138「シリーズ浅井一族・信長になれなかった男」



浅井長政(1545―1573)

新九郎、賢政、備前守。久政の子。永禄三年(一五六〇)、父の隠退により家督を継承し、同盟関係にあった六角氏と断交。野良田の合戦で六角氏を破る。織田信長の妹お市を娶り、織田氏の上洛にも寄与したが、元亀元年(一五七〇)、信長の朝倉攻めを契機に離反。姉川の合戦で織田・徳川連合軍に敗れた後も朝倉義景・武田信玄らと提携し、信長包囲網を布いた。天正元年(一五七三)、信長によって居城小谷が陥落し、自害した。

◆織田信長の妹にして、戦国随一の美女ともいわれるお市の方を妻に持ったことで、ずいぶん得をしているのではないか。それが浅井長政に対して筆者が抱く印象である。

◆長政の胸中など、推測でしかないのだが、信長の越前攻めから小谷落城までの三年余の間、ついにお市を離縁しなかったことは紛れもない事実である。実際、長政は最初の夫人平井氏を六角氏の断交とともに実家に送還している。それに倣えば、お市も越前攻めの際、岐阜へ送り還されてしかるべきだった。しかも、豊臣秀頼における千姫のように人質か政略の道具に使われた形跡もない。それどころか、信長との同盟を破棄してから三年もたって、長政はお市に三女お江を産ませている。正面から敵対する者の妹を手放さなかった長政の心理は、やはり「美人の妻に惚れていた・・・・・・」というあたりが一番シックリくるのである。

◆長政が滅亡を迎えるその時までお市を手許に置いていたからこそ、お市母娘の落城時の脱出劇というクライマックスが生きるわけで、その別離を通じて、見る者をして浅井長政への共感が湧いてくるのである。もし、お市をもっと早い時期に送り返していたならば、三姉妹という美しいオマケも揃わず、長政の人気はさほど高いものにはならなかったのではないだろうか。

◆織田信長の義弟、業半ばの若すぎる死、天皇家や徳川将軍家にのこった血脈。これらは浅井長政を特別な存在にしなければすまないような設定である。

◆浅井長政の戦歴は軍記『浅井三代記』や『江濃記』に描かれている。その登場は鮮烈である。長政は十歳にもならない頃から、家中の名のある者を敬い、祖父亮政の功労を聞き、また父久政への批判を庇いだてするほどだったという。そこで、浅井家中や近隣では「この若君は世の常の凡人ではない」と評判しあった。

◆長政が十二歳になった時、久政の命で江南の六角氏と縁組を結ぶことになった。相手は六角家臣平井加賀守定武の娘である。長政は「六角の下風にたつなど口惜しい」と思い、彼を信奉する家臣たちと図って、平井加賀守の娘を江南へ送り返してしまった。「こちとら天下に志を持っている。ちっぽけな国さえ治めかねている平井の娘などを娶れるものか」と、長政らしい理由をつけて。

◆当然、メンツをつぶされた六角義賢は怒った。永禄二年(一五五九)、浅井と六角の抗争が再開された。勢力からすれば、近江南半国の守護六角氏のほうが強大である。その劣勢をはねのけた長政の輝かしい武勲「野良田の合戦」は永禄三年八月におこった。軍記ものでは、緒戦に勝利した六角勢の油断を衝き、本陣を急襲するという、三ヶ月前にあった桶狭間合戦によく似た描写になっている。奇しくも同じ年におこったふたつの合戦で歴史の表舞台へ登場した信長と長政。そこに軍記ものの作者は目をつけたのかもしれない。

◆信長のような鮮烈なデビューをさせ、早くから天下への志を持っていたなどとする点、徳川氏における松平清康のような英雄伝説の醸成がうかがえないだろうか。そして、その影には、数奇な運命を辿ったお市とその三人の娘、彼女等の実家である江北浅井氏への近江人の郷愁があるような気がしてならないのである。

◆だが、史実の戦国大名浅井氏。それは、近江という箱庭の中に屹立した「高い城」小谷城から外界へ出ることがついに叶わなかった一族であった。




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