。

◆その際、秀吉は元清におみやげを催促した。

秀吉「虎を捉まえて、送ってほしい」

朝鮮へ渡った元清は、さっそく虎を捕獲して二頭を秀吉に贈った。元清が捕らえた虎は京洛の評判となり、天皇の御覧にも供された。

◆秀吉にもっとも信任された毛利一族は小早川隆景、続いて元清・秀元父子であったろう。二兄すでになく、隆景もすぐ下の弟を頼りにしていたと思われる。秀元の毛利宗家養子決定は、秀吉サイドからの秀秋養嗣子問題をかわす手段として、隆景・元清兄弟が練った政略ではなかったか。結局、毛利家への秀秋入嗣は成功せず、隆景が小早川家に迎えた。その隆景が慶長二年六月に没すると、後を追うように元清も一ヶ月後に逝去した。

◆ところで、『陰徳記』は隆景、元清ともに死期をさとった二人の、こんなやりとりを載せている。

隆景「気分はいかがでござるかな」
元清「何となく気鬱で、心細い心地がいたしまする。かような有様ではわたくしがお先に参るやもしれません」
隆景「いやいや、わしのほうがおまえより先に逝くだろうよ。もうその時まで五十日もないだろう」

やがて、隆景の言葉どおり、まず隆景が没し、一ヶ月たらずで元清も亡くなったのであった。

◆三人の兄に劣らぬ働きを見せた元清を、世は「毛利の四ッ矢」と評したという。




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