126「スタア誕生」



清野長範(1573―1634)

平田助次郎、周防守。会津蘆名氏家臣平田輔範の男。後に上杉家に仕え、文禄元年(一五九二)、清野氏の名跡を継ぐ。慶長三年(一五九八)、上杉家の会津移封により伊南城代となり、一万一千石を領した。米沢移封後、三千三百石に減じられる。寛永十年(一六三三)、直江兼続の腹心や与板衆によって独占されて来た米沢奉行に任じられ、いわゆる直江体制から藩政を新たな段階へ導いた。

◆仕えにくい主人というと、織田信長などはまさに・・・・・・と思う方も多いだろう。上杉景勝も相当に仕えにくい主人だったようである。彼の代には勘気を蒙って追い出された者数知れず。景勝自身、青筋をたてて終始無言であったというから、家臣たちは敵よりも主君のほうを恐れたともいう。

◆そんな景勝の性格だからこそ、執政直江兼続とのコンビネーションは絶妙、という意見も出るのであろうが、ここにもうひとり、景勝に大変寵愛された人物がいる。今回の主人公である清野周防守長範である。

◆清野氏は北信濃の国人だが、長範はもともと蘆名氏の家臣平田氏の出身である。天下統一を目前にし、奥羽仕置を視野に入れた豊臣秀吉は、蘆名領会津に攻め込んだ伊達政宗を牽制するため上杉景勝に会津救援を命じた。

◆この時、蘆名側から人質としてひとりの美少年が上杉陣中に送られてきた。平田助次郎、のちの清野長範である。たちまち世話係の木戸玄斎はこの美丈夫のとりこになってしまい、二人はデキてしまった。史書にいわく、「長範年十六、父の證人として御勢の陣中にありしか、人となり容兒甚美麗にして且つ才智あり。軍監木戸玄斎深く之を愛し共に艶交を結て情好甚渥し」と。

◆やがて、秀吉の奥羽仕置が済んだが、木戸玄斎は平田助次郎と別れたくない。景勝に願って上杉家に召抱えてもらおうと思った。かくして、面接試験にのぞんだ助次郎であったが、景勝も木戸同様、彼の美しさのとりこになってしまった。史書にいわく、「公は長範が美兒なるを御覧あって大に悦び玉ひ、即日命あって御近習仰付られ昼夜御側を放し玉はず。御寵幸、日に渥し」といった具合。

◆木戸玄斎にとっては、トンビに油あげを攫われてしまった格好だが、相手が主君では仕方がない。なに、初穂は自分が頂いたのだと自ら慰める。

◆平田助次郎は、やがて北信濃の名族清野氏の跡が途絶えたのを襲って、清野周防守長範と名乗った。景勝の信任は相変わらず篤かった。冒頭にも書いたが、景勝は非常に怒りっぽい性格であったらしく、彼の代に勘気を蒙って致仕した者は数知れず。だが、清野長範は一度も景勝の機嫌を損ねることはなかったという。またしても史書にいわく、「初め景勝公は御性厳烈におわして御近侍の臣往々と罪譴を蒙り終りを全くするは少なかりしに、長範始終恩寵衰へず。常に出頭第一たり」

◆実際、長範はかなりの名士だったらしく、のちに江戸幕府に求められて上杉家が高家吉良氏や畠山氏と共同で作成したと伝えられる『川中島五箇度合戦の次第』は、「慶長二十年(一六一五)に清野助次郎ほか一名が筆記した覚書を元にした」ということになっている。本当に長範がこれを書いたかは定かではない。ついでに言っておくと、『謙信公御書集』を筆写したのも平田氏で、清野長範の兄の末裔にあたる。越後・信濃中心の上杉家臣団の中で会津蘆名遺臣としてこれほど政権の中枢にくいこんだ事例はあるまい。

◆景勝は臨終の時、導師に法音寺能海法印を指名した。そして、枕頭に長範を呼んで、おまえも能海法印に導師となってもらうよう遺言した。同じ引導を渡されれば、来世でまた会えると思ったのであろうか。

◆現在、米沢市を歩いていると、周防殿堰や周防殿橋といった名前が残っていることに気づくだろう。「周防殿」とは長範のことである。現在、米沢の祖型は直江兼続がつくったともてはやされているが、清野長範の事蹟はあまり顕彰されていないようである。「周防殿」という名がなぜ残ったのか、その意味を問うてみるべきであろう。




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