136「シリーズ浅井一族・高い城の男」



浅井亮政(?―1542)

新三郎、備前守。直種の男。近江小谷城主。正親町三条実雅の嫡孫という家柄といわれるが、疑問。浅井直政の女蔵屋の婿となり、浅井宗家を継承。大永三年(一五二三)、主家京極氏の継嗣問題に介入して実権を握り、天文三年(一五三四)頃、江北の地を掌握した。越前朝倉氏、一向衆と提携し、京極および六角氏と戦った。側室には「大方殿」と呼ばれた久政生母の尼子氏がある。

◆戦国時代を代表する城郭は数あれど、実際に攻城戦にさらされ、落城という劇的な幕切れをもって終焉を迎えた城といえば、近江小谷城は少なくとも五本の指には入るのではないか。周知のように、浅井氏がこの城の主であったわけだが、堅固な山城であり、日本の中心に位置する近江にあって、信長・秀吉・家康の三雄とも関わりが深い。加えて戦国の花とも称されるお市とその娘たちの悲劇と話題性にも事欠かない。

◆近江、とくに東部から南部にかけては琵琶湖岸の平坦な沃野がひろがり、ポツンポツンと小山が点在している特異な地形だ。小谷城はこの平野のほぼ北端に位置し、背後に急峻な山稜をひかえ、標高四九四メートルの山腹一帯に築かれた大城郭である。

◆この堅城に拠り、四方の敵をひきつけつつ、後詰めの到着を待つというのがいつしか浅井氏の基本戦略になっていったのではないか。具体的に言えば、対六角・京極であり、後詰めは越前朝倉氏である。この方針が堅持された結果、浅井氏は織田氏のような進取の気風が醸成されることもなく、積極的な大名領国形成という方向には向かわなくなった、とは言えないだろうか。

◆だが、浅井氏はこの小谷城にそもそも居ったわけではない。大永年間に主家京極家でおこった家督争いに介入し、権力基盤をかためるために居城とした経緯がある。正確な築城時期は不明だが、だいたい大永五年頃までになされたといわれている。亮政は「仁政を施し、武儀をつとめ、家を興し、江北皆手裏に属す」という勢いであった。仁政というのは粉飾としても、実際に天文七年(一五三八)に、亮政は領内に九ヶ条から成る徳政令を発しており、この影響は六角領内にも及ぶほどだったという。戦乱で荒れ果てた領地のカンフル剤として作用したのであろう。浅井氏の台頭は、京極氏や近江南半分の守護六角氏の警戒心を煽った。

◆京極・六角といえば、室町幕府草創期の大物・佐々木道誉を祖とする名門。一方の浅井家は、正親町三条氏の末孫と称しているが、はなはだ出自があやふや。その勢力伸張は守護のメンツにかけても捨て措くことはできなかった。

◆浅井亮政は一三五〇余騎をもって小谷城に籠城した。これに対する六角氏の寄せ手は八千余。眼下に展開する大軍勢を見て不安にかられる家臣たちを、亮政は叱咤激励する。

亮政「安心いたせ。この城を築いてより、今日のような事態については覚悟していたことだ。そのために空掘りを深くし、土を引き落として高さ四丈もの崖をこしらえたのだ。敵が近づいてきたならば、上から大木、巨石を見舞ってやれ」

◆亮政は、大木や石を要所々々に配置し、縄で固定しておいた。敵がいよいよ迫って来たところを見計らって、縄を切ると一斉に敵の頭上に雨あられと降り注ぎ薙ぎ倒す仕組みになっていた。何やら千早城の楠木正成のようだが。

◆浅井氏はよく健闘して、京極・六角からの自立を貫いた。が、やはり小谷城から下りることはせず、結果的に戦国大名とよばれるほどの大勢力には育たなかった。

◆実際、亮政は果敢に六角氏と抗争したが、しばしば敗れた。やがて、長政という逸材が一族にあらわれ、野良田表の合戦で六角氏を破ったが、その過程にいたるまで、亮政が防戦に徹して勢力を維持したことは特筆してよいと思う。亮政の夫人蔵屋も「我が家にては金銀を宝とせず、慈悲を以って宝となすべし」と述べ、質素な生活を送ったという。亮政の奮戦の裏には内助の功があったともうかがえる記録である。

◆亮政が何のために要害小谷城を築いたか。それは京極、六角らの攻撃を防ぐためだった。信長との提携によってその脅威が薄れた時も、しかし浅井一族はこの城を出ようとは考えなかったらしい。亮政は結局、この小谷城中で死没する。小谷城が炎上し、浅井氏が滅亡するのはそれから三十余年後のことである。




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