128「氏真公の赤薬」



一宮随波斎(?―?)

随巴。駿河国用宗城主。今川家の軍配者。はじめ足利義輝に仕え、のちに駿河に下って今川氏に仕えた。氏真の御伽衆に連なったともいう。永禄七年(一五六四)に上杉謙信が下総臼井城を攻めた折、城内にて防戦指揮をしたとも伝えられている。永禄十一年、武田信玄との合戦に従軍し、この役で戦死したともいう。一説に武田信虎の甥で、信玄の従兄弟であるというが不明。室は甲斐の武藤三郎右衛門尉の後家であったといわれる。

◆軍配者であったという一宮随波斎であるが、その実態はよくわからない。弓術を伝える家柄であったともいう。「合戦の弓というものは、二、三間の距離で相手を射倒すようにせよ」と弟子に語ったという。

◆一宮随波斎は今川義元・義真に仕えて、ほうぼうへ使者として赴いたらしいが、その活動も広範にわたるし、謎めいた出自など虚実ない交ぜになっているような感は否めない。今川家から派遣されて下総臼井城攻防戦に参加すること自体が解せないし、京都の将軍家に仕えていた時期と駿河に下った時期も混在している。臼井城内に軍配者がいたというのは各種軍記に語られているが、おそらくは随波流の者(臼井入道などと記されている)がいたということなのだろうか。

◆上の真偽はおくとして、頃は永禄四、五年。京都では足利義輝が将軍となっていた時期にあたる。義輝は馬が好きで秘蔵を何頭も所有していた。このうち特に自慢の一頭が病気になった。天下の名馬であるから、家臣たちも大慌て。四方八方手を尽くして伯楽などに手当てをさせた。しかし、いっこうにはかばかしくなかった。

◆ここにみすぼらしい身なりのひとりの男が公方邸をたずねてきた。この男こそ一宮随波斎であった。随波斎は公方の馬が病気であるのを聞き、「それではわしが診て進ぜよう」と申し出た。

◆馬番の者たちもすでに藁をもつかみたい気持であったので、この男に託してみることにした。随波斎は馬を三条河原までひかせていき、馬体をよく洗わせた。馬を洗うのは、発汗による垢などの汚れを取り除き、疲労による血行を回復してやるためだと言われる。その後、懐中から取り出した丸薬を馬に飲ませた。

一宮「これはわしが調合した特製の薬じゃ。これを毎日飲ませなさい」

◆果たして、随波斎処方の薬を投与された義輝の馬は五日ほどしてもとのように元気になった。これを聞いた義輝は大喜び。さっそく一宮随波斎を接見し、これに褒美をとらせただけでは満足できず、

義輝「聞くところによると、そのほうは今川家にも仕えたことのある弓馬軍律の達者だそうだな。いかがであろう、余の馬をなおした秘薬の処方を教えてはくれぬか」
一宮「公方さまの仰せなれば、いと易きことにござります」

◆随波斎は物惜しみすることなく、秘薬の調合方法を義輝に教えた。しかし、義輝はこれを秘中の秘として世に出すことはしなかった。しかも、間もなく義輝は凶刃に倒れたため、上方ではついにこの秘薬の処方はひろまらなかったのである。

◆義輝の死後、駿河へ降った随波斎は、今川氏真に仕えた。氏真は誰から聞いたものか、随波斎を呼び出し、馬の秘薬について処方を教えて欲しいと言った。随波斎は氏真に対しても快く処方を教授した。

◆氏真も随波斎と同様、欲のない人物だったようである。秘薬の処方をマスターするや、庶民にもこれを教えた。この薬はたいへん効くというので、たちまち評判となり、「氏真公の赤薬」と呼ばれて瞬く間にひろまった。

◆随波斎はその後も今川家にとどまり、用宗城主となって、武田信玄の駿河侵攻の際、これと戦って討死したとも伝えられている。この時、今川家中では武田方に寝返る者や逃亡する者が多かった。おそらく、誰にでも秘薬の処方を教えたことに見られるように、損得で動くような人物ではなかったのであろう。随波斎の秘薬がその後、長く伝えられたかどうかはさだかではない。




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