133「老女に見えた男」



武井夕庵(?―?)

肥後守、二位法印、爾云、妙云。実名は不詳。美濃土岐氏、斎藤氏に仕え、のち織田信長の右筆および奏者役となる。外交面でも武田信玄、小早川隆景、吉川元春らとの折衝にあたった。天正三年(一五七五)、二位法印に叙任。天正九年の馬揃えに参加した時は七十余歳であったという。天正十三年頃までの存命が確認できるが、没年不詳。

◆長谷川町子の作品に「いじわるばあさん」がある。実写ドラマでは青島幸男が扮した。その憎々しいキャラクターは、女優が演じるよりピッタリで、青島といえばいじわるばあさんを思い出す。男性のゴツゴツした骨格がいじわるばあさんのキャラクターに適ったのだろう。

◆天正九年、織田信長が京都御馬揃えを催行し、近衛前久が馬選びに夢中になったり、山内猪右衛門が妻の才覚で得た名馬で参加するなど、さまざまなエピソードを生んだ。武井夕庵も参加したが、この時はもう七十歳代。ヨボヨボとした感じで周囲を危うい思いにさせたが、彼の扮装は山姥であった。

◆小袖を折り返し白髪をかき立て、鞍にとりついているところは本当の老女が馬に乗っているようで危なっかしいものだった、と『当代記』は記している。さぞや見物人の笑いを誘ったのではないだろうか。

◆ユーモラスなおのれの姿を、しかし、夕庵は謹直な姿勢でもって演じていたのではないか。周囲は笑うが本人は大真面目、というやつである。

◆諸書には武井夕庵がたびたび信長に諫言したという逸話が記録されている。中でも織田家の侍たちが武事を専らとし、「形貌進退我意の恣」で、殺伐としていて風儀が悪いというので、夕庵が「礼譲を立て、治道を明かにせん」と信長に意見した。「形貌進退我意の恣」とは、前田利家などは夕庵から見れば、眉をひそめる存在だったのではないだろうか。

◆で、信長は夕庵の諫言を容れて、年始の挨拶をはじめとする礼儀作法を家臣に学ばせた。講師はもちろん夕庵である。別に信長は家臣たちが御行儀よくすることを期待したのではあるまい。礼節によって家中を統制できると考えたのだろう。数年後、上洛した信長軍団の規律が厳正だったのも、夕庵の功に帰するものかもしれない。

◆そのほか、佐久間信盛とともに比叡山焼き討ちを思いとどまるよう進言したとか、越前・加賀での一向衆虐殺の際にその非を説いたとか、宮中の節会・礼楽の保護を訴えたりとか、枚挙にいとまがない。中でも、信長が好んだ茶の湯について、あまり夢中になると肝心の武道のほうが廃れる、と言っている。

◆もっとも、天正六年元旦、安土城で催された「朝のお茶会」では夕庵も座に連なり、しかも高い席次だったようだ。『信長公記』によれば、信忠についで名が記されており、これは家老林佐渡守よりも前である。もっともこの通りの席次であったとはかぎらないが。

◆前述の夕庵の諫言に関するエピソードには儒教くささもあり、このあたりは『信長記』の作者小瀬甫庵の意向も反映されていると思われる。全部が全部、事実ではないだろう。『信長記』には桶狭間合戦直前に、信長の命のより熱田社に願文をしたためた逸話が登場するが、これはどうやら甫庵の創作らしい。だが、あの気難しい信長に重用されたであろうことは察しがつく。

◆ルイス・フロイスは武井夕庵を「信長の書記」と記した。が、彼の能力が文書作成以外に多方面で発揮されたことは確かである。信長の諫言役というと、「爺」と呼ばれる平手政秀あたりが時代劇では定番となっているが、実際のところ、夕庵は、信長に対し諫言できる数少ない人物だったのであろう。今後、信長を描く際、面白いキャラクターになり得ると思うのだが。

信長「余は、きさまがずっとババアかと思っておったぞ」
夕庵「ババアとは薄汚い。(上体をそらせて)媼と仰せなされませ」
信長「たわけ。そちは男であろうが」

◆日本人は今、注意の仕方が下手になっている。下手に注意するならしないほうがマシと無関心を装う。こうして、注意する側・される側ともに「不馴れ」になっていく。夕庵がどのように信長に諫言したのか、知りたいと思う。




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