132「自鳴磐(とけい)物語」



津田政之(?―?)

助左衛門。安芸国出身。父は織田信雄の家臣綱之で、五百石取りの武士であったが、織田家没落後、安芸毛利氏に仕える。政之の代、関ヶ原敗戦による毛利家減封の際、致仕したか。京都で浪人中、徳川家康の所持する時計を修復。以後、松平忠吉付きとなり、のち尾張徳川家の竹腰山城守に仕えて藩の御時計師・鍛治職頭となった。一説にキリシタンであったと伝えられる。

◆徳川家康は、土臭いイメージも手伝って、織田信長、豊臣秀吉に比べて進取の気風に欠けている、と見られがちだ。だが、先輩二人に劣らないほど海の向こうから渡ってくる事物には目がなかった。朝鮮通信使から贈られたという時計「徳川Gショック」も格別お気に入りであった。

◆信長も宣教師から時計を贈られたが、メンテナンスできないという理由で返却し、かわりに南蛮帽と孔雀の羽を受け取った。茶器などの名物にはさほど関心を払わない家康も、こと実用品ともなるとたちまちモノマニアの本性を発揮する。メンテナンスのことなど念頭になく、とにかく贈られた「徳川Gショック」のメカニズムに魅了されてしまった。こういう輩が日々、あれこれいじくっていると・・・・・・壊れることになる。マーフィーの法則にはないかもしれないが、「機械は自身をメンテナンスできない人間を嫌悪し、その者に触れられた際、しばしば自らの意志で活動を停止する」のもまた真実である。

◆大切な時計が止まってしまい、家康もショックで活動を停止してしまった。

家臣「い、一大事じゃ。殿を動かせる者はおらぬか!」

◆津田というから、織田家では譜代の家臣でもあったのであろうか。主家流亡後、安芸毛利家を浪人し、京都でブラブラしていた男に白羽の矢がたった。津田助左衛門政之。細工の巧みなことで評判をよんでいた。

◆徳川家の命を受け、駿河へ降った津田政之はフリーズしてしまった家康には目もくれず、さっそく壊れた時計の復元にとりかかった。

◆津田政之は壊れた時計を復旧したのみならず、分解して仕組みを理解するや、「徳川Gショック2号」を製作し、献上した。このあたりは鉄砲といい、コピーを作ることに長けた日本人の特性が発揮されている。壊れた時計がなおったのみならず、倍になって戻って来たのだから、家康もたちまち再稼動(元気になった)。褒美として津田政之に「時服」を与える出血大サービス、さらに八十石十人扶持もの「大禄」で召抱えることにした。

◆津田政之が家康の時計を直したのは慶長三年(一五九八)もしくは慶長十年といわれている。場所は駿河であったというから、後者を採りたい。今日、津田政之が製作した「徳川Gショック」のレプリカは伝存しない。かわりに元和六年(一六二〇)に製作したといわれる「二挺天符櫓時計」が刈谷市郷土資料館に収蔵されている。これは昼と夜の境目、つまり明け六つと暮れ六つで昼モード・夜モードに切り替わるという機能をもっていた。

◆尾張は山車からくりの宝庫である。現在、愛知県には祭りの山車が一三三以上、からくり人形は三七〇体以上もあるという。これは代々、尾張藩の御時計師をつとめた津田助左衛門家の功績といえる。彼らの和時計の技術はからくり人形の発展に寄与したのである。

◆『尾張志』は伝えている、「自鳴磐、俗に時計という。常盤町津田助左衛門是をつくる。先祖助左衛門京都に住せし時、家康公へ朝鮮国より奉り自鳴磐毀せしかば、洛中に触れて、それを修復すべきものを尋ね給ひしに助左衛門細工を好みければ、深田正室と議して駿府に参り直して奉りけるが、其間にあたらしく一飾を造りて奉れり。(中略)日本時計師の元祖ともいふべし」と。

◆津田政之はこうした技術をイエズス会宣教師から学んだといわれている。彼もキリシタンであったという説もあり、その墓所であったといわれる地には亀甲十字紋を刻んだ墓石が散見されるという。




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